29

 抜けるような晴天が広がる、大型連休の最終日。

 私は早苗と一緒に病院の裏庭を歩いていた。早苗はこの日も見舞いにやってきて、絵のモデルを買って出てくれた。

「気持ちいい天気ね」

「だねえ」

 太陽が空の高いところで眩しく輝いている。季節の移ろいは早いもので、ついこの前桜が咲いたかと思えば、もう草木の瑞々しい新緑が初夏の気配を感じさせていた。

 早苗の黒髪が風にそよぐ。今日の彼女も惚れ惚れするほど可憐だった。心が落ち着く浅葱色あさぎいろのワンピースに白のサマーカーディガンを重ねた装いが、涼やかで清純な早苗のイメージにぴったり合っている。こんなにも綺麗な少女と友達であることを、私は誇らしく思った。

 そうして私たちが訪れたのは、池に建つ六角形の屋根の東屋だった。

 去年の梅雨に、私はここで早苗と出会った。それからも何度もここに来ており、すっかりお気に入りの場所になっている。

 屋根の下に入って、二人で東屋の奥側の座面に腰を下ろす。

「今日は私、どうすればいい?」

 早苗が早速、ポーズの指示を仰いでくる。しかし。

「ごめん。実はね、今回は絵を描くわけじゃないんだ」

 そう告げて、私は持ってきていた画材バッグを一旦脇に置いた。

「そうなの? じゃあ何をするの?」

 きょとんと首を傾げる早苗に、私は本当の用件を切り出した。

「今日は君に大事な話がある」

 いつになく真面目な調子の私からただならぬ空気を察したのか、早苗が居住まいを正す。

「大事な話って?」

 早苗に見つめられて、決心が揺らぎかける。だが私は、顔を覗かせた臆病風を捻じ伏せ、毅然と彼女に言い渡した。

「早苗。私に毎日会いに来るのは、もうやめよう。それで、ちゃんと学校に行こう」

 ちゃんと社会に復帰してほしい。そう伝えると、早苗の柳眉が不機嫌そうに顰められた。

「何回も言ったはずよ。私は望んであなたに会いに来ている。あなたが心配することは何もない。学校なんて、行かなくたっていいのよ」

 想定通りの反応が返ってくる。前までは、ここで説得を諦めていた。

 しかし。今日の私に、退くつもりはない。

「……いいわけないでしょ!」

「っ⁉」

 私が言い返してくるとは思わなかったのだろう、早苗はびくりと肩を震わせた。彼女を怖がらせたことに良心が痛んだが、私は引き続き心を鬼にする。

「そりゃあ今は不登校でも困らないかもしれないよ。君はまだ子供で、親が面倒を見てくれるから。でもいずれは君も大人になって、自立する日が来る。そのときのために、色んなことを学んで備えておかなきゃいけない。だから、学校には行かなきゃダメだ」

 社会で生活するために必要なことを学ぶ、それが学校だ。学校で学べることは学問のみならず、他人との付き合い方や、社会的常識などといったものも含まれている。早苗はこれから、そういった物事を習得していかなければならない。だから彼女は学校に行くべきなのである。

 そう訴える私であったが。

「……それは手段の話でしょう? 生き方を身に着けたとしても、生きる目的を果たせないと意味がないじゃない!」

 早苗も負けじと反駁はんばくの牙を剥く。

「私が生きてる意味は、あなただけなの。ずっと病院で過ごしてきた私には、他にできることも、やりたいこともない。素敵な絵を生み出すあなたの支えになる、それが私の唯一の存在理由。あなたの隣にいられない私の人生に価値はない!」

 早苗の痛ましい叫びに、私は心を切り刻まれた。

 意味ある生を遂げるために、価値ある行動を取らなければならない。そんな呪いのような使命感で雁字搦がんじがらめになって、早苗は私に執着している。才能ある人間の糧になることで、彼女は自分の命に意味を持たせようとしているのだ。

 私も同じだったから、早苗の気持ちは自分のことのように理解し共感できる。病気のせいで薄命の宿命にあり、人並みの一生を送るのは無理だろうと思った私は、生きた意味を遺すために絵を描いてきた。自分の人生を無駄なものにしないために必死だった。

 だけど今は違う。もっと楽に息をする方法を、私は教えてもらったから。

「違うよ早苗。何もしていなくたって、生きてていいんだ」

「……何を言っているの?」

 同じ価値観を共有していたはずの私が突然掌を返したことに、早苗は傷ついたような顔をする。私はそんな彼女に、自分が得た気付きを語った。

「この前、人に言われて分かったんだ。人は何か立派なことをしてないと生きてちゃいけないわけじゃない。生きててほしいと思ってくれる人がいる。それだけで生きる意味があるんだ」

 私たちは生きることを難しく考えすぎていた。生きていてほしいと願う人がいるならば、ただ生きているだけでその人たちのためになっている。それが生きる理由になる。大層な使命なんて必要なかったのだ。

「私はね、早苗に生きてほしいって思ってる。君が生きる理由はそれで事足りているんだ」

 早苗が生きることを、私が望んでいる。それでもう、早苗の人生には意味が備わっている。

「誰かに生きていてほしいと思う気持ち、早苗なら分かるよね?」

「!」

 心当たりがあったのだろう、私の指摘に早苗は動揺を露わにする。

 ああそうだ、分からないはずがない。だって彼女は、自分の命を投げ出してまで私を救おうとしたくらい、私が生きることを強く願っているのだから。

「私の力になろうとしてくれるのは嬉しいよ。でも、そんなことしなくたって、早苗は生きていていいんだ。ただ、生きているだけでいいんだよ」

 早苗が私のためにと自己犠牲を払う必要はない。生きていてほしいという思いに応えてくれれば、それだけでいいのだ。

 早苗の目に懊悩おうのうの色が浮ぶ。今まで掲げてきた理念と相反する私の願いを、彼女は果たしてどのように受け取るのか。

 しばしの沈黙の後、早苗は俯いてぽつりとこぼした。

「どうしてあなたがそんな風に思ってくれるのか、分からない」

 早苗は心細そうな様子で私に訴える。

「私には何の取柄とりえもない。趣味も、特技も、自慢できるものも、叶えたい夢も、何一つない。空っぽなの。その上、陰気で、口が悪くて、性根が捻じ曲がってて、愛想もないわ。そんな人間の何がいいの? どうしてこんな私に生きててほしいなんて言えるの?」

 せきを切ったように噴き出したのは、彼女自身への誹謗だった。

 前から分かっていたことだが、早苗は自己肯定感が著しく低い。彼女は滅多に自分を誇らず、事あるごとに自虐を口にする節があった。彼女をそうさせているのは、長い闘病生活による欠落だろうと私は考えている。幼少から最近までずっと病院で過ごしてきた彼女は、私たちくらいの歳の子供なら人生経験を通じて獲得しているであろうアイデンティティを、まだ形成できていない。早苗が口にした空っぽという言葉は、恐らくそういった欠如を意味している。

 要するに、早苗は自信がないのだ。彼女は何もない自分自身を嫌っている。だから生きることを前向きに受け止められない。

 であるならば。

 自分のことを好きになってもらえたら、早苗は生きる気力を取り戻せるのではないだろうか。

 長年に渡って積み重なった早苗の自己嫌悪を振り払うことは、決して簡単ではないだろう。

 だけど。

 私には一つだけ、彼女を立ち直らせることができるかもしれない、とっておきがある。

「どうして早苗に生きててほしいと思うのか、今から教えてあげる」

 私はここまで持ってきていた画材バッグを手に取り、中から一枚の画用紙を取り出した。

「ん」

 その画用紙を、早苗に差し出す。私の行動に怪訝な顔をする早苗であったが。

 画用紙を受け取った途端、彼女の双眸そうぼうが大きく見開かれる。

 私が手渡したのは。


 屈託なく朗らかに笑う早苗の絵だった。


 縦にした画用紙に、制服を着た早苗の胸から上の姿が描かれている。彼女の端整な顔に浮かんでいるのは、いつも私の前で見せてくれている自然で愛らしい笑み。着色には黄色やオレンジなど鮮やかで温かみのある色を多く使っていて、今までの彼女の絵にあった哀愁や鬱屈などといった陰は少したりとも存在していなかった。

「何なの、これ……。こんな絵、描いてなかったわよね……?」

 絵を見て目を疑う早苗に、私は種明かしをする。

「早苗は知らないはずだよ。だってこの絵は、私一人で描いたんだから」

 志田さんに相談に乗ってもらって、私は自分の絵に足りなかったものを理解した。

 それは、私の願望だ。

 私がこれまで描いてきた早苗の絵は、彼女が見せる儚くて切ない魅力をそのまま写し取ったものであった。だがそこに描かれた早苗の姿は、私が本当に望んでいるものではない。私は早苗に笑っていてほしかった。ゆえに私はそれらの作品に満足できなかったのだ。

 早苗には笑顔でいてほしい。

 ならば私が描くべきなのは、笑顔の早苗であった。

 しかし一つ問題が立ち塞がった。早苗は絵のモデルをするとなると上手く笑えなくなる。そのため、以前までの私は笑っている早苗を描いたことがなかったのである。

 だが厳密に言えば、描けないわけではなかった。

 現実にあるものをそのまま切り取る写真と違って、絵が写す像には描き手の自由が加わる。モチーフに気に入らない部分があれば描き変えてしまえばいいし、存在しないものを画面に浮かび上がらせることだってできる。

 だから私は、笑っている早苗を想像して描こうとした。こうあってほしいという私の願望を、紙の上に表現しようとしたのだ。

 モチーフなしに絵を描くのは初めてだったから、最初は上手くいかなかった。何回も挑戦して、何枚もの失敗作を生み出した。でも私は挫けずに挑み続けた。自分のために、そして早苗のために、私は鉛筆を握り続けた。

 その末に完成したのがこの絵だ。描き終えた途端、心が打ち震えたのを今でも克明に覚えている。それは紛れもなく私が求めていた、胸を張って誇れる最高傑作であった。

 私の持てるすべてを注ぎ込んだ作品を、早苗は食い入るように凝視していた。その瞳には、予期せぬものが出てきたことへの当惑と、作品に対する強烈な感銘が滲んでいる。

 私は一筋の希望を見出した。早苗は私の絵に強く惹かれている。

 それを足掛かりとして。

 私は、彼女への思いを伝える。

「私は、萩原早苗が好き」

「……えっ?」

 名を呼ばれてこちらを向いた早苗と、目が合った。

 私は、自分の思いをまっすぐにつむぐ。

「信じられないくらい綺麗な君が好き。

 口の悪さには最初びっくりしたけど、慣れると君らしさを感じ始めて好きになった。

 学校に行ってないのに勉強ができて、人に教えるのも上手なところがかっこよくて好き。

 クールで大人びてるところが好き。

 でも、たまに見せてくれる年相応な笑顔も好き。

 つっけんどんなようで実は面倒見が良くて、なんだかんだと私のわがままに付き合ってくれるところが好き。

 自分を犠牲にしてでも誰かを助けようとしちゃう優しさが好きで。

 つらい闘病を耐え抜いて病気に勝った強いところが好きで!

 私の絵をいつだって褒めてくれる優しいところが好きだ!」

 絶え間ない肯定を重ねるごとに、早苗の目が潤んでいく。

「自分で気が付いてないだけで、早苗はちゃんと素敵な女の子だよ。この絵には、そういう意味も込めてるんだ。私は早苗のこと、大好きだよ」

 早苗が私にとってどれだけ大事な存在か。

 言葉だけじゃ届けきれるか分からなかった。

 だから私はこの絵に思いを乗せたのである。

 これで、早苗は自分を好きになってくれるだろうか。

 俯くのをやめて、前を向いてくれるだろうか。

 私の思いは響くだろうか。

「だからさ、早苗」

 上手くいくことを願いながら、私は早苗に乞う。


「一生のお願い。自分に自信を持って。そしてどうか笑って、前向きに生きて」


 大好きな友人に、明るい未来が訪れることを祈って。

「私、本当に生きてていいの……?」

 すがるように問う早苗に、私は何も言わず頷く。

 その瞬間。

 早苗の瞼に溜まっていた涙が、堪え切れずに溢れて頬を伝った。それが呼び水となって、彼女は激しく体を震わせて泣き出す。

 思いが届いたかどうか、言葉にせずともはっきりと分かった。

 自分もつられて泣きそうになりながら、私は泣きじゃくる早苗の肩にそっと手を置くのであった。

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