第8話 乙幡叶歌 陥穽②

「へいへい」

「もちろんお土産も持ってくること」

「俺そこらへんのセンス壊滅的なんだけど」

「知ってる」

「なら気負わなくていいや。……つーか、叶歌」

「なあに」


 ちょっとだけ溜めてから、ひなとは続けた。「寂しいの?」自意識過剰。うぬぼれ。そんなわけないじゃん。三つ候補を用意してから、言葉にした。「…………うん。寂しい」


 寂しいよ。すごく、寂しい。なんとなく、ずっと一緒に遊んでいくような気でいたから。ひなともそう思ってくれてるんじゃないかって、勝手に想像してたから。それが違って悔しいし、私の入れ込み具合の方が大きかったみたいで恥ずかしい。……でも、そんなのどうでもいいくらい、離れるのが寂しい。

 もう気が向いたときに会えない。学校がないから、毎日自然に顔を合わせられない。帰りにふらっと好きな場所に立ち寄れないし、「また明日」って言えない。当たり前になりかけてた日常が突然ぷつっと途切れることに、まだ全然頭が追い付いてない。なのにひなとは何事もなくそれを受け入れていて、一人だけ余裕なくなってる私がばかみたい。


 下唇を噛む。言葉にして初めて、自分の感情が大変で深刻なのがわかった気がした。ひなとのことだから、どこに行ってもそれなりに上手くやるんだと思う。男の子の友達を作って、女の子とも仲良くなって、そのうちの何人かを好きになったり、逆に好きになられたりするのかもしれない。そうなるのは生きていたら当たり前で、文句なんてない。――ただ、そこに私が一切関われないっていうのが、寂しくて悲しいことだと思うんだ。

 きっと、全部事後報告になる。誰と仲良くなったとか、誰と喧嘩したとか、誰といい雰囲気になったとか、誰と付き合ったとか、誰と別れたとか。なにもかも終わった後で、「そういえば」みたいなテンションで言ってくるひなとの姿が簡単に思い描ける。その現実についていける気がしなくて、だからといって「誰と仲良くなりたい」とか「誰と付き合いたい」とか相談されるのも、受け入れられそうにない。――ううん、それくらいならまだよくて、最後にはその事後報告すらなくなる。ある日突然ぷっつり途切れて、それっきりになる。


 許せないなと思った。


 彼はきっと、私がいない場所で幸福にも不幸にもなる。考えれば当然のことで、ほとんどの人間が私の関わらない場所で毎日幸福と不幸の間で揺れている。――その当然を侵したかった。ただ一人、境雛人の幸福に関してだけは、自分の目の届く範囲にないと我慢ならなかった。


 幸せにならないで欲しい。私の見ていない場所で。


 不幸にならないで欲しい。私の見ていない場所で。


 でも、それはなぜ――――――――?


「…………ぁ」


 背中に、ぎゅっと力強い圧を感じた。ひなとに抱き締められていると気が付くまで、時間がかかった。感覚が鋭くなっているみたいで、手のひらの形、関節の位置、指の太さ、長さ、爪の伸び具合まではっきりわかる。

 触れた場所が、じんわり熱を持つ。その熱が血流に乗って頭まで昇ってくる。これまでの人生で感じたことのない息苦しさに襲われる。体を締め付ける服や下着を全て脱ぎ捨てたい衝動に駆られる。衣服の厚みすら鬱陶しく思ったのは、たぶん生まれて初めてだった。


 悪いことを、考えついた。私を浮かせる熱が、今日を今日で終わらせない思い付きを連れてきた。


「ひなと」


 耳元でささやくと、彼がかすかに身をよじった。その様子に熱が昂る。頭の大事な部分が焼け焦げて、普段なら近づくこともない立ち入り禁止の規制線を、今は軽々飛び越えられる。


 これから私がするのは買い物。でも、支払いにお金は使わない。「うち、かなり田舎だからさ。まだ結構物々交換の風習が残ってんだよね。野菜と野菜のトレードとか、変則的なのだと農作業手伝ってもらうかわりにご飯ごちそうしたりとか。……正直金銭的価値に直すと釣り合ってないなあってシチュのが多いんだけど、意外とみんなそれで納得してるのが腑に落ちなくて」昔した何気ないやり取りを思い出す。彼が自分の家とか住処に関わる話をするのが珍しかったから、よく覚えている。「で、考えた。どういうことだよって。……たぶんあれ、感情とか真心とか誠意みたいな値付けするのに抵抗感のある要素を付加して、取引の公正さをうやむやにしてるんだわ。使いこなせば100円で200円相当のものを手に入れられる魔法になる」その後は確か、こうだ。「そもそも取引である必要すらないんだ、きっと。強引に押し付けて、相手が受け取らざるを得ない状況を作る。高価であればあるほど強制力は高まるかな。授受の事実が先にあれば、後のことはなんとでも」そのときはぽかーんと聞いていたけど、今になってようやくどういうことかきっちり飲み込めた気がする。――そしてラッキーなことに、私は持ってるんだ。強引に押し付けられて、しかも高価なものを。


 なんとなく、高校卒業までぐらいを目安にしていた。あんまり長く持ち続けても仕方ないし、だからといって早すぎるのも考えもの。だったらそれくらいの時期が一番ちょうどいいかなって。正直相手なんて誰でもよくて、その場のノリと勢いで気づいたらなくなっているイメージだった。せっかくどんな人とも恋愛できるスペックで生まれてきたんだから、これ以上ないくらいに恋多き女として生きたい。その入り口を飾るイベントの使用期限が、都合よくすぐそこに迫っている。本当なら知らないうちになくなっていたはずのものを、自分好みのタイミングで使える。なんかへそくりみたいでとってもおトク。


 ひなとが私を見ている。そのひなとを私が見ている。もっと勇気が必要なことだと思っていたのに、お互いの唇をちゅ、と触れ合わせるのは意外と簡単だった。ひなとの唇は、思っていたより柔らかくて熱い。胸がどくんと高鳴る。唇を重ねるだけでこんなに気持ちいいって、誰も教えてくれなかった。


 たぶん、これが一番いいファーストキスの使い道。女の子のファーストキスって時点で価値が付けられないくらい貴重なのに、そこに『私の』ってプレミアがつく。こんなのを押し売りされちゃったら、いやでもなにか返さなきゃって気持ちになるはず。だって、それはほかならぬひなと本人が言っていたことなんだから。そのお返しが終わるまで縁は切れないし、そもそも返し切らせない。十年でも、二十年でも、関係が続く限りまた何回も押し売りのチャンスがある。そうやって貸しを膨らませ続けて、寿命まで逃げ切ればこっちの勝ち。


 ――あと、ほんのちょっぴりだけ、ひなとだったらいいかなって気持ちがあった。誰でもいいとは言ったけど、何年か経って昔のことを振り返ったとき、ファーストキスの相手が顔も覚えていないような男の子なのは面白くない。どうせならくすっと笑えるようなポジティブな思い出にしたい。……そのあたり、ひなとはまあまあアリかなって。仲いいし、時間が経っても忘れないだろうし。正解かどうかはわからないけど、間違いじゃないのだけは確か。二年分の信頼は結構厚い。……二年分の感謝も結構厚いから、それを届けるのにもファーストキスは都合が良かった。誰でも当たり前に持っていて、だけど人生で一回しか使えない権利。捧げる相手がひなとなら、たぶん後悔はない。さすがに恥ずかしいけどね。


「……合格祝い。これが一番いいかなって」


 一瞬だけくっつけた唇をすぐに離した。顔が火照ってものすごく熱い。思った以上に気まずいし、なぜかカラオケのときみたいに目がかすむ。


「びっくりしたでしょ? 私もね――」


 びっくりさせるつもりで自分が一番驚いちゃったとか、初めてだからよくわかんなかったとか、そんな感じのことを言うつもりだった。「――叶歌」だけど言葉にするより、ひなとが動く方が早かった。私の肩を強くつかんで、痛いくらいの力でぐいっと押される。「ぇ、ぁ、わ」ちょっと乱暴にされたことで、逆に今までの扱いがどれだけ丁寧で優しかったのかを知った。……ひなとも、余裕ないとこうなるんだ。ってことは、このまま……。


 まあ、もう、しょうがないかな。そっちの初めてだっていつかはなくなるわけで、それも相手がひなとなら別に――

 

「電車、来るから」


 心の中で、「え?」とつぶやいた。


「でも、もう」


 今からじゃどんなに急いでも終電には間に合わないはず。そんなこともわからないひなとじゃない。なんだろう、なにかすごくいやな予感がして、さっきぶりに目を合わせた。


「来るから!」


 見たこともない表情に体が固まって、聞いたこともない声色に体が震えた。怒っているみたいな、悲しんでいるみたいな、どっちにもとれる顔をしたまま、ひなとの手が私を突き飛ばした。触れた場所が痛い。痛いのに、冷たい。

 怖い。ここにいるのは、私が知ってるひなとじゃない。いつものひなとなら、もっと――


「悪い。帰る」


 絞り出したような声で言って、乱暴な手つきで荷物をつかむひなと。その勢いで部屋を飛び出して行きそうだったから、「待って」と手を伸ばした。気に食わなかったなら気に食わなかったって言ってよ。いやだったらいやだって言ってよ。今のままじゃ全然なんにもわかんない。そこまで取り乱すくらいの地雷があるなら、なんで二年も黙ってたの。一緒の時間なんていくらでもあったじゃん。つまんない話も楽しい話もいっぱいしたじゃん。その時間のほんの少しを使って、話してくれればよかったじゃん。

 

 一瞬だけ振り向いたひなとと、目が合った。こんなはずじゃなかった。こんな空気にするために、今日会ったわけじゃなかった。わかってよ。心配だったんだよ。距離が離れた友達とどうなるかなんて、知らなかったんだもん。いつまでも私を見てもらう方法なんて、これくらいしか思いつかなかったんだって。


 私は、ただ、ずっと――


「待ってよ……」


 がちゃんと大きな音が鳴って、ドアが閉まった。さっきまでいたはずのひなとの姿はどこにもなくて、探そうとしても目のかすみが酷くてそれどころじゃない。

 頬を温かい液体が伝っていく。なんか、涙、みたい。


「やだよ……」


 恋愛にトラウマがあることはなんとなく気づいてた。女の子に苦手意識があることだってわかってた。……でも、それでも、私ならって。私だけは特別って、思って……。


「ひなとぉ……」


 もう、私の隣にひなとはいてくれない。ただそれだけの事実が無性に悲しくて、何年かぶりに声を出して泣いた。朝まで泣いて、泣き疲れて眠って、起きて、夢じゃないことに気づいてまた泣いた。


 


 見えない左を、埋めてくれる誰かがいない。それだけでこんなに不安になるなんて、知らなかった。

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