5
早苗は萩原早苗だった。フルネームのことである。病室入口のネームプレートに書かれていた。ただし萩の読み方がオギかハギどっちだったか思い出せない。
一晩考えた末、私は早苗との和解にもう一度挑戦することにした。自分の行いの何が悪かったのかきちんと理解した上で謝れば、今度こそ許してもらえるかもしれない。
そういうわけで。私は朝早くから早苗の病室前に来ている。場所は私の病室と同じ階で、ナースステーションを挟んで反対側。安野さんに訊いたらすぐに部屋番号を教えてくれた。やはり安野さんは口が軽い。
夜通し考え事に
入室を乞うため、部屋のドアをノックする――前にドアが勝手に開いた。
ドアの向こう側に早苗が立っていた。ちょうど部屋を出ようとしていたらしい。
急に現れた私にポカンとする早苗だったが、ハッと我に返り、ドアを閉めようとする。
「させるか!」
私は足を差し込んでドアが閉まるのを防いだ。早苗の口が忌々しげに歪む。
「足抜きなさいよ」
「抜かない!」
私は諦めない。早苗に伝えたいことがあるから。
「もう一度だけ話をさせて。お願い」
足一つ分開いている隙間から必死に懇願する。
その勢いに
「別の場所でなら。ここだと同室の人に迷惑だから」
「ありがとう」
なんとか話し合いには応じてもらえることになった。私は胸を撫で下ろす。
私たちは連れ立って同じ階の女子トイレにやってきた。早苗は中に誰もいないことを確認すると、壁に背中を預けて腕を組んだ。
「で、何の用?」
「私がなぜ君を怒らせてしまったか分かった。そのことで謝りたい」
用向きを聞いた早苗は無言で私を見つめた。続けろ、という意味だと受け取った私は、以前は答えられなかった問いに回答する。
「初めて会ったとき、私は君に、肌と髪が綺麗だ、って伝えた。私としては褒め言葉のつもりだったけど、君にとってはそうじゃなかった。肌が真っ白なのも髪が長いのも、ずっと入院していたせい。そんな特徴を取り沙汰されて嫌な気分になったから、君は怒ったんだと思う」
私が述べた見解に、早苗がわずかに目を見開く。
「君の気持ちを考えてない軽率な言葉だった。本当にごめん」
そして私は深く頭を下げた。
伝えるべきことは伝えた。あとは向こうがどう受け取るかだ。
自分の爪先を見つめながら、早苗の反応を待つことしばし。
「……もういいわ。顔上げてよ」
落ち着いた声音でそう言われて、私は体を起こす。
「合ってた?」
「ほぼ正解。あなたの感想は、すごく、頭に来たわ。なんて能天気なんだろうって」
「でも、いま思えば私も大人げなかったわ。こっちの事情なんて、初対面のあなたに分かるはずないもの」
意外なことに早苗は自分にも非があったことを認める。
「私も悪かった。あのときのことはもう水に流すわ。お互い忘れましょ」
「ありがとう!」
和解は成功だった。肩の荷が下りて、強張っていた体がほぐれる。粘り強く思いを伝え続けてきた甲斐があった。
「じゃあ、私はこれで」
話は終わりとばかりにそそくさと帰ろうとする早苗を、私は慌てて引き留めた。
「ちょっと待って!」
「何? 用事は終わったでしょ?」
「実はもう一つあって」
むしろこっちが本懐である。
早苗を真正面に見据え、一つ深呼吸して、覚悟を決める。
マイナスから始まった私たちの仲を、これからプラスに変えていくために。
「私と、友達になって」
飾り気なく、ストレートに思いをぶつける。
果たして早苗は友達になってくれるだろうか。期待を込めて早苗の様子を窺う。
刹那。私は奇妙なものを見た。
早苗は呆然としていた。
直後、
一瞬垣間見えたその感情はしかし、瞬き一つした後には幻のように掻き消えていて、いつもの涼しげなすまし顔に戻っていた。
そして。
「……嫌よ」
「えっ?」
石みたいに硬い返事。それはこれまでとなんら変わらない拒絶だった。
私は愕然とする。今度こそ早苗は心を開いてくれると思っていた。断られるなんて欠片も思っていなかった。だからこそ、叩き落とされた衝撃は大きい。
茫然自失となりながら、理由を問う。
「どうして? やっぱりまだ怒ってるの?」
「そうじゃないわ」
「なら、私のことが嫌いだから?」
「あなたのことは好きじゃないけど、今は関係ない」
「じゃあなんで⁉」
納得いかず、声が跳ね上がった。思い通りに事が運ばず焦りが募る。
そんな私に呼応するように、早苗も
「健康に生きている人間を見てるとムカつくからよ!」
これまでで最も凄みのある彼女の剣幕に、私は思わずたじろいだ。早苗はなおも畳み掛けるように激しくまくし立てる。
「病気のせいで私は不自由なの。ずっと病院にいて、学校にも行ってなくて、楽しいことなんか一つもなくて。そんな私からすれば、普通の生活を送っている健康な人間は妬ましいのよ。あなたはいいよね。怪我が治ったら退院して元通りの生活に戻るんだから。羨ましくて気が狂いそうよ。そんな奴と友達になんてなりたくない!」
私は初めて、感情を剥き出しにして激昂する早苗を見た。鋭い刃物のような希釈なしの本音を私に叩きつけてくる。それはどこか今までと異なる、余裕のない姿だった。
「だからもう、私に関わらないで!」
早苗はそう言い捨てて、この場から去ろうとする。
「待って! ちゃんと話を、」
その背中を引き留めようとした、そのとき。
早苗の後ろ姿とその背景が、ぐらり、と揺らいだ。
続いて体から急に力が抜けて、私は糸が切れた操り人形のように床に
胸が苦しい。
息が乱れている。
音も遠い。
視界が白く塗り潰されていく。
体が揺れる。……揺さぶられている? 何か呼び掛けられているような気もするが、分からない。
水に落ちた綿飴のように、意識がスッと消え
気が付くと病院の裏庭にいた。場所は人工池がある庭の中央部で、私は岸際に立っている。
池の真ん中の東屋に人影が見えた。女の子だ。彼女は一人で東屋の陰に座っており、その佇まいはどこか寂しそうに感じられる。
私はなぜか、彼女のもとに行かなければ、という使命感に駆られた。
池の飛び石を踏んで対岸に渡り、東屋に入る。
女の子が私に気付いて顔を上げた。その頬には一筋の雫が光っていて――
水の中から水面に向かっていくような浮遊感の後、眠りから覚めた。
もうすっかり見慣れてしまった白い天井と対面する。私は病室のベッドに寝かされていた。
「……夢か」
今の夢はなんだったのだろうか。気になったが、今はそれよりも現の方で何があったのかを把握しなくては。
体を起こす。いつもより体が重い。左腕からは点滴の管が伸びていて、何か薬を投与されているみたいだ。窓の外を見るともう日が傾いていて、もくもくと膨らんだ雲がオレンジ色に染まっていた。
目を覚ました私に気付いて、部屋にいた志田さんが駆け寄ってくる。
「陽子ちゃん! やっと起きたのねえ。良かったわ」
「志田さん。私どうしてここに」
「覚えてないの? 今朝いきなり倒れたんですって。それで今までずっと眠っていたのよ」
「……ああ」
思い出した。早苗に会いに行って、口論になって、そして。
「また気を失ったんですね、私」
苦笑いが漏れる。私の体は思っていたよりダメになっているらしい。
その後、ナースコールでやってきた安野さんから何が起こったのかを聞いた。
今朝意識を失った私は半日ほど眠っていた。原因となった症状はすぐに収まっていたらしく、今まで起きなかったのは徹夜で寝不足だったからのようだ。点滴で薬も投与しているので、ひとまずは安心だろうとのことである。
「そういうわけで、今日はもう大人しくしてること」
一通り事務的な説明を終えた安野さんは「そうだ」と思い出したように付け加える。
「早苗ちゃんにお礼言っときなよ」
「お礼?」
「君が倒れたことを教えてくれたの、早苗ちゃんだったのよ」
「そうだったんですか」
意識が途切れる寸前、誰かに声を掛けられていた気がするが、あれは早苗だったのか。
安野さんはさらに意外なことを口にする。
「早苗ちゃん、必死に助けを呼んでたよ。あの子があんなに取り乱すの初めて見たわ。その後も君が無事なのかどうか私に訊いてきたし、なんだかんだ気に掛けてくれてたみたい」
「へえ……」
私のことを散々嫌っている早苗だが、倒れたらさすがに助けてくれたし、心配もしてくれた。口は悪いし話も通じないけど、根は良い人間なのかもしれない。
「お礼か。どうしよう」
助けてもらった手前、ありがとうの一言くらいは伝えるべきだろう。
だが、脳裏に今朝の記憶が蘇る。
『私に関わらないで』
早苗に言い渡された、もう何度目か分からない絶交。ああまで強く言うなら、早苗は私と
たぶん、早苗と友達になるのはもう無理だろう。
絵を描かせてもらう野望が
それはさておき。この場合、私は早苗にお礼を言いに行くべきなのか。それとも早苗の意思を尊重してもう会わない方が良いのだろうか。
悩ましい選択だったが、私はお礼を言いに行くことに決めた。そちらの方が後腐れがなくてスッキリすると思ったからだ。もし無視されるようなら、それはそれでもう構わない。私の気持ちが済めばいいのだ。
明日、早苗にお礼を言いに行こう。
そして。
早苗に会うのは、それで最後にしよう。
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