出会い
1
――彼女との出会いは、最悪だった。
事の発端は私の退屈が爆発したことだった。
「暇だ。暇すぎる。暇すぎて死にそう」
のどかな昼下がり。清潔なベッドに横たわる私は、あまりに退屈な生活に早くも音を上げた。
関東某所、住宅地や繁華街などの栄えた地域から離れたところにある総合病院に、私は昨日から入院していた。辺鄙な土地にある病院ながら県内では規模・設備ともにトップクラスであり、遠方から通ったり入院してくる人も多い。
そんなご立派な当院だが、娯楽に乏しい点は他の病院と同じである。テーマパークやアミューズメント施設ではないので仕方ないが、病室という味気ない空間でじっとしているのは、落ち着きのない私にとって苦行以外の何物でもなかった。
「せめて絵が描ければなあ」
絵を描くのが好きな私は、鉛筆と紙さえあればいくらでも時間を潰せるリーズナブルなお子様なのだが。
ギプスでガチガチに保護されている自分の腕に目を落とし、溜め息を吐く。
私は先日、自転車に乗っているときに転んでしまい、右前腕を骨折した。筆を持つ利き腕の自由を奪われた私は、絵という趣味を一時的に取り上げられているのであった。
怪我の詳細を聞いたときは「折れたのが逆の腕だったらよかったのに」と左腕に自我があったら猛抗議されそうな愚痴をこぼしたものだ。ちなみに顔にも擦り傷を複数こさえていて、両親には腕よりもこちらの方を心配された。
そんなわけで絵を描けず暇潰しに飢えている私に、我慢の限界が訪れたのである。
私はベッドから立ち上がってクロックスを突っ掛けた。
「
向かいのベッドから声を掛けられる。
「はい。病院の中歩いてきます」
「そう。そうだ、飴ちゃん食べる?」
「いただきます!」
志田さんからカラフルな包み紙のキャンディーを受け取って、口に含む。苺ミルクの滑らかな甘さが口の中に沁みた。本当は院内へのお菓子の持ち込みは禁止されているらしいが、ただでさえ楽しみが少ない環境なのだから、これくらいはお目こぼし願いたい。
「ありがとうございます! それじゃあ、行ってきます」
「はあい、気を付けてねえ」
ニコニコした志田さんに見送られながら、私は二人部屋の病室を飛び出した。
志田さんに告げたとおり、病室を出た目的は院内の散策だ。この病院にはまだ来たばかりで、どこに何があるのかよく分かっていない。もしかするとどこかに私の退屈を紛らわしてくれるものがあるかもしれない。そんな期待あっての行動だった。少なくとも病室で寝たきりで過ごすよりは気が紛れるだろう。
ぶかぶかの患者衣の裾を引きずりながら廊下を歩いていく。いま私がいるのは五階の病床フロアだ。通路の両側には病室が並んでいるが、あまり人気はない。すれ違った腰の曲がったおじいさんから物珍しげな視線を頂戴する。ここでは私ぐらいの歳の子供が少ないせいか、何かと注目を浴びがちなのだ。私はおじいさんに会釈して横を通り抜けた。
廊下の中央にたどり着いた。ここにはナースステーションがある。応接口から中をこっそり覗き見る。
「まずい」
透明なガラス板で隔てられた向こう側に見知った顔を見つける。ポニーテールが似合うその妙齢の女性は
安野さんからは、体に障ると悪いからあまり動き回らないように、と言われている。こうして院内をほっつき歩いているのもあまりよく思われないだろう。だから私は安野さんに見つからないよう、屈んだ姿勢でフロアの中央を通過した。
フロアの反対側へ渡り、廊下の端まで行ってみたが、病室が並んでいるばかりで目新しいものは見つからなかった。下の階も順に見て回ったが、四階は五階と同じく病床フロアで特に変わったことはなかった。検査室や治療室がある二階・三階は興味をそそられたものの、人の行き来が多くて立ち入るのは少し気が引けた。残る一階は受け付けとロビーが主で、ここは昨日のうちにあらかた見終わってしまっている。ちなみに五階より上はすべて病床フロアで、様子は見なくてもだいたい予想がつく。
というわけで。
「なんもないじゃんか」
私の退屈を吹き飛ばしてくれるような発見は得られなかった。
がっかりした私は一階ロビーに並ぶ長椅子の一つに座り、だらりと背もたれに寄りかかった。
体が少しだるい。二〇分も歩いていないはずだが、人一倍体力がない私の息は軽く乱れている。探索の成果が芳しくなかったことも疲労に拍車を掛けていた。
「やっぱ病院ってこうなのか」
入院生活はつまらないものだと知識として心得ていたものの、実際体感してみるとかなりつらい。しかもまだ二日目でこれなのだ。先行きが思いやられる。
暗い未来に打ちひしがれながら、正面の壁にある病院の案内図をぼんやり眺めた。そこに示されている情報は当然ながら、私が今しがた自分の目で見てきた通りのものだった。それでも、何か見落としてるものがあるのではないかと、端から端まで目を通す。
「お?」
とある単語が目に留まった。それは病院の建物の外、正面玄関の反対側のスペースに、ぽつんと記載されていた。
「裏庭、か」
そういえば昨日志田さんと話していたとき、病棟の裏に綺麗な庭があると聞いた気がする。建物の裏側に面した病室だと窓から見下ろせるらしいが、私がいる病室は正面側なので、残念ながらまだお目にかかれていない。
裏庭。どんなものだろうか。庭と称するからにはただの空き地ではないだろう。だが案内図では端っこに小さく記されているだけ。恐らく大した規模ではない。
「まあ、見るだけ見てみるか」
建物の中の行けるところはほぼすべて歩き回ったのだ、今さら庭一つ見に行くのを面倒がる道理もない。
椅子から立ち上がり、案内図が示す裏口とやらに向かう。そこから裏庭に出られるらしい。受け付けを通り過ぎ、廊下を少し進んだところで、右に折れる。
あった。階段の脇に年季の入った鉄扉がひっそりと佇んでいた。
ドアノブを回して扉を外へ押す。片腕が使えない身には少々開けるのに苦労する扉だったが、肩を当てて全身で押すと、扉は蝶番の軋みとともにゆっくりと開いていった。
そして。
「……え?」
扉の外の景色を見て、唖然とする。
おとぎ話に出てくるような立派な庭園が目の前に広がっていた。
みずみずしい草花が群生する花壇と、その間を縫うように伸びるいくつもの石畳の小道。ところどころにベンチや蔦が絡んだアーチなどの装飾品も置いてあり、全体の意匠は西洋風に統一されていた。庭は病院の建物に沿う形で横に長く作られており、恐らく学校の校庭くらいの広さがある。背の高い生垣や木もあって全容を見渡せないため、もしかするともっと広いかもしれない。
「すごい……裏庭ってレベルじゃないよこれ」
予想していなかったそのスケールに圧倒されながら、私はふらりふらりと歩き出す。庭へ入っていくと柔らかな日差しと草の匂いに包まれた。病院の中では感じられない柔らかで有機的な空気だ。近くの花壇に目をやると、色とりどりの可愛らしい花が密生していて、その周りをチョウやミツバチが飛んでいる。多いのは夏バラだろうか、色とりどりの豊かな花弁が一面に咲き誇っている。心躍る光景だ。
ふと不安になって後ろを振り返る。当然だがそこには、庭と対極的に無彩色で無機質で人工的な病棟がどっしりとそびえ立っている。私はほっとした。裏庭が病院と別世界すぎたので、これ夢じゃないよね? と心配になったのだ。
退屈は吹き飛び、高揚と期待で胸が膨らんだ。同時に、創作意欲も沸々と湧いてくる。利き手を骨折していなければすぐさま鉛筆を走らせていただろう。
どこを切り取っても絵になる風景に目を奪われながら歩いていると、バラの生垣がふっと途切れ、開けた空間に出る。
「うわあ、きれい……!」
ちょうど庭の真ん中あたりに位置するその場所には、円形の人工池があった。スイレンが浮かぶ池の中央には同じく円形の小さな島があり、その上には六角形の屋根を持つ洋風の東屋が建っている。池の水面は凪いで鏡のようになっており、東屋の優雅な姿をきれいに映し取っていた。
西洋画のような水辺の景色に見とれていると、池の中に飛び石を見つけた。飛び石は岸際から始まり、真ん中の小島に向かって続いている。あれを渡っていけば池の中の小島にたどり着くというわけだ。
梅雨明け前で夏本番はもう少し先だが、それでも七月のお昼時とだけあって気温はそれなりに高い。照りつける日差しも気になって、日陰を探していたのでちょうどいい。あの東屋の中で休憩することにしよう。
池に落ちないよう、慎重に飛び石の上を歩く。池はさほど深くなく、緑の藻で覆われた水底が見える。私が一歩進むたびに、飛び石の陰に隠れていた小魚たちがパッと散り散りに逃げていった。
無事に飛び石を渡り切って対岸を踏む。ほどよい日陰を作り出している東屋は、側壁から内側に向けて板が水平方向に張り出してベンチのような構造になっている。庭を歩き回って疲れていた私はさっそく腰を下ろして一息つき、
「どわああああっ⁉」
先客がいて飛び上がった。
東屋の入り口の脇に、私と同じくらいの歳の女の子がいた。患者衣を着ているので彼女も入院患者だろう。昼寝でもしていたのか、板の上に横たわり上半身を起こした格好で固まって、私を凝視している。東屋に入るときには死角になる部分だから見えなかったのだ。
「ごめんなさい! 人がいるとは思わな、くて……」
私は女の子の眠りを邪魔したことを謝ろうとして、言葉を失った。
至近距離に人がいた驚愕が落ち着いた私は、女の子が凄まじく美人であることに気付いた。雪みたいに白い肌と、墨を引いたような長い黒髪のコントラストにハッとし、鶴を思わせるほっそりとしてしなやかな体つきに目を奪われる。明美な庭を背にしたその姿はまさに深窓の令嬢といった佇まいである。
どくり、と体の奥で熱い情動が煮え滾る。それは創作意欲だった。彼女を絵に描きたい、という衝動が体の中で暴れ回り、ギプスで固められた右腕が疼く。
しかし私は自分が今置かれている状況を思い出した。今は雑念を振り払って事態の収拾に集中することにしよう。
女の子は無言で私を見据えている。目尻が切れ上がった目は訝しげに眇められており、どうやら私を警戒しているらしい。彼女の造形は整いすぎていて、同じ人間と向かい合っている気がしない。森で人と遭遇して相手の出方を窺う美しいの獣のようだ。
女の子から警戒心剥き出しの視線を頂戴してそわそわする。だが同時に共感もしていた。眠っているところに突然他人が現れて絶叫したら、それが私のようなちんちくりんでもそりゃ怖いに決まっている。
今はとにかく、自分が怪しい者ではないことを彼女に分かってもらわなくては。
「私は
「……」
とりあえず自己紹介してみたが、彼女は疑わしそうに目を細めただけでだんまりだ。よく考えると、寝起きに突然目の前に現れた人間に素性を明かすのは嫌かもしれない。無視されるのも仕方ない。
反応が芳しくないので別の話題を振ってみる。
「この庭すごくきれいだよね、びっくりしちゃった。私花とか好きだからこういう場所ってテンション上がるんだ。君はどう? いつもここにいるの?」
「……」
彼女の表情がさらに渋くなる。なんでだよ。精一杯人当たりのいい笑顔で、差し障りのない話をしているのに。
困った。会話のキャッチボールが成り立たない。相手が拾ってくれそうなボールを投げなければ。他に話の種は……そうだ。
「君、すっごく綺麗だね! 肌が真っ白で、髪も長くてさらさらで、羨ましいな。まるで花園に舞い降りた妖精、みたいな?」
女の子の容姿を褒めてみる。相手を持ち上げるのは円滑なコミュニケーションのための定石だ。なんだか私がナンパしているみたいになっている気もするが、女同士だしセーフ。たぶん。
これで機嫌を良くしてもらえればいいのだが。
すると、今まで一言も喋らなかった女の子が、口を開く。
「うざい」
「え?」
低く、忌々しげな第一声。女の子は先ほどまでの胡散臭そうにこちらを値踏みするような態度から一変して、明確な苛立ちを伴って私を睨んでいた。
「えっ、あの……」
期待していたのと真逆の反応が返ってきて混乱する。キャッチボールをしようとボールを投げたら、バットで顔面に打ち返されたくらいの衝撃だ。
動揺してしどろもどろになっている私へ、彼女はさらに追い打ちを掛けてくる。
「不愉快。目障り。どっか行って」
「あの、私」
「どっか行ってって言ってるよね? 耳聞こえてないの? それとも日本語できないの? 馬鹿なの?」
取りつく島もない暴言の嵐。せっかくの美人が怒りで歪んで台無しになっている。
何が癇に障ったのか分からないが、私は彼女の機嫌を完全に損ねてしまったらしい。
「ごめんなさい! 君を怒らせちゃったみたいで。悪気は全然なかったんだけど」
「本当に話の通じない人間ね。もういいわ、私が帰るから」
「ちょっ、待って」
「待たない」
私の制止などお構いなしに、彼女は平行線な会話を断ち切って東屋を立ち去る。
追いかけようかと思って立ち上がったが、私の足はそこから進まなかった。あの様子では今はどんな言葉を掛けてもきっと取り合ってくれないだろうから。
女の子とのやり取りを振り返る。
何か彼女を怒らせるようなことを言ってしまっただろうか。いや、心当たりはまったくない。
飛び石を渡って去っていくか細い後ろ姿を、私は呆然と見送った。
「なんなんだ、あの子」
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