21

 色鉛筆を握る手が、止まった。マラソンの途中でゴールの遠さにくじけて立ち止まるみたいに、筆先はそれ以上動かなくなる。

 私は爪を噛みながら未完の絵を睨んだ。窓辺に佇んで、しとしとと雨が降る庭を眺める、患者衣姿の早苗。病室に雨模様という閉塞感のある舞台と、早苗が持つ陰のある雰囲気を活かして、胸を絞めつけるような哀れみを表現するつもりだった。

 だが、描いている途中で私は悟った。この絵は傑作になり得ない、と。手を入れていくにつれて徐々に見えてきた絵の見栄えは期待外れで、ここから先をどう描き進めても、私の求めているクオリティに届くビジョンが見えない。この絵はもう、詰んでいた。

「……ごめん早苗。またダメだった」

 制作の打ち切りを告げると、ポーズを取っていた早苗がこちらを振り向く。歯を食い縛って俯く私を見た彼女は、憐憫れんびんの念を滲ませながら、「……そう」と一言だけ呟いた。

 月日は急流のように過ぎ去り、年が明けてから早くもひと月が経っていた。今年の冬は平年に比べると暖かいらしいが、それでも日が沈んでいる間の冷え込みは厳しく、病室の窓は絶えず露に濡れている。

 そんな冬の真っ只中。

 私はスランプに陥っていた。

 昨年末、母との口論の末に人工心臓の導入見送りを決めてから、私は以前より輪を掛けて創作に力を注いでいた。残されている時間はもうあまりない。自分が生きているうちに、この人生に価値を持たせられるような渾身の一作を仕上げるべく、私は起きている時間のほとんどを絵に費やした。

 だがそんな気勢とは裏腹に、制作は行き詰っていた。描けども描けども出来上がるのは凡作ばかりで、私の心を満たす作品は一向に生まれてこない。手応えのありそうな構想が降ってきたとしても、実際に線を引き色を塗ってみるとその輝きは褪せてしまう。最近では今日のように途中で諦めて筆を置いてしまうこともあったりと、私は今までに経験したことのない絶不調に直面している。

「綺麗に描けてるのに」

 完成させられなかった絵に対して、早苗は当惑と落胆が半々の感想を述べる。

「せっかく付き合ってもらったのに、最後まで描けなくて本当にごめん」

「私は別に構わないけど。それよりさ」

 早苗はベッドに腰掛けると、心配そうに私の顔を覗いてくる。

「絵からしばらく離れた方がいいんじゃないかしら。今のあなた、全然楽しそうに見えない」

 早苗の助言は核心を突いているように感じられた。以前なら考えられなかったようなことだが、ここのところ私は絵を描くことを楽しいと思えなくなってきている。

 原因は自分でも分かっていた。今の私は焦燥感と義務感に突き動かされて絵と向き合っており、そのような精神状態が作品に悪い影響を与えているのは確かである。焦りによってパフォーマンスが落ち、さらに焦りが募る。もがけばもがくほど沈み込んでいく底なし沼のような負の連鎖が、私のスランプの正体だった。

 だが、それが分かったところで私にはどうしようもないのだ。

「……分かってるよ。でも、私には休んでいる時間なんてない」

 病気は悠長に待ってくれはしない。こちらの都合など一切お構いなしに、じわじわと私を侵してくる。刻一刻と近づいてくる死神のイメージが脳裏にちらついて、立ち止まることを許してくれない。描く以外、私には選択肢がなかった。

「大丈夫。飛び切りすごい絵をきっと描いてみせるから。もうちょっと待ってて」

 早苗に心配させないため、そして自分自身を奮い立たせるために、私は空元気を振り絞る。

 早苗は少し不満そうな様子だったが、これ以上は何を言っても益体やくたいなしと判断したのだろう、「あまり根を詰めすぎないようにね」と慰労いろうの言葉を口にして、話を締めたのであった。

 時計を見ると、時刻は十一時を回ったころだった。朝食のすぐ後から今までぶっ通しで絵を描いていたため、私たちは休憩がてらお手洗いに行くことにする。

 連れ立って病室を出て、廊下を少し進んだとき。

 異変は起こった。

「うっ……」

「早苗?」

 隣を歩いていた早苗が突然呻いて、こめかみに手を添える。

 そして弱った蝶みたいにふらふらとよろけた後、壁にもたれかかるように倒れ込んだ。

 寸秒、頭が真っ白になる。

 早苗が尋常ではない唸り声を上げた。

 ここでようやく、私は何が起こっているのかを理解した。

「早苗! 大丈夫⁉」

 弾かれたように早苗に駆け寄る。激しい頭痛に苛まれているのだろう。床に横倒しになった彼女は、頭を両手で抱え、顔をぐしゃりと歪ませて苦しみ喘いでいる。これまでの頭痛とレベルが違うことは傍目はためにも明らかだった。

 心臓が早鐘を打つ。

 手がぶるぶると震える。

「誰か、誰か! 助けて!」

 私はパニックになりながら、金切り声で助けを呼んだ。

 するとすぐに看護師が数名駆けつけてきた。その中にいた安野さんに、私は必死で訴える。

「早苗が! あ、頭! 頭痛が!」

「ありがと、陽子ちゃん。後は私たちに任せて」

 酷く狼狽している私の口から出たのはしどろもどろの要領を得ない情報だったが、安野さんはそれだけで事態を把握してくれる。

 看護師の人たちの対応は、冷静かつ速やかだった。早苗を仰向けに寝かせ、吐き気や体の痺れの有無を調べる。早苗は息も絶え絶えで額に玉の汗を浮かべていたが、かろうじて質問に答えを返していた。ほどなくしてストレッチャーが到着し、早苗はその上に載せられる。

 そのとき。

 早苗の患者衣のポケットから、何か小さくて白いものが二つこぼれ落ちた。それは床に落ちて何度か跳ねた後、廊下の端で動きを止める。看護師らは早苗の救急対応に集中していて、誰もそれに気付いていない。

 やがて早苗がストレッチャーで運ばれていく。不安いっぱいで早苗を見送っていると、この場に残った安野さんに肩をぽんと叩かれた。

「大変だったね。でも陽子ちゃんのおかげですぐに処置に入れるから、きっと大丈夫よ」

「はい」

 安野さんの励ましに、私はなんとか頷く。早苗のことは心配で仕方ないが、こうなった以上は病院の人たちに任せるしかない。

 それよりも、だ。

 早苗の姿が見えなくなった後、私は屈んで床を見回した。

 探し物はすぐに見つかる。

 さっき早苗が落とした、二つの粒状のもの。

 拾い上げたそれが何なのか理解した瞬間。

 血も凍るような絶望が私を呑み込んだ。

「陽子ちゃん? 何してるの?」

「安野さん! 早苗のポケットから、これが……!」

 拾ったものを安野さんに見せる。初めは訝しげな安野さんだったが、それをめつすがめつすると、にわかに顔つきを険しくしたのであった。



 安野さんに付き添われて病室に戻り、ベッドのへりに腰を下ろした私は、両腕で自身を掻き抱きながら悪寒に震えた。

 早苗が前触れなく倒れた恐ろしい出来事に加え、彼女のポケットから出てきたもののせいもあって、動揺を一向に抑えられない。恐怖に悲嘆、懸念と疑念。様々な感情が津波のように押し寄せてきて、頭がおかしくなりそうだった。

 安野さんから事情を聞いている志田さんが、隣に座って背中を撫でてくれる。

「大丈夫よ、陽子ちゃん。きっと病院の方たちがすぐに治してくれるわ」

「……はい」

 志田さんが傍に寄り添ってくれているおかげで、私はすんでのところで正気を保てていた。今もし一人きりだったら錯乱して泣き叫んでいることだろう。

 早苗が苦しむ姿を思い出す。早苗の身に何が起こったのかはまだはっきりと分からないが、あの常軌を逸した痛がりようを見るに、ここ最近肥大化しているという脳腫瘍が関わっているはずだ。葵さんは、脳腫瘍が脳の血管に影響を及ぼす危険性があると言っていた。脳梗塞か、あるいは脳出血か。いずれにせよ、早苗は非常に危険な状態に違いない。

『最悪を覚悟しておいてください』

 葵さんから授かった助言が脳裏に蘇る。“最悪”は、まさに今訪れているのかもしれない。

 もしも早苗が死んでしまったら――考えるだけで胸が破裂しそうになる。

「お願いです神様。どうか早苗を助けてください……!」

 私にできるのは、友の無事をひたすら祈ることだけだった。

 早苗の身の心配で頭がいっぱいになり、昼食はまともに喉を通らず、その後は気が気じゃない午後を過ごした。安野さんからは「何か進展があったら知らせてあげるから、君は部屋で大人しくしていること」と言われたが、続報はなかなかやってこなかった。

 安野さんが再びやってきたのは、日が暮れ始め雨脚も強くなってきた夕方のことだった。

 せわしない足取りで病室に現れた安野さんは、差し迫った表情で私の両肩に手を置く。

「陽子ちゃん。落ち着いて聞いて」

 不穏な前置きと共に告げられたその内容に、私は足元が崩れ去るような絶望感を味わうのであった。

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