22

 安野さんの案内で、私は一つ下の階にある個室病床を訪れた。

 業務に戻る安野さんに礼を言って別れた後、ドアをノックして入室する。部屋は入り口から見て右手方向に広がっていて、中央にはリクライニングベッドがある。

 そのベッドの上に、早苗が仰向けで寝ていた。点滴投薬を受けているが意識はあり、開かれた両目が部屋に入ってきた私を捉える。

「陽子。来てくれたのね」

 早苗はか細い声を発した。彼女がまだ生きていることを確認できて、私はひとまずほっとする。

 早苗を襲ったのは脳出血だった。予想通り、大きくなりすぎた腫瘍が周りの血管の一部を傷つけてしまったとのことである。出血による脳の圧迫で早苗は強い痛みに襲われ、一時は意識を失いもしたそうだが、止血剤と頭の中の圧力を下げる薬剤を投与されたことで症状は次第に落ち着き、昼過ぎには目を覚ましていたらしい。

 早苗は幸い一命を取り留めた。しかし、これでもう安心、というわけにはいかない。腫瘍はいつまた脳出血を引き起こすか分からない。危険な状態は未だに続いている。

 早苗の現在の容態と、今後の展望。安野さんから聞かされているそのあらましは、あまりに希望のない惨憺さんたんたるものだった。

 なぜこんなことになってしまったのか。

 その理由を、私はもう知っている。

 早苗の命が危険に晒されたのは偶然などではない。そうなることを望んだ者によってもたらされた必然の出来事だった。

 ここには、その動機を訊きに来た。

 恐らく向こうも、そのつもりで私を呼び出したのだろう。

 部屋の隅に置かれている椅子を、ベッドの傍に持ってきて座る。

 そして私は、硬い声で詰問した。


「どうして、薬を飲んでいなかったの?」


「……最後の最後でバレてしまうなんて、私も運がないわね」

 問われた早苗は、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべた。

 倒れた早苗が看護師に持ち上げられたときに落としたもの。それは彼女に処方された服用薬だった。脳腫瘍を弱らせる効果を持つ薬で、朝夕二回、食後に飲むものである。

 その薬が包装を解かれた状態で早苗の服のポケットから出てきた。後に看護師がポケットの中を検めると、早苗が朝食の後に飲んでいるはずの薬がすべて入っていたという。

 このことについて担当医が問い質したところ、早苗はあっさりと白状した。

 薬は飲まずに捨てるつもりだった。

 半年前からずっとそうしていた。

 と。

 これが早苗の脳腫瘍が大きくなった原因である。ずっと服用していた薬を飲まなくなったから、薬で抑制されていた脳腫瘍の成長が進んでしまった。不思議なことなんて何もない、早苗の病状悪化は当然の結果だったのだ。

 ではなぜ、早苗は自ら病気を進行させるような行為に及んだのか。

「薬がとても苦くて飲むのが嫌になったから。と言えば信じてくれる?」

「ふざけないで」

「そうよね。ごめんなさい」

 質の悪い冗談を咎めると、早苗は憑き物が落ちたような表情で自供する。

「私、死ぬつもりなの」

 死のうとしている。何でもないことのようにさらりとそう言ってのけた早苗に、私は戸惑いを覚える。

「どうして? 死なないで、って私前に言ったじゃん。なのに、なんで死のうとするの?」

 私たちが出会って間もない頃、早苗は私に自殺願望を告白した。ずっと病気が治らない上に、闘病で家族に迷惑ばかり掛けている自分に嫌気が差して、生きることにんだのだと。

 だがあのときの早苗は、自ら命を絶つ勇気はまだないとも言っていた。加えて葵さんからも、私と一緒に過ごすようになってから早苗の様子が明るくなったと聞いていた。だから、早苗の自殺願望はもう消えてなくなったのだとばかり思い込んでいた。

 一体何が早苗に死を望ませたのか。

 その理由が、明かされる。

「私が死のうとしているのはね。陽子、あなたのためよ」

「私のため?」

「ええ」

 訳が分からず聞き返す私に、早苗が優しく微笑む。

「私が死んだら、私の心臓を臓器移植のために提供できるから」

「!」

 臓器移植。その言葉に、背筋が凍りついた。

「死んで心臓を差し出すことで、あなたが移植を受けられるようになるかもしれない。そのために、私は死ぬの」

「そんな……」

 想像の範疇を超えていた早苗の目論見に、私は言葉を失う。

 早苗は私のためにドナーになった。自分が死んだときに、心臓を提供することでちょっとでも私の助けになりたいから、と。しかしそれはあくまでも、早苗が万が一死んでしまったら、という仮定に基づいた保険的な備えだったはずだった。

 だが。私はふと気付く。

 早苗が薬を飲まなくなったのは半年前からだと言っていた。それはちょうど、私のレシピエント登録が完了し、早苗がドナーになることを決めた時期と重なっている。

 その一致から、おぞましい結論が導かれる。

 早苗は自分の死を前提にしてドナーになった。

 初めからずっと、心臓を提供するために死ぬつもりだったのだ。

 早苗からドナーになると報告された日に私の頭をよぎった、早苗が死に近づいたかのようなイメージは、偶然にも錯覚ではなかったわけである。

 浮かび上がった事実に強烈なショックを受けて、私は口元を手で覆う。

 臓器移植に使われる臓器は、不幸にも亡くなった人から提供されるものである。つまり、臓器移植を受ける人のせいでドナーが死ぬわけではない。だからレシピエントはドナーに感謝こそすれど、引け目を感じる筋合いはないのである。

 しかし今回の件については話が別だ。早苗は私のために心臓を提供すべく、遠回りながらも自殺を図った。

 これはもう、移植を望んだ私のせいで早苗が死ぬようなものだった。

「こんなこと、私は頼んでない!」

 私は早苗をキッと睨む。

「私が心臓移植を受けられるようにするために、早苗が死ぬ? それのどこが私のためになるの⁉ 私は早苗を犠牲にしてまで生きたいなんて思ってない!」

 私が生き延びたとしても、早苗がいない未来はバッドエンドである。そんなことになるなら私だけ死んだ方がまだマシだ。

 怒りを込めた私の訴えに、早苗が同調を見せる。

「そうね。確かに、あなたのためというのは少し間違っていたわ」

 しかし、続く訂正はまったく予期せぬ方向へと向かった。

「本当はね。半分は私のためなの」

「君のため? 何を言っているの?」

 命を投げ打って私を救うことが、どうして早苗のためになる?

 その道理に疑問を抱く私に、早苗が答えを示す。

「自分の人生に意味を持たせたい。だから私はこうしたのよ」

「……えっ?」

 私は毒気を抜かれる。

 人生の意味。それは私が以前母に向けた言葉だった。

「私、自分の人生に意味なんてないと思ってた。一生病院の中で何もできないまま死ぬまで過ごして、今際いまわきわに、ああ無駄な生涯だった、って嘆きながら死んでいくんだって諦めてた」

 救いのない暗然たる未来に失望した早苗は、自分には生きている価値がないと卑下し、死んだ方がマシだと唾棄していた。

「そんな私のもとに、陽子、あなたが現れた」

 名前を呼ばれて、肩がぴくりと跳ねる。私を見つめる早苗の瞳に、敬愛の念が輝く。

「あなたは並外れた絵の才能を持っていた。私と違って生きる価値がある人間だった。何より、生きた意味を遺すという信念が、とても眩しかった。意味のある生を送ることは、私には無理だと思っていたから」

 早苗は私の絵の腕をいたく買っていた。だがその裏に憧憬の念があったことは知らなかった。

 そして、その憧れは道を踏み外す。

「でも、私にもチャンスが巡ってきた。臓器移植の話を聞いて、私思ったの。生きるべき人間であるあなたを助けられたら、あなたの生きる糧になれたら、私の人生にも価値が付くんじゃないかって」

 ぞくり、と怖気が走る。早苗が死のうとしている理由を察して、私は一気に青ざめた。

 早苗が、一片の迷いもなく意思を表す。

「だから私は死ぬの。死んで。心臓を捧げて。あなたの命を救う。それがこれまで私が生きてきた意味だと思うから」

 あまりに壮絶な覚悟だった。

 どうしようもなく献身的で、破滅的な選択だった。

 そして。

「……分かるよ。早苗の気持ち」

 早苗の考えに、私は納得するしかなかった。

 早苗は私と同じだ。彼女も、自分が生きた意味を遺そうとしている。病気によって様々なことを諦めざるを得ない中で、それでも人生を無駄なものにしないために、自分にできる最善を尽くそうと考えて行動したのだ。

 自分と同じ信念に殉じようとする早苗に、私は共感する。

「何も遺さずに死ぬのは、怖いよね。何か一つでも有意義なことを成し遂げたいって思うよね。分かるよ。私もそうだから」

 私も、生きた意味を遺すために命を懸けている。人工心臓による延命を拒否して、絵を描くことを選んだ。だから私に、早苗の行いを責める資格はない。

 だけど。

「でもね。それでも私は、君に生きててほしかった……!」

 頭では理解できても、心が受け入れてくれない。

 どうしても、早苗には死んでほしくなかった。

 理性と相反する感情の抑えが利かなくなって、私はぼろぼろと泣き崩れる。

 人工心臓の件で私と揉めたときの母も、こんな気持ちだったのだろうか。大切な人が自ら死に向かっていくのを止められないもどかしさとつらさを思い知って、私はむせび泣いた。

「ごめんね、陽子」

 悲嘆に暮れる私に詫びた早苗は、しばし間を置いた後、新たな話を切り出す。

「恐らく明日、手術を受けることになるわ。今、ママと担当医の先生が話し合って細かい調整をしているところよ」

 それも安野さんから事前に聞いていた。脳出血という実害が発生してしまった以上、脳腫瘍をこれ以上野放しにしておくことはできず、手術による摘出に踏み切ることになったのだと。

「この手術はものすごく難しいの。たぶん手術は失敗して、私は死ぬわ」

 早苗の脳腫瘍は手術での摘出が難しい場所にあり、葵さんによると手術の成功率は一割もないという。もしミスが発生して、腫瘍の周りの脳や太い動脈が傷つきでもしたら、早苗は帰らぬ人となる。

「だからこれがきっと、あなたに伝えられる最後の言葉」

 早苗は目に涙を浮かべて笑った。

「陽子。あなたにはとても感謝してる。空虚で退屈で無意味な生涯を遂げるはずだった私を、あなたが救い出してくれた。あなたと出会えて本当に良かった。私と友達になってくれて、ありがとう」

 早苗の手が、こちらに差し向けられる。

「私の死であなたを救えるかは分からないけれど。どうか生きて。立派な絵描きになって、私の分まで生きて」

 もう会えなくなるであろう私へ向けた、別れの言葉。

 私は早苗の手を取る。上手く力が入らないのだろう、その手は小刻みに震えていた。

 だけど。まだ温かい。

 だから。まだ諦められない。

「……最後じゃない」

「え?」

「手術、成功するから。これが最後になんてなるもんか」

 涙を溢れさせながら、私は早苗の見立てを否定する。

 早苗は自分の死を確信しているようだが、まだ手術が失敗すると決まったわけではない。途轍もなく分は悪いが、早苗が生き延びる可能性はゼロではないのだ。

 僅かでも希望があるのなら。

 私はそちらに賭ける。

「だからお願い。一生のお願い。生きて帰ってきて」

 私は早苗の手を胸元に抱き寄せて哀願する。

 早苗は不意を突かれたようにしばし唖然としていたが。

「陽子、それ三度目よ」

 是も非も返さず、困り果てたように弱々しく笑うのであった。

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