4

 一晩経って。

 相変わらずしとしとと雨が降り続く午後。

 私はふて腐れていた。

「ばかばかばかばか……」

 ベッドの上でタオルケットをすっぽり被って、じめじめと悪口を垂れ流す。

 半分は、早苗に向けて。

 もう半分は、自分へ。

 昨日、早苗はまったく心を開いてくれなかった。こちらがあれだけ低姿勢で謝っていたのに、返ってきたのは批判と否定ばかり。もうちょっと聞く耳を持ってくれたってよかったのではないかと思う。自分の意見だけを優先して一歩も譲らない早苗のスタンスは強情すぎるというか、もっと言えば幼稚にすら感じられた。長らく学校に行っていないせいだろう、普通の子供が集団生活を通して身に着ける、他者とのコミュニケーションにおける協調性や柔軟性などといったものが、早苗には備わっていない。

 彼女のそのような欠落に、私は嫌気が差したのである。

 一方で私は、私自身にも憤っていた。早苗との別れ際に残した捨て台詞のことだ。

 いくら押しても隙を見せない早苗の鉄壁に阻まれた私は、やけくそになって和解を投げ出し、彼女をののしった。あの逆ギレで、私たちはほぼ完全に決裂したと言っていいだろう。

 昨日の時点ではそれでいいと思っていた。早苗に告げられたとおり、もう彼女には関わらないつもりだったし、厄介事が一つ消えてせいせいした気分だった。

 だが、一夜明けて後悔が押し寄せた。

 向こうの出方はどうあれ、早苗との確執の種を撒いたのは自分だ。なのに私は、謝っても許してもらえなかったからといってへそを曲げ、あまつさえ早苗に八つ当たりしてしまった。そんな己の身勝手さに気付いたとき、自己嫌悪が遅れて湧いてきた。

 また単純に、早苗を絵に描くことに後ろ髪を引かれてもいた。もしも私が苛立ちを抑えられていれば、早苗と仲直りして、彼女をモデルにして絵を描けるチャンスがまだ残っていたかもしれないのに。余計な一言がすべてをにしてしまった。

 そういうわけで、早苗への不満と自分の行いへの悔いで気分が澱んだ私は、今朝から一人うじうじと塞ぎ込んでいるのであった。

 安野さんと志田さんは私の露骨な落ち込みように気付いているみたいだが、特に干渉してくるでもなくこれまでどおりに接してくれている。私の方も今回は放っておいてほしかったので、二人の配慮はありがたい。

 生温なまぬるい薄暗闇の中、もう何度目か分からない溜め息を吐いたとき。

 突然、被っていたタオルケットがめくられた。

「わっ」

 急に明るくなって目を細める。ベッドの隣に、私からタオルケットを剥ぎ取った犯人が立っていた。

「こら馬鹿娘。あんたはミノムシか」

「お母さん?」

 そこに居たのは母だった。私に似たショートヘアの丸顔が呆れた目でこちらを見ている。顔を合わせるのは入院初日以来だ。

「なんでいるの?」

「なんでって、着替えを届けに来てやったんでしょうが。あと一緒に検診結果も聞かなきゃいけないし」

「そっか、今日だったっけ」

「そうよ。しっかりなさい、まったく」

 このところ早苗のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。

 この病院では、入院患者は基本的に患者衣を着て過ごすのだが、下着や肌着等は自前のものを着用する。患者衣は病院側が無償で洗濯してくれるが、私物の洗濯はお金を払わないと頼めない。その料金設定が割高なため、私物は三~四日おきに母に回収・洗濯してもらうことにした。今日はその最初の回収日というわけである。

 自宅から病院までは車で片道三〇分ほど。毎日ではないものの、私のために定期的にここまで足を運ぶのはなかなかの手間だ。

 洗濯物を詰めた袋を新しいものと入れ替える母を見て、申し訳なさが募った。

「なんかごめん」

「ごめんじゃなくて、ありがとうって言いなさい。いつも言ってるでしょ」

 口癖を注意される。

「あんたのせいじゃないわ。いっちょ前に責任なんて感じるんじゃないわよ」

 叱るような口調だが要するに、気を遣うな、と言っているだけだ。

 厳格で、ぶっきらぼうで、子供思い。私の母はこういう人であった。

「……ありがとう」

「ありがとうございますお母さま。退院したらこれまで以上に勉学に励み、家事も率先して手伝うことを約束します、って言いなさい」

「何それ、調子乗んなし」

 母娘で軽口を叩き合う。なんだか久しぶりに笑った気がした。



 この日は検診を受けて、そのあと医師から経過についての説明を聴いた。

 検診と言っても何か異常がないかを調べるための定期検診で、医師の話の方も、既に大方決まっていた今後の治療方針を煮詰めるというだけのものだった。新たな進展は特になかったということだ。

 診察室を出た私は、がくりと肩を落とす。

「しばらくこのまま缶詰生活か……」

 母を交えた話し合いの結果、当面の間入院を継続することが決まった。そうなるだろうと覚悟はしていたが、退院して自宅療養するという線もわずかに残されていただけに、望みを絶たれたことによる落胆は少なからずあった。

 母が励ますように私の肩を叩く。

「この先ずっと、ってわけじゃないでしょ。できる限りのサポートはしてあげるから、がんばんなさい」

「うう、がんばるぅ」

 私は空元気で小さく左腕を掲げたのだった。

 母と連れ立って診察室が並んでいる廊下を歩き、建物中央の階段に差し掛かったとき。

「あっ」

 見知った顔に出くわす。

 早苗だった。他の階から移動してきたようで、廊下を進んできた私たちと鉢合わせになる。お互いばっちり目が合ってしまい、見なかったことにするのは難しい状況だった。

 正直、昨日喧嘩したばかりなので非常に気まずい。早苗の方も眉間にわずかに皺が寄ったので、たぶん同じ心境だろう。

「えっと、あの」

 思いがけない窮地に狼狽える私だったが、対する早苗は冷静だった。

 表に出しかけた険を即座に隠し端整なポーカーフェイスを纏った早苗は、私から目を逸らすと隣にいる母に向けて控えめにお辞儀した。そしてそのまま何も言わず、流れるような所作で私たちの脇を通り抜けていく。

 早苗の穏便な対応に、私は唖然とする。嫌味でも言われるかと思っていたのに、今の彼女は借りてきた猫のように大人しかったではないか。私に毒を吐いているときと比べるとまるっきり別人である。

「えらく綺麗な子だったわね。いいとこのお嬢様かしら」

 そばで見ていた母はすっかり騙されている。なるほど、大人がいたから猫を被ったわけだ。母にしろ安野さんにしろ志田さんにしろ、早苗がつつましい性格だと思い込まされている。彼女の本性を知る私としてはなんとも面白くない話だった。

「あの子、あんたのお友達?」

「えっ。あー、まあそんな感じ」

 友達になろうとしたけど失敗して不仲、なんて言えるわけないので私は言葉を濁した。

 感心しながら母は去っていく早苗の背中を眺めていたが、やがてその目にうれいが滲んだ。

「でも、可哀想ね」

 脈絡のない感想だった。私はつい聞き返す。

「何のこと?」

「ずっと入院してることよ。あの子、ここに来てもう長いでしょ?」

「うん、五年くらいだって。でもなんで分かるの?」

「だってあの子、肌が蝋燭ろうそくみたいに真っ白じゃない。ずっと日に当たらない生活してなきゃああはならないわ。それに不安になるくらい痩せてるし」

「ああ、そういうこと」

 母の鋭い洞察に唸る。私なんて単純に肌が綺麗で羨ましいとしか思わなかった――

「あっ」

 その瞬間、落雷のような閃きが私の脳を貫いた。

 分かった。

 たぶん、分かってしまった。

 仕組みを理解しないままいじっていた知恵の輪が、たまたま解けてしまったような心地だった。

「どうかしたの?」

「ううん、何でもない」

 動揺を母に悟られぬよう平静を装いながら、私は数日前の記憶を掘り返し始めたのだった。



 消灯後の病室は穏やかな静寂に満ちていた。

 二日続いた雨は、日が落ちたころに一旦止んだ。昨日と違って雨音がない今日は、耳を澄ますと志田さんの浅い寝息が聞こえてくる。部屋の照明は消されているが、窓からわずかに入ってくる外灯の明かりによって、物の輪郭がぼんやり分かるくらいには目が見えていた。

 もうじき日付が変わろうとしている静かな夜。

 私は未だ眠れずにいた。

「四日後にまた来る」と言って母が帰っていってから、私はずっと考え事に没頭していた。

 早苗が私に腹を立てた訳。

 これまでずっと分からなかった問題が、やっと解けた。

 その答えは、私が早苗の容姿をうらやんだから、だ。

 見る者すべてを魅了しかねないほど優れた早苗のルックスは、彼女の大きな長所と言って差し支えないだろう。だがそれは早苗本人にとって、何の屈託もなく喜べるものではない。

 曇り一つない純白の肌。

 それは、屋外で過ごす機会が極端に少なかったことによる産物だ。

 艶を放ち、優雅にたなびく長い黒髪。

 それは、気軽に髪を切りにいくこともできなかったがゆえに得たものだ。

 早苗の容姿は単に美しいというだけでなく、長期の入院生活を象徴するものでもあったのだ。そんな彼女のコンプレックスを、私は無神経にも羨ましいと言ってしまった。もし私が早苗の立場だったら、怒りはしないまでも少なからず傷ついてはいたはずだ。

 さて。

 自分が早苗に何をしてしまったかは理解できた。

 では、私は次に何をすべきだろう。

 私はどうしたいんだろう。

 考える。真っ暗な天井を見つめながら、私は考える。

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