23

 一夜明けて。早苗の手術が始まった。

 手術の大まかな流れは次の通りだ。

 まず頭部の皮膚と筋組織を切開し、脳を蓋のように覆っている頭蓋骨を切断して取り外す。そして頭蓋骨の内側にある硬膜と呼ばれる膜を切り開けば、ようやく脳が露出した状態になる。

 開頭が終わったら。次はいよいよ腫瘍の摘出だ。正常な脳組織と病変部位を切り分けて、腫瘍だけを切除していく。このとき脳組織や血管が傷つくと、患者に後遺症等の悪影響を及ぼし、最悪の場合は死に至る。特に早苗の腫瘍は位置が悪く、少しのミスが文字通り命取りになるため、慎重かつ正確な執刀が求められる。

 腫瘍の摘出が完了したら、出血がないことを確認してから硬膜を縫合し、切り取っていた頭蓋骨を被せ直して特殊な金属の部品で固定する。最後に筋組織と皮膚を縫って元に戻せば全工程終了だ。

 朝九時に開始された施術は、正午を過ぎた現在も続いていた。終了は午後四時予定とのことなので、まだ折り返し地点手前といったところだろう。

 私は病室の時計を確認して、時間の進みの遅さに溜め息を吐いた。

 昨日からずっと、早苗のことが心配で落ち着かなかった。昨夜はほとんど眠れず、点滴投薬のためベッドで寝ていた午前中も不安に苛まれ続け、時折涙がこぼれた。

 早苗は今まさに生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている。そう思うと居ても立ってもいられなくて、気が狂いそうだった。

 昼食の後、私はベッドから立ち上がってフリースの上着を羽織った。

「出掛けてきます」

「分かったわ。温かくして行ってらっしゃい」

 志田さんと一言交わして病室を出る。

 これから一つ、大事な用を済ませに行かねばならない。

 私は階段を下りて、治療室が並ぶ三階にやってくる。病床フロアや受付がある一階に比べると、あまり人気ひとけがない階だ。どこか薄ら寒さを感じる廊下を、私は急ぎ足で進んでいく。

 しばらく歩くと、通路の右手に開けた空間が現れる。ソファやテーブルなどが置かれているこの場所は、手術を受ける患者の家族等関係者向けに用意されている待ち合い所だった。ドラマなどでは手術室のすぐ手前で家族が待機している様子が描かれたりするが、実際は衛生上の都合で医療者以外が手術室付近に立ち入ることはできない。そのため、このようなスペースが設けられているらしい。先ほど安野さんが、ここまでの道順と共に教えてくれた。

 その待ち合い所に、私が探していた女性がいた。ソファに腰掛けている彼女は、前に会ったときとは比べ物にならないほど憔悴しており、目元には濃い隈と泣き腫らした痕が残っている。隣にいる、細面に眼鏡を掛けた短髪の男性は旦那さんだろう。こちらも同様、深い悲痛と疲労がありありと見て取れた。

 生気が希薄な彼女の目が、こちらに向けられる。

「……陽子さん? なんでここに?」

 数秒経って私に気付いたその女性――葵さんは、虚を突かれたように瞠目した。私と面識のない旦那さんも不思議そうに目を瞬かせる。

 そんな二人の前にやってきた私は。

「すみませんでした!」

 挨拶を飛ばして、いの一番に腰を折った。

「早苗がこんなことになったのは、私の責任です……!」

 私が葵さんに会いに来た理由。それは、早苗が自殺に及んだことを謝罪するためだった。

 早苗が自ら命を断とうとした動機は、葵さんたちご両親にも既に伝わっている。葵さんは、死後の備えを考える早苗に戸惑いを覚えながらも、早苗がドナーになることを許可してくれていた。だがそれは、ドナーになることが早苗の生き死にに何も影響がないからこそ受け入れられていたことだ。もし、早苗が心臓を提供するために意図的に死を早めるつもりだと分かっていれば、葵さんは早苗がドナーになることを絶対に許さなかったに違いないし、今回の件についても計り知れないほどのショックを受けていることだろう。

 そして、早苗が死のうとした原因の一端は、私だ。私がいなければ、早苗は自殺など考えなかった。つまり、早苗が現在生死の境を彷徨さまよっているのは、私のせいでもある。

 だから私は葵さんに謝らなければならなかった。早苗に自殺を選ばせてしまった罪を。

「私を責めてもらって構いません。どんな罰だって受けます。本当に、ごめんなさい……!」

 誠心誠意を込めて非を詫びる。もし死ねと言われたとしても、そのときは従うつもりだ。それほどに私は本気だった。

 葵さんたちが息を呑む気配が伝わってくる。静寂の中、私は頭を下げたまま歯を食い縛って、相手の反応を待った。

 しばし沈黙が続いた後。葵さんがゆらりと立ち上がって、私の前にやってくる。

「顔を上げて」

 抑揚のない声だった。言われるがままゆっくり上体を起こすと、葵さんと目が合った。彼女の表情からは喜怒哀楽のいずれも読み取れなくて、底が見えない井戸を覗いたときのような物恐ろしさを感じた。

 葵さんはそのままこちらをじっと見つめた後、私の両肩に手を置いた。

「あなたが早苗をたぶらかして、あの子がドナーになって死ぬようにそそのかしたのなら、私はあなたを絶対に許さない」

「!」

 平坦な口調ながら攻撃的に尖った言葉を向けられ、息が詰まった。ここまで静観していた旦那さんもぎょっとして、葵さんを止めようと腰を浮かす。

 一触即発か――そう思われたが。

「でも、そうじゃないわよね」

「……え?」

 私の危惧は、杞憂に終わった。

「そんな酷いことを考える子が、こんなに泣き腫らすわけないもの」

 夜通し泣いたせいで恐らく真っ赤に充血しているであろう私の目を見て、葵さんの顔に憐れみが滲んだ。

「早苗のことを思って泣いていたんでしょう? あなたもあの子に振り回されてつらい思いをしているんでしょう?」

 葵さんは私を抱きすくめて、優しく囁く。

「だから陽子さん。自分のせいだなんて背負い込まないで。あなたは何も悪くないわ」

 温かい抱擁に包まれて、私は呆然と立ち尽くす。

 如何なるそしりであっても受け止める覚悟でここに来た。

 だけど、掛けられたのは同情と労わりだった。

 あなたは何も悪くない。そう言われて、胸に巣食っていた罪悪感が溶け消えていく。

 同時に、これまで必死に抑え込んでいた熱いものが込み上げてくる。私は謝罪にきた加害者だ。そう自分に言い聞かせて、葵さんたちの前では我慢するつもりだったのだ。

 だけど、もうダメだった。

 私は恥も外聞もなく、大声で泣き出したのであった。



 嗚咽おえつが収まって、取り乱してしまったことを謝って、早苗のお父さん――晴樹はるきさんというらしい――とちゃんと挨拶を交わした後。

「私たちこそ、親として責任を感じているのよ」

 葵さんが自責の念を打ち明けた。

「前にね、早苗に言われたことがあるの。もう私のことはいいよ、って。病気が治る見込みはないし、私たち親に迷惑を掛け続けるだけだから、もう放っておいて、って」

 それは私も早苗から聞いていた。その発言がきっかけで、早苗と葵さんとの間に亀裂が生じた、と。

「当然、治療を打ち切るなんてできるわけがなかったわ。でも私はあのとき、あの子の主張を否定しただけで、あの子の気持ちを深く考えてやれなかった。そして今日まで、あの子とちゃんと向き合うことから逃げ続けてきた」

 葵さんは悔しそうに唇を歪める。

「そんなだから、あの子が馬鹿なことを考えていることに気付いてやれなかった。もっとあの子と話し合っていれば、こんなことには……」

 その続きは、瞼から溢れる涙に遮られた。

「どんな形であれ、早苗には生きていてほしいんです」

 慰めるように葵さんの肩を抱いた晴樹さんが、代わりに話を引き継ぐ。

「早苗本人は生きていたって無駄だと言いますが、たとえ病気がずっと治らなくても、治療にどれだけお金がかかるとしても、ただ生きていてくれるだけで僕らはよかったんです。早苗は、僕らのたった一人の娘だから」

 晴樹さんが静かに語った思いに、私は胸を打たれる。

 葵さんも晴樹さんも、早苗のことを愛している。親子間ですれ違いと確執があったにせよ、その愛情は紛れもなく本物だ。この親心は絶対に報われなければならない。

 早苗は私のために死ぬことで生きた意味を遺そうとした。昨日早苗と話したとき、私は彼女の思想を否定できなかった。

 だけど。

 葵さんも。

 晴樹さんも。

 そして私も。

 早苗に生きていてほしいと思っている。

 生きた意味を遺すべしという信念に矛盾するが、今だけは迷いなく言える。

 早苗は、生きるべきだ。

「その言葉、後でちゃんと、早苗に伝えてあげてください」

「……そうですね」

 後で。早苗の生還を前提とした私の進言に、晴樹さんは眼鏡を外して目頭を押さえた。

 手術がいくら難しいとしても。どれだけ成功率が低かろうとも。

 早苗が生きて戻ってくることを、私はまだ諦めていない。

 私たちは、早苗の無事を願いながら、手術の終わりを待った。

 それから私は、これまでの人生で一番落ち着かない時間を過ごした。

 何度も何度も時計の針を睨んで。

 人が通路を通るたびに、手術の終了報告ではないかと思いそわそわして。

 終了予定時刻を過ぎても何も音沙汰がなく、焦りと不安が極限まで膨れ上がって。

 そうして待ち続けて、午後五時を回った頃のことだった。

 青とも緑ともつかない色の手術着を纏った壮年の男性が、待ち合い所に現れる。その瞬間、葵さんたちが弾かれたように席を立った。その反応で私は、この男性が早苗の手術の執刀医なのだと理解した。

 脈が一気に加速する。弱っているはずの私の心臓が、体を突き破って飛び出すんじゃないかと思うくらい勢いよく拍動する。

 手術が終わったのだろうか。

 早苗は無事なのだろうか。

「先生! 早苗は⁉」

 葵さんが必死の形相で男性に詰め寄る。

 男性は、厳かな態度で結果を告げた。

「手術は――」

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