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「私、生きるわ」

 涙が落ち着いてから、早苗は私の願いに応じることを表明した。

 毎日私に会いに来るのはやめる。

 明日からちゃんと学校に通う。

 しっかり社会に復帰して、まともな生活を送る。

 私たちは幼い子供のように、小指を絡め合って約束を交わした。

 私は早苗が手にしている絵を指して言う。

「その絵、早苗に持っててほしいんだ」

「いいの?」

「うん。君のために描いた作品だから」

 早苗に笑って生きてほしくて。彼女に自分を好きになってほしくて。私はこの絵を描いた。だからこの絵は、早苗のところにあるのが相応しい。

「それならありがたくいただわくわ。後で返してって言われても返さないから」

 大事そうに画用紙を持ち、半眼で私を牽制する早苗に、思わず笑みをこぼす。いたく気に入ってもらえたようで作者冥利に尽きるというものだ。

 さて。

 早苗は、新しい一歩を踏み出す覚悟を固めた。

 次は、私の番だ。

 創作でしか味わえない、人に称えられる喜びを噛み締めながら。

 私は清々しい気持ちで宣言する。

「私、絵を描くのを一旦やめようと思う」

 ライフワークとも呼べる創作から距離を置く。

 その決心は、私なりのけじめだった。

「訳を訊いても?」

「闘病に専念したいんだ。人工心臓を使って」

 私は人工心臓のことを早苗に説明した。心臓の機能の一部を代替する機械であること。その目的は、心臓移植を受けられるようになるまでの延命であること。そして人工心臓を装着すると、行動を著しく制限されてしまうこと。

「最初は絵が描けなくなるのが嫌で、人工心臓を着けるのを拒否したんだ、私」

 人工心臓を導入すれば従来のように絵を描くことは不可能になる。絵という生き甲斐を奪ってしまう人工心臓を、以前の私は受け入れられなかった。

 しかし。

「でも、私に生きていてほしいと思っている人がいて、私が生きる意味はそれだけで充分だって分かって。私がやるべきことは絵を描くことじゃない。病気を治して生きることが最優先事項だって気付いたんだ」

 早苗がそうであるように、私も生きることをたくさんの人に願われている。それに早苗に生きろと言った手前、自分もならわなければ示しがつかない。

 先月の終わりに、私は母に頭を下げた。

 人工心臓を使いたい、と。

 私は同時に自分の非を詫びた。母だって当然、私が生きることを望んでいる。その親心に背いた親不孝を、平身低頭で謝った。

 母は始め、ぶっきらぼうに「そう」とだけ答えて私の頼みを承諾しその場を終わらせようとしたが、じきに込み上げる涙を我慢できなくなって、しきりに目元を拭う羽目になった。その後私は母に抱きしめられ、数ヶ月続いた親子間の冷戦は終結したのであった。

 そうした経緯があり、私は人工心臓による延命措置を受けることになった。人工心臓の装着手術は再来週を予定している。

「私も、生きるよ」

 人工心臓を使っても、私が助かる可能性は依然として低い。でも、少しでも生き延びる確率が上がるのであれば、私はそのチャンスに手を伸ばす。

 生きて。と私に望む人がいるから。

「病気が治ったら、また君を描かせてくれる?」

 それは何の保証もない未来の話だったが。

「ええ。いつでも待ってるわ」

 早苗は眩しい笑みを浮かべて、迷うことなく頷いたのであった。



 かくして。

 約一年間支え合ってきた私たちは、少し距離を置いて、別々の道を行くことになった。

 お互いに生きていてほしいと願いながら。

 生きていてほしいと願われていることを糧にして。

 進むべき道が見つかったこの日の空は。どこまでも高く、遠く、澄み渡っていた。



< 4章『願い』 了 >

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