第15話 5500(消費税込み)

「消す?」

「頼む」


 照明が落ちる。明暗の差で一瞬視界が眩み、眼球の奥に鈍い痛みが残った。

 つけっぱなしのクーラーの駆動音。自分以外の呼吸と衣擦れの音。横合いから漏れるスマートフォンの光が、部屋を淡く照らす。

 すべてにおいて現実感のげの字もない。腕を額に持ってきて肺の空気を吐き出したら、そのまま酸欠で意識を手放してしまいそうだった。


「……ひなとさあ」

「うん……?」

「最近私がどんな感じで、友達っていうのがどんな人でみたいなの、興味ない?」


 疲れているのか、少々間延びして舌足らずな口調の叶歌。その甘えた声色の心地よさが癖になって、ついつい長電話してしまった過去を思い出す。


「そうだな。気になるな……」


 心にもないことを言った。本当は会話の中身なんてどうでもよくて、彼女の声を久々に間近で聴きたいだけだった。


「眠くて適当言ってるでしょ」

「適当じゃないよ。本気」

「むかつくー。やっぱ教えてあーげない」

 

 声のボリュームを一つ下げて、叶歌が続ける。


「ひなとの方はどんな感じ?」

「……どんなって?」

「あるじゃん。色々。大学のこととか、地元出てどうなったかとか」


 それらしいエピソードはいくつかある。通りすがりの綺麗なお姉さんと紆余曲折あって友達になったこと。過去問目当てで参加した男比率高めのサークルで姫の取り合いに巻き込まれた結果、サークルそのものが消滅してしまったこと。ふらっと立ち寄った町の食堂で料理の隠し味を言い当てたら店主に丸め込まれてそのままバイトとして採用されてしまったこと。……家に帰る機会はいくらでもあったのに、途中であの駅を経由しなければならないと思うと憂鬱で重い腰をあげられなかったこと。3月半ばの招集命令で止まってしまった誰かさんとのトーク履歴を、未だに消せていないこと。


「……ときどき近くのスーパーでもやし9円セールが開催される」

「えー、悩んで出てくるのがそれ?」

「どんなに部屋を清潔に保っても、向こうじゃご縁のなかった黒い害虫が現れる」

「いやー」

「あとは……そうだな」


 一つ、事実確認として。


「お前より顔が良い人間、こっちにもいないな」


 人の行き交いは昔よりずっと増えた。高校までの18年ですれ違った人数より、この1年と少しですれ違った人数の方がたぶん多い。

 分母が増えればそれに応じて世界も開ける。だから、叶歌を上回るとまではいかずとも、及んだり匹敵したりするクラスの容姿を持った美男美女とどこかで遭遇することも覚悟していた。もしそんなことが起きたら、俺の世界観はきっと激変する。微かな期待と、それを覆い隠してあまりある大きな畏れ。

 だが、探せども出会えども世界には変革の兆しすら訪れない。叶歌はいつまで経っても他を寄せ付けないナンバーワンであり続けている。


「なーに当たり前のこと言ってんの」


 くすりという笑い声。しかし、それが過剰な自信とは思わない。美しさに自覚的なところは、容姿に勝るとも劣らない叶歌の美点の一つだ。それに、謙遜されても白々しいだけだし。


「リップサービス」

「わざわざ探してくれてたんだ。頑張り屋さんかよ」

「暇なもんで。……で、どう。こっち遊び来てスカウトとかされた?」

「もらった名刺でゲームする? いっぱいあるよ」

「街中歩くのも一苦労だな。……なに、書いてある番号に電話かけて早くつながった方が勝ち?」

「もうちょい面白いルール考えて」

「えー……。じゃあ金持ってそうなプロダクション何社かピックアップして、その人らに契約金のオークションさせよう。決定額と予想額が近かった方の勝ち」

「やだよ。そんなことしたら芸能人になっちゃう」

「よそからもっといいオファー来たことにしてうやむやにすりゃいいさ」

「じゃあひなとの予想から聞かせて」

「プロ野球のドラフト1位が契約金1億だろ……。つってもドラ1は1年に12人いるわけで、市場規模だってたぶんスポーツより芸能の方が大きいことをふまえると……まあ手堅く10億とか?」

「10億?」

「投資はデカいけどリターンが保障されてる楽な賭けだしこんなもんじゃないの。現実は契約金なんてないことがほとんどだと思うけど」

「たった10億?」

「ああそっち……。じゃああれだ。1兆とか」

「たった1兆?」

「小国の国家総予算レベルなんだが」

「たった小国の国家総予算レベル?」

「めんどいモード入りましたね」


 じゃれているのか本気なのか。九割九分前者だが、後者であればそれはそれで面白い。「私のこと金額で評価できる女だと思ってるんだ」うーわめんどくせ。自分が面倒くさい女ムーブをしても許される側なのを知ってやっているから余計に悪質。「世界最高値の女って称号があれば、それはそれでかなり誇らしいもののような気がしないか」「確かに」変わり身の早さもまた健在。……なんて、変わり身する前提で俺にネタを振っているだけなのだから、今のやり取り全てが結論ありきの台本仕立て。叶歌が会話に求めているのは中身や内容ではなく、リズムやテンポなのかもしれない。何度かそう思わされるシーンがこれまでにもあった。


「じゃさじゃさ、ひなとは自分にいくら値段つける?」

「俺かー。迷うけど、そうだな……」


 咄嗟に思い浮かんだのは自分が従事している時給1250円のアルバイト。昨日は4時間勤務だったから――


「5000円でいいや。たぶん、それくらいの労働生産性は見込める」

「やすすぎ~」

「いいだろ。健康な若者の臓器ひとついくらで売れますよって話をしたいわけじゃあるまいし」


 叶歌を傷つけた俺の人生に価値なんてない。そのネガティブな思考がいつの間にかアイデンティティになっていた。人というのは一度見出した拠り所に執着するもので、たとえそれがどれだけマイナスなものであっても来るところまで来てしまったら失えなくなる。

 誇るものがないことを奪われたら、残るのは虚無。自虐さえ封じられた人間が次はなにに縋るのかなんて、考えたくもないのだ。


「――意外とさ」


 話の流れを遮るように叶歌が呟く。相変わらず、部屋にはエアコンの駆動音が低く響き続けている。


「普通にしゃべれるね、私たち」

「余裕だろ。同一言語話者だぞ」

「……むう」


 ここにきて再びの正方形とひし形。――わかっているとも。どういうことを言いたいかくらい。さっきまでの会話は過去の日々を彷彿とさせるもので、俺たちはやろうと思えばそれを一晩で再現できてしまう。

 でも、やっぱり、そこには触れられないわだかまりがあって――


「それとも、受け答えしない方がよかった?」

「そうじゃ……ないけどさぁ」


 なにもなかったふりをしている。というより、俺がなにもなかったかのようにふるまうから、叶歌がそれに追随している。本当は忘れてなんかいないのに、忘れられるわけがないのに、忘れてしまった方が好都合だというスタンスが共通するからお互い上手く乗っかっている。

 それを、普通にしゃべれるとは言いたくなかった。こんなパフォーマンスみたいなやり取りを、あの日々に重ねたくはなかった。


「そうじゃ……ないんだけど」

「ならいいじゃんか。コミュニケーション取れるんならそれが一番」


 先んじて穴を塞ぐ。けっして蒸し返すことがないように。あの日の話題が上がってくることすらないように。

 劣化するんだ。感情も、記憶も。鮮明に覚えているつもりの光景だって、きっとどこかでバイアスがかかって事実から離れる。今さら当事者二人であの出来事を振り返ったところで、得られる結論は虚しいものばかり。だったら適当なおためごかしでも並べながら、友人だった頃の焼き直しでもしていた方が幾分か生産的。

 今俺たちの口から語られる真意は、きっとあの日の真相とは違ったものになる。慰めが目的となった答え合わせに興じるつもりはない。

 喧嘩したわけじゃないんだ。必然、仲直りという解決策も存在しない。再会があと十年遅れていればあんなこともあったなあと笑い合えたろうが、たかだか17ヶ月で精神的にそこまで円熟できるわけもない。


 子どもを自称するには歳を重ねすぎて、大人を自称するにはまだまだ若輩すぎる。そんな中途半端な俺たちが過去を清算するなど、土台無理なお話だ。


「寝不足で友達と会ってられないだろ。そろそろ寝とけ」

「……おやすみ」

「ああ、おやすみ」


********************


 言ったものの、寝付くまでには時間がかかった。時計は確認しなかったが、目覚めたのが翌朝を通り過ぎて翌昼になっていたあたり、入眠に相当苦戦したのが見て取れる。

 

「あいつ……」


 起きてすぐ、部屋に叶歌の気配がないことに気づいた。存在感の塊みたいなやつだ。いるかいないかの判定など一瞬で済む。

 荷物の類は綺麗に引き払われ、ゴミは片づけられ、もしかすると昨晩の出来事は夢だったのではと思わされもしたが、床に小さくまとまった寝具一式がそれが現実であることを告げている。

 どうやら、俺がのんびり寝ている間に部屋を発ったらしい。挨拶の一つもないのは寂しい話だが、寝ている俺を気遣ったとも取れる。


 極めつけは、ダイニングテーブルの上に置いてあった一枚のルーズリーフ。俺が大学用に買い置きしたものを、叶歌が一枚つまんで使ったらしい。


『ありがと。鍵はポストにかえしとくね』


 見覚えのあるかわいらしい丸文字。その横に、簡単な鳥のイラスト。


「立つ鳥跡を濁さずってか」


 叶歌なりのしゃれっ気なのだろうが、実のところ、跡はかなり濁っていた。濁りきっていたといっても過言にはならない。

 

「眠たい軽口だったのに……」


 用紙の上に、五千円札と文鎮がわりの五百円玉。自分に五千円の値札をつけた俺の手を一晩かかずらせたから、その代金のつもりなのだろう。であれば五百円は重石ではなく消費税かもしれない。真なる意図は叶歌のみの知るところだが、こんな金を喜んで受け取れるほど楽天的でも俗っぽくもなかった。


「どうするかなあ……」


 寝ぐせまみれの頭を抱える。寝起き一番、これは少々荷が重い。

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