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女の子が東屋からいなくなった後、私はその場に留まって放心していたが、しばらくすると空模様が怪しくなってきたため、雨に降られる前に病室に戻った。
部屋に帰ってきてすぐに降り出した雨は、今も続いている。そのせいでまだ六時前だというのに外はだいぶ暗い。
病室の窓を滑り落ちる雨粒をおざなりに目で追いながら、私はベッドの上で物思いに耽る。
昼間の一件以来、あの女の子のことが頭から離れなかった。
同じ生きものとは思い難いほど綺麗な顔をしている反面、見目の良さからは想像もつかないくらい口が悪い女の子。
もちろん心証は良くない。初対面なのに、理由も分からないままいきなり喧嘩腰で突っかかられたのだ。温厚な私だって腹の一つくらい立つ。
だけど私は、彼女のことを考えるのをやめられなかった。
きっと顔が良いからだ、と私は思う。あの女の子は、今まで出会った中で最も綺麗な人だった。私はその美しさに魅入られ、心を奪われた。
そして同時に、創作意欲を強烈に刺激されたのだ。
あの子を描きたい。
彼女をモデルにして絵を描けたら絶対に楽しいだろうし、私史上最高の傑作を生み出せるはずだ。想像するだけでギプスの下の右腕が震える。
だがその野望は前途多難だ。残念ながら私は現在、あの子に嫌われてしまっている。今のままでは、絵を描かせてくれと頼み込んだって間違いなく断られる。彼女にモデルを依頼するのであれば、最底辺からスタートした私たちの関係を少なくともプラスマイナスゼロあたりまで持っていかなくてはならない。
ただ、昼間のあの子の荒れっぷりを見るに、仲直りはとても難しそうだ。
そもそも、あの子はどうして怒ったのだろう。私が何か悪いことをしてしまったのか。それとも虫の居所が悪くて八つ当たりされただけなのだろうか。
考えても答えが出ないそんな疑問が、皮膚に刺さってなかなか抜けないトゲのように私を苛んでいる。
そうして悶々としていた私のもとに、意外なところから救いの手が差し伸べられた。
「はーいこんばんはー」
ひょうきんな挨拶と共に銀色のワゴンを押しながら現れたのは、担当看護師の安野さんだった。六時を回っているので夕食の配膳に来たのだろう。
食事を乗せたプレートを運ぶ安野さんが、私を見て顔を曇らせる。
「あれ? どしたの陽子ちゃん。元気ない?」
「え? そんなことないですけど」
「本当にー? 食事の時間になるといつもツバメの雛みたいにはしゃいでるのに、やたら静かじゃん」
「私ってそんなイメージなんですね」
「それに今はなんか、初カレとの初めての倦怠期迎えてまじブルーな気持ち、みたいな憂鬱そうな顔してるわよ」
彼氏いたことないから分からないよ。と口には出さずに突っ込みながら、安野さんの軽口に苦笑いを返したが、元気がないというのは当たらずも遠からずだ。昼間の出来事について考えているせいで、気持ちは塞ぎ気味になっている。
ふと思った。もやもやしたものを独りで抱え込んでいるよりも、誰かに話した方が楽になるのではないだろうか。
「安野さん、実は――」
そう考えた私は、裏庭での出来事をかいつまんで話すことにした。悩み事の相談というほど真剣ではなく、あくまで世間話をするという調子で。業務の片手間で私の愚痴っぽい何かを聴いてくれた安野さんは、話が終わるとまずこう言った。
「できるだけ大人しくしててね、って言ったよね? それなのに君はさっそく外に遊びに行ってたわけだ。この問題児ちゃんめ」
「げっ。それは……ごめんなさい」
予想外の方向に話が転がってしまった。そういえば病室から出るのは控えるようにと言われていたっけ。すっかり忘れていた。
私の行動を窘めた安野さんだが。
「ま、好奇心とエネルギーを有り余らせている中学生が病室でひがな一日じっとしてるのは難しいって分かってるから。本気で止めようとは思ってないよ」
その実、大して問題視していないみたいだった。
「どのくらいの本気度ですか?」
「タバコ吸ってる高校生を注意するときくらい?」
「未成年喫煙は全力で止めてください」
安野さんは、ぺろり、と舌を出しておどけた。この看護師、中身はけっこういい加減かもしれない。
「とにかく、体調が悪くならない程度なら、外を出歩いてても目こぼししたげる。ずっと部屋に引きこもってて運動不足っていうのもかえって体に悪いしね」
「ありがとうございます」
この件はなんとかお咎めなしで済んだ。
逸れた話が一段落したところで、安野さんが話題を切り替える。
「それで、陽子ちゃんが会った女の子のことだけど。それたぶん
なんと。あの女の子の名前があっさりと分かってしまった。私はダボハゼばりに食いつく。
「知ってるんですか⁉」
「まーねー」
部屋の向かいの志田さんも会話に入ってくる。
「よく裏庭にいる子かしら? えらくべっぴんさんよねえ」
「二人とも知ってるんですか。話聞いただけでよく分かりますね」
感心気味に呟くと、安野さんはからからと笑った。
「だって陽子ちゃんと同じくらいの女の子って他にいないから」
「へ、へえ」
二人しかいないのか同年代。マジか。
「早苗ちゃんって、どんな子ですか」
気になっていたあの女の子について色々聞けるチャンスが降ってきたのだ。これを逃すわけにはいかない。
「そうだねえ……早苗ちゃんは、ちょっと気難しい子かな」
安野さんは言葉を選びながら早苗について語った。
「大人しくて礼儀正しいいい子なんだけど、ちょっとよそよそしくてね。向こうからは滅多に話し掛けてこないし、会話も最低限のことしか応じてくれない。どうも心を開いてくれてないって感じかな」
志田さんも意見を述べる。
「挨拶すると会釈は返してくれるのだけど、そのあとすぐ逃げるみたいにどこかに行っちゃうのよねえ。ちょっと恥ずかしがり屋なのかしら」
「うーむ」
二人から語られた早苗の人物像に私は首を傾げた。
心に壁を作っているという点は同感だが、おとなしいとかシャイなどという評価には同意しかねる。なにせ私が聞いた早苗の第一声は「うざい」だったわけで。実物を見た印象と安野さんからの伝聞とではちょっと食い違いがあった。
ちなみに、本人がいないところで悪口を言うのは陰湿に思えたので、早苗に暴言を吐かれたことは伏せている。安野さんたちは早苗の口の悪さを知らないようなので、黙っていて正解だった。
「まあでも」
と、大人な安野さんはフォローも入れる。
「ずっと入院生活してるから、内気な性格になるのも無理ないのかもね」
「早苗ちゃんって入院長いんですか?」
「もうかれこれ五年くらいになるかしら」
「そんなに⁉」
「うん。ちょっと難しい病気でね」
気の遠くなる年月に、私は目を剥いた。
既に五年に及んでいるという早苗の入院生活。私と同い年ということだから、彼女は小学校低学年から入院していることになる。この病院には私たちと同年代の子供はいないとのことなので、その間友達は一人もいなかったのではないだろうか。
早苗が私に対して年甲斐もなく怒りを露わにした理由が、なんとなく分かった気がした。彼女と対峙したとき、私は人に慣れていない獣を想起したが、実際そのイメージ通りだったのかもしれない。彼女は人付き合いが希薄なせいで、他人との接し方がよく分からないのだろう。それであのように暴言のマシンガンと化していた、と。
もちろんこれはただの想像に過ぎないが、そうだとすると早苗の見え方は変わってくる。あの粗暴な言動が、孤独な入院生活に起因するコミュニケーション面の不器用さによるものと考えれば、同情の念も湧くというものだ。
それに、安野さんや志田さんの前では波風立てず大人しくしているらしいから、誰彼構わず噛みつく狂人というわけでもないはず。つまり、早苗が不機嫌になったのは何も理不尽なことではなく、私の言動に何かしらの問題があったということだ。
その問題は今のところさっぱり分からないけれど。
怒らせるようなことをしてしまったのであれば、やはり謝るのが筋だ。
私は安野さんと志田さんに礼を言った。
「早苗ちゃんのこと、教えてくれてありがとうございます」
「いえいえ。早苗ちゃんはここじゃ貴重な同年代なんだから、仲良くしときなよ」
「仲良くか……がんばります」
最初は、なんと粗暴な少女なのだろうと戸惑った。だがその裏には、長きに渡る入院生活という気の毒な事情があったと見える。
私は今、早苗に対して憐憫を抱いていた。そしておこがましい話だが、自分の手で早苗を救えないだろうかと考えている。
その方法はシンプルだ。
早苗と友達になる。
そうすれば早苗は寂しい思いをせずに済む。私も友達がいないよりはいる方が、病院での時間を楽しく過ごせるだろう。それに絵のモデルだって引き受けてくれるかもしれない。私と早苗の両方にメリットがあった。
そうとなれば、やることは決まった。
早苗に謝ろう。
きちんと話し合って和解しよう。
入院二日目の夜。
退屈で腐りかかっていた私に、目標ができたのであった。
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