第20話 初手
冷凍食品にアレンジを加えたり、きゅうりにチーズとハムを巻いたりする軽作業を終え、ダイニングテーブル越しに叶歌と向かい合う。相変わらず札と小銭は端に放置されたままだが、これはもういっそそういうオブジェと思っておくのがいいだろう。
「どういう話するかも決まってないけど、最初に愚痴だけ言っていいですか」
「お気兼ねなく」
改まった口調の叶歌が、俺の目を真っ向からじっと見つめて、
「あんなにいやがられると思わなかった」
「…………」
前言撤回。長丁場にはならないかもしれない。どうでもいいラリーを往復させながら場を温めて、ようやくその話題に移るものとばかり思っていた。しかしこれは17か月ほど長々ぐだついていたテーマであるわけで、機はとっくに熟していたという見方もできる。どうやら叶歌はそのサイドに立つつもりらしい。
「見た目には自信あったんですけど」
「…………」
「かなり仲良しのつもりだったし」
「…………」
「……びっくりするのは仕方なくても、なんか、あそこまでさあ」
おっしゃる通り。驚く要素はあれど、拒絶する意味がわからない。叶歌の困惑は至極もっとも。当事者の俺ですら、あのときの行動を合理的に説明できる気がしないのだから。
「正直それに関しては、ごめん、としか」
「たとえば」
グラスの結露を人差し指でなぞった叶歌は、その湿った指先でテーブルに真一文字の横線を引いた。
「……前もって聞いておけば、大丈夫だった?」
前もって、か。「これこれこういうことを今からしようと思っているのですが構いませんか」なんて言葉にされたらどんな熱も冷めてしまいそうなものだが、端的に「キスしていい?」と叶歌が問うてくるというのは、非常に魅力的だとは思う。抗いがたい引力によって、どんな鋼の意思も砕け散ること請け合い。
だが。
「たぶん、ない」
瞠目。そして「そっか」の声とともに、俯く叶歌。ここで俺は伝達ミスを悟り、両手をでたらめに振りながら補足説明をすることに。
「いや、ないっていうのはそのシチュエーションの方。そうなりかねない気配を察知した時点で俺はその芽を潰すし、多少強引になっても話を逸らす。だから今のないは、そうならないのない」
「つぶすなばか」
「言い訳がましいのは承知なんだけど、これは相手が叶歌に限った話じゃなくて……。いや、うん。我ながら、なんでこんなわけわかんないことやってんだろうな……」
自分の在り方に矛盾や引っかかりが多すぎて、いざ口に出してみると俺自身が困惑する。これでは相手を説得するどころじゃない。
「……前に色々あって、その教訓をごちゃ混ぜにしたせいで生まれたキメラみたいなスタンスだから、ぱっと説明できる気がしない」
「よくわかんない」
一刀で切り伏せられると一緒に心まで折れてしまいそうだが、客観的に見てもっともらしいのは叶歌の言い分。俺にできることがあるとしたら、その『色々』の部分を噛み砕いて語るくらいか。「わかんないけど、いっこ質問」思考に割込みが入ったので、一旦そちらに傾聴。
「……誰でも、ああした?」
「一応、誰の範囲を知りたい」
「ほんと、誰でも。あのときのクラスメイトでも、後輩でも、地元の知り合いでも、アイドルでもモデルでも女優でも、おんなじようにした? おんなじように突き飛ばした?」
こうやって当人の口から聞くことで、改めて自分がなにをしたかが再認識できる。そうだよな。突き飛ばしたんだよな、俺は。叶歌を、感情的に。
「……ノー、だと思う。あんだけ過剰に反応したのは、相手がお前だったからっていうのが大きい」
「…………っ、や、でも」
珍しく言葉に詰まった様子の叶歌だったが、息を整えると言葉がきちんと出力された。
「仲、良かったじゃん。良かったよね? まさかそういうの全部私の思い違いで、ひなとは最初からわがままでめんどくさい私のこと嫌いでいやいや付き合ってたとか、そんな――」
「いやいや違う違う違う。さすがにそれは早とちり。楽しかったし、未だにお前のことが好きだよ。勝手だけど、まだ友達だと思ってる」
「……ぁ、うん」
「だからこそだろ。関係浅いやつだったら事故で済むことも、浅からぬやつを相手にしたら事件になる。んで、実際なった」
「うん」
「叶歌、そういう前触れ一切見せなかったろ。なのにあの日突然豹変して、俺としてはもうなにがなんだか……」
「うん」
妙に生返事の叶歌は捨て置いて、当時を回想する。俺の経験則に誤りがなければ、色恋沙汰というのはある程度の段階を経て進んでいくもののはずなんだ。覆っても、隠しても、どこかで必ずボロが出る。その予兆を察知する程度の目ざとさは持っているつもりで、実際に何度かそれらしいシーンに立ち会ってきた。
しかし、あの日に至るまで叶歌がその前兆を発することはなかった。マイペースに、いつも通りに、叶歌はずっと、俺の知っている叶歌のままだった。
俺が既定してきた叶歌の虚像と、いざお出しされた実像との乖離幅が、あれだけの拒絶を生じてしまった……のだと考えている。
要するに。
「思い通りに行かなくて拗ねたんだ、俺。誰も彼もが自分の思い通りに動いてくれるほど、人間関係が単純なわけないのにな」
「……酷くない?」
「そりゃあもう」
誹り罵り全面歓迎。こんな酷い話があってたまるかというのだ。ちょっとでも気に食わないことがあると癇癪を起こす手合いがいるが、俺のはその最上位版。その衝動的発作に、よりにもよって叶歌を巻き込むことになるとは。
「……タイミングも良くなかった。ちょうどなにもかもどうでもよくなってた時期に、叶歌と話すようになったから」
「高2の春?」
「そう。ほらお前、最初は明らかに俺を辱める魂胆で近寄ってきたろ? そんなの普通は適当にいなして終わりなんだけど、自傷というか自罰というか、あのときはなんでもいいからお咎めが欲しかったんだ」
「え、あー、そう……だっけ?」
「いいよ誤魔化さなくて」
叶歌の目がきょろきょろ泳いでいるが、もしや今の今までバレていない気でいたのか。あんなの、誰だってわかる。不自然な状況、裏があるとしか思えない態度。そして俺には、糾弾されるに足る確かな心当たりがあった。要素が三つもそろえば普通は疑う。
都合が良かった。罰というのは、望んでいるときに限って与えられないものだから。それを手ずから恵んでくれそうな乙幡叶歌の出現は、俺にとって福音以外のなにものでもなかった。――そこで気に入られて、何事もなかったかのように俺のポジションが友人に格上げされてしまったのは、今思えばお互いにとって最上の不幸。気持ち悪がられようと思って演出していた視力への気遣いが、裏返って評価ポイントになってしまったのが誤算だった。あれだけ露骨になにか事情がありそうな挙動をしているのに、よくもまあそれまで誰も気づけなかったものだ。
「不義理とは思わない。悟られないのが理想だけど、実害出す前に変わり身すれば事情はどうあれなにもないのと同じこと。……それに、そんな入りだったからこそ、期待もあって」
ダイニングチェアの背もたれに体重を預け、やや斜め上を目がけて発声する。本人に直接言うのが、少々憚られる内容なんだ。
「俺の人間性を評価してもらえたなら、関係が一瞬で破綻するようなことは起きないと思った。異性同性問わず、うわべだけ見て愛だ恋だをやるといいことなんか一つも起きないって学習したてだったから」
「……ねえねえ、そろそろ聞きたいよ。なんでそこまで重症になっちゃったのか」
「正直言っていいか」
「どうぞ」
「全然気が進まない」
「ダメ。きかせろ」
「……命令なら仕方ない、か」
誘い受け的に強引に背中を押させた形になってしまった。しかし相変わらず、気は進まない。明かす必要のない過去が同情を誘って、それが贖罪の代替品になりでもしたら目も当てられないから。
物を盗んだことを咎められた罪人が真っ先に口にするのは、迷惑をかけた各所への謝罪であるべきだ。そこで「家が貧乏で」とか「家族を養うにはこれしか」みたいな言い訳から入るのは絶対に違う。たとえその内容が一切偽りない事実であったとしても、第一声には相応しくない。情状酌量や感情の清算はやり取りの最終段階で済ませるべきで、真っ先に相手の怒りの限界値を規定しかねない言葉を投げるのは盗み以上に最低な責任逃れ。
罪と罰とは、徹底して一対一対応の関係であるべきだ。『起こったこと』『それに感じること』以外の要素はすべてノイズ。――しかし、そのノイズについて説明しなければしないで、相手に対して不誠実。
叶歌はそれを知りたいと言う。そして俺は、その情報をオミットしたうえでの議論がとっくに限界に達したことに勘づいている。
「……叶歌、今日の宿泊場所は?」
「私だって学習するもん。今回はちゃんと前もって決めてきました」
指先でテーブルをぺちぺち叩き、叶歌が「ここ」と二文字だけ告げる。そうか。なら、時間的制約はないのと同じ。
「シャワー、先と後どっちがいい?」
「うぇ」
「……悪い。なんかまた文脈的に怪しい発言した。『話がさらに長引くことを見越して今のうちにシャワーを浴びておきたいんですが、順番はいかがいたしますか?』に訂正で」
「びっくりしたー。いきなり力業で来るんだもん。なーんて、強引なのは私の方だったっけ」
「お前それどんなテンションで言ってんの?」
「しょうがないから一緒に入ろっか」
「はぁ……。電気は消すからな」
「…………」
「冗談。固まるようなら最初から煽んな」
ふ、と口許から笑みがこぼれた。久しぶりに、自然に笑った気がした。
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