第7話 乙幡叶歌 陥穽①
隣のひなとが、星を見上げている。星はいつでも見られるから、私は代わりにひなとの横顔を見つめる。思えば、二人でキャンプに行ったときも、修学旅行で歴史の名所を巡ったときも、文化祭のキャンプファイアーを囲んだときも、全部こんな感じだった。綺麗なものや特別なものを見て子供みたいに目をキラキラさせているひなと。おかしな話だけど、私にとってはその横顔の方が景色や風景よりずっとずっと貴重で特別だった。だってその目は、一度も私に向けられたことがないものだったから。――一度でいいから、その目で見てもらいたいな。いつかは忘れたけど、ふと思った。
初めのうちは違った。その目を向けられるってことは、またいつもみたいに人間関係がぐちゃぐちゃになる合図。せっかく気楽に付き合っていけそうな友達を手に入れたのに、簡単になくしたら困る。いずれそうなってしまうのは避けられないことだけど、その日がやってくるのが遅れれば遅れるだけ、楽しい気持ちをキープできる。
だから、高校を卒業するまでずっとあの日のままでいてくれたひなとには、感謝の気持ちしかない。……感謝の気持ちしかない、はずなのに。
「叶歌より身長なんセンチかぶん星に近いってだけで、かなり優越感あるな」
目は合わない。ひなとは真っすぐ空を見上げていて、横の私は置いてけぼり。どんな言葉も届く気がしなくて、返事はしなかった。……こっちを向いたひなとの目の色がくすんだらって考えると、怖かった。
今まで通りでいてくれないと困るのに、今まで通りの接し方をされるのが怖いってなんだろう。ものすごい矛盾。自分のことながらまるで意味不明。
難しそうな問題は勘とフィーリングでなんとかしてきた私なのに、そういうのが全然働かない。頭が空っぽなような、逆にいろんなことであふれているような、変な感じがする。
「それで叶歌さんやい、俺は何に付き合えばいいんです?」
適当に引き延ばしただけでやるって決めてたことなんかない。思い出話の続きをしようにも、考えがぼやけてるせいでたぶん楽しめない。楽しくないことを選ぶのは私のポリシーに思いっきり違反している。……なのにどうして、こんな必死にひなとを引き留める理由を考えてるんだろう。
「……ん!」
理由をでっちあげるなら、一応それらしいものを。そう思って絞り出したのがプレゼントだった。
もちろん用意なんかしてない。私にとってプレゼントは渡されるもので、自分から渡すって発想が浮かばなかったから。でも合格祝いだって呼びつけたのに、贈り物がないんじゃ寂しいよね。
家に忘れてきたことにすれば考える時間は増やせる。今日中に渡さなきゃいけないものだって言えば家についてくるしかない。ひなとの律義さを逆手にとって、絶対に断れない条件を作り上げていく。……考えれば考えるほど「もうちょっと遊んでいかない?」の一言で済みそうで、だけどそうは言えなかった。プライドの高さが容姿に比例しているので。っていうか私が色々考えてるのがおかしい。普通はひなとの方から遊び足りてない感を出すべきじゃん。
誘導。組み立て。これまでにもひなとを家に呼んだことはあったけど、そのたび断られた。逆にひなとの家にお邪魔しようとねだったこともあるけど、それも全部断られた。たぶん、お互いの家族に友達とどんな風に接しているかを見られるのが恥ずかしがってる。その気持ちはちょっとわかるけど、さすがにひなとは気にしすぎ。
でも、今日だけは都合がよかった。家に私の親がいないって知ったら、きっと一気に安心するはずだから
「そういうの早く言ってもらえます? 無駄に緊張する羽目になったわ」
ばっちり決まったのでウインク。サービスで舌ペロも追加。今のはもう、私の家に来るつもりの言葉。
油断しきったひなとを引き連れて、歩き慣れた道を進む。定位置になった左側に大きめのシルエットが見えると、けっこう安心する。ただでさえ夜道には変な人が出るかもしれないのに、私はそれにプラスして目も良くないから不安は二倍。普段はそもそも夜に出歩かなかったり、警戒しているのを伝えるためわかりやすくきょろきょろすることにしているから、そういうのを考えなくて済むだけでかなり気分が楽になる。ひなとがそこまでわかってるかは知らないけど。
無意識にリップクリームを取り出す。丁寧に塗り込む。特に乾燥している感じはしないのに、今日はやたらリップを塗ってる気がする。飲み物に口をつけてばっかりだから、それが原因かも。
「使う?」
こっちを気にしていたひなとにリップを手渡すふりをしたけど、案の定断られた。まあ、そこで普通に使われてもびっくりするけど。……プレゼント、使いかけリップじゃダメかな。かなり価値あるよ、これ。私が捨てたペットボトルを回収しようとする子はたくさんいるんだから。いざってときはこれをポケットに押し込んでなあなあにしちゃおう。私が適当を言うのはいつものことで、それをひなとが流すのもいつものこと。プレゼントなんて本当はないと知っても、怒ったりするやつじゃない。……ちょっと呆れられはするかな。
ぽつぽつと言葉を交わしながら歩いて、気が付いたら家の前まで来ていた。当たり前だけど電気は消えている。でもそれは結構大事なことで、もしアクシデントがあって親が帰っていたりしたらひなとがここで回れ右しちゃう。ほっとしつつ、鍵を開けた。自分の家の匂いって、どうしてこんなに安心するんだろう。
「はい」
コートを受け取るために両手を差し出す。「上着って玄関先で脱ぐのがマナーらしいけど、そんなどうでもいいルール世界に増やして誰が得すんのかね?」前にひなとが言っていたことを思い出す。確か、「みんな礼儀がいい人だって思われたいんだよ」って返したっけ。「上着の脱ぎ方一つで人間性採点されてもなあ……」ひなとは渋い顔で呟いて、そのマナーにひたすら否定的だった。――思い出すのが遅かったなって、受け取り拒否されてから考える。だいぶひなとに詳しくなったつもりでも、全部うまく反応できるわけじゃない。
とりあえず、部屋に案内しないと。渡すものがないことを誤魔化すためには話題が必要。私の部屋なら思い出の品とか卒業アルバムとかがあっていくらでも時間を溶かせるし、なにより家まで呼んでリビング止まりじゃ面白くない。女子の部屋に入ったひなとがどんなリアクションをするのかが、ちょっと楽しみでもある。
「どや。いい部屋でしょ」
もとから整理整頓は好きだし、一応昨日掃除もしたから片付いている。我ながらかなり完成度の高い女の子の部屋だと思う。これにはさすがのひなとさんも緊張しちゃうだろうなー。なんだかんだ言って男の子だしなー。――なんて、考えていると。
「叶歌っぽい」
えー……。なんかさ、そうじゃないでしょ。もうちょっとびくびくしたりきょろきょろしたりしなよ。なんで余裕たっぷりで微笑んでんだよー。
「ま、座ってよ」
椅子は二人分もないから、ベッドを指さす。さすがにこれには戸惑ってもらわないと困る。私が毎晩すやすや眠っているベッドや布団なんて、どれだけの価値があるかわかんないんだから。
「お、いい感じのマットレス使ってんね」
「…………」
ほんと、こいつ、ほんと……。ちょっとでもためらったらからかうつもりだったのに、全然そんな素振りないじゃん。あーもーマジでムカつく。
こういう場面になると、どうしても昔の噂話が思い浮かぶ。……女慣れし過ぎなんだよね、いくらなんでも。だから、全部と言わずとも噂のいくつかは実際にあったことなんだろうなって思わされちゃう。だけどそれだと私に一切手を出してこないこととつじつまが合わなくなっちゃって、毎度混乱するんだ。
――たぶん、いたんだろうなあ、彼女。いつから付き合ってたのか、何人と付き合ったことあるのか、いつ別れたのか。ひなとは絶対にその手の話をしないから、私には想像しかできない。――元カノとどこまでしたのか考えようとして、途中でやめた。別になにをしていたって構わないけど、そこを深掘りするのは両親から私が生まれた経緯に思いを馳せるみたいで、悪いことをした気分になる。でも、私が未経験のことをひなとが経験済みというのはいけ好かない。これで意外と負けず嫌いなもので。
「しっかしねえ。ひなともとうとう大学生かあ」
しみじみ呟く、今日何度目かの言葉。どうせなら私も関東の大学を受験しとくんだったかなと後悔しつつも、勉強は高校まででおなかいっぱいなことを思い出してそれはないなと方向転換。遊び目的で大学生になる同級生をたくさん知ってるけど、私なら別にそんな肩書がなかろうと自由にやっていける。
途中でピアスの話題になって、ひなとが自分の耳たぶをむにむに触りだした。どうしよ、私も開けようかな。でも私の体に傷をつけるマイナスとピアスのお洒落さで得られるプラスが全然釣り合ってないし、やっぱ見送りかな。
「ははは」
軽く笑いながら、一瞬ちらっと時計に目をやったひなと。私はそれを見逃さなかった。……この感じだと、帰るまでもうすぐだ。終電の時間を考えたらそろそろ家を出るしかないし、いよいよ私も出まかせのプレゼントをなんとかしないといけない。
「実は最初からこの部屋にプレゼント用意してあるって言ったらびっくりする?」
嘘だけど。
「マジ?」
嘘だけど。
「天井見てみ」
なにもないけど。
私の言うことを素直に信じたひなとが背中をのけぞらせるように上を向く。その隙に、ジェットコースターの安全バーを下ろすようにしてひなとの胸を押し、仰向けにさせた。思ったより力が必要で馬乗りみたいな格好になったけど、これは事故。完全なアクシデント。
見下ろす。上から。目を真ん丸にして驚いている雛人の姿が新鮮で、思わずにやける。今の状況、想定外ってことだよね。
「重いんだけど……」
――なんて思っていたら、瞬きするくらいの時間で通常営業に戻った。片目を細くし、私から一切目を逸らすことなくデリカシーのない文句を言ってくるひなと。「それは嘘。今朝体重測ったら鳥の羽一枚と大体同じくらいだったもん」「どんな怪鳥だ」ちょっと考えてから、「庭にいたスズメ」ありえないだろって顔をされて、さすがの私もお手上げ。ちょっといたたまれなくなったのを誤魔化そうと頭突きしたら、目測を誤って首と肩の中間地点あたりに着地してしまった。――柑橘系の匂いがする。香水か、整髪料か、たまにひなとから感じる、落ち着く香り。肩の力が抜けて、上半身がぺたりと密着する。想像より体が分厚い。体温は低めで、触れた肌は私より少し硬い。コートのごわごわした感触はあまり好きじゃなくて、こんなことならどうにかして脱がせておくべきだった。
たぶん、謝るか離れるかした方がいい。肌越しに伝わってくるひなとの戸惑いに、そんなことを思った。……だけどそれと同時に、咎められるまで自分からなにか言う必要はないんじゃないかとも思った。
時計の音がする。針がチクタクとゆっくり時間を刻んでいる。そのペースに合わせるように自分の鼓動の音も大きくなっていて、このままではきっと、変なことを口にしてしまう気がする。
「……帰ってくるときは言いなよ」
唇からこぼれたのは、私が思う変なことと変じゃないことの中間くらいにある言葉。いつもの私なら絶対言わないし、今の私も絶対言わないはずの言葉。言っちゃいけないことを言わないために、言わなくてもいいことを言った。大体、そんな感じ。
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