3
翌日も朝から雨だった。天気予報によると、しばらく悪い天気が続くのだそうだ。
病室にいる分には雨に濡れるなどの面倒はないが、灰色の空ばかり見ていると心の彩も失われていくようだった。きらびやかなあの裏庭を窓から見下ろせるのであれば雨の景色も少しは華やぐだろうが、残念ながらここから見えるのは裏庭の反対側、黒々と濡れている駐車場のアスファルトだけある。
「こっち側の病室の景色、外れですよねー」
「そうねえ」
私のぼやきに、本を読んでいた志田さんが顔を上げて同意する。
無味乾燥な入院生活に少しでも華を添えたい、という院長の計らいによって造られたというあの裏庭は、院内における貴重な楽しみとして入院患者の間で人気なのだそうだ。志田さんも体の調子が良いときに足を運んでいるらしい。
「しばらくあの景色はお預けかな」
庭で遊べないのはもどかしいが、それほど憂鬱でもなかった。今の私には早苗と友達になるという目標があるからだ。
朝食を食べ終えてしばし食休みを挟んだあと、私は垂れこめる雨雲に負けじと勢いよく立ち上がった。
「ちょっと一階に行ってきます」
「はーい。いってらっしゃい」
私は志田さんに用向きを告げて病室を出た。
外出の目的は早苗に会うことだった。安野さんによると、早苗は一階の待ち合い所によく現れるらしい。待ち合い所にはテレビが置かれていて、暇潰しを求める入院患者の間で人気のスポットなのだそうだ。
そこで私は、テレビを観に来る早苗を待ち伏せすることにしたのである。
階段を下りて一階にやってきた。朝食が終わってまだ間もない時間帯なので待ち合い所はガラ空きだった。
私はテレビから距離がある一番後ろの席に腰掛けた。ここなら待ち合い所の全体を見渡せるので、早苗が来たらすぐ見つけられるだろう。
早苗が姿を現す時間は特に決まっておらず、そもそも毎日来るわけでもないらしい。彼女の気分次第では待ちぼうけになるが、私は気長に構えることにした。
三時間経った。
早苗は来なかった。
「うがあああああ」
昼食のために病室に戻ってきた私は失意の唸り声を上げた。興味のない番組を流し見して午前中を過ごした徒労感がずっしりとのしかかってくる。
「直接病室に会いに行けばいいじゃない。部屋教えてあげよっか?」
「いや、それはちょっと」
呆れ顔の安野さんの指摘に、私は口ごもる。昨日の今日でいきなり早苗の病室を訪ねる勇気はさすがにない。
「好きにすればいいけど、あんまり無理しないでね」
「はーい」
おざなりに返事をしながら、私は薄味のマカロニスープを啜った。
午後も待ち伏せ作戦を続行した。後ろの方の席に座って、待ち合い所の様子を監視すること二時間。
視界の端で長い黒髪が揺れた。
「っ!」
背中を丸めて眠りに落ちかけていた私は、ガバっと身を起こす。
眩しい白肌に、切れ長の目をした少女。間違いない、早苗だ。彼女は中央前方の席に着いて、テレビを観始める。
待ち続けること五時間。ようやく早苗とコンタクトを取るチャンスがやってきた。私は昨晩練り上げた計画を頭の中でシミュレーションする。
作戦はこうだ。まず、偶然を装って早苗に話し掛ける。いきなり本題に切り込むのではなく、最初は世間話でも挟む方がよいだろう。そして流れで昨日の出来事に話を持っていったあと、謝罪に漕ぎつける。
逸る気持ちを抑えて椅子から立ち上がる。背後から早苗にゆっくり近づき、彼女の二つ隣の席に腰を下ろした私は、気安さを意識して挨拶した。
「や、やあ」
緊張で上擦った私の声に、早苗がこちらを一瞥する。
涼しげな雰囲気を醸す瞳が私を捉えたとき。
神秘性すら漂わせる整った顔立ちが突如、ぐにゃり、と歪んだ。
早苗は、道路でぐちょぐちょに潰れた芋虫を見つけたかのような目を向けてきた。明らかに歓迎されておらず尻込みしそうになるが、不愉快さを隠そうともしないその様子は、平時の澄まし顔よりも人間味があってちょっと面白おかしくもある。
「チッ」
堂に入る舌打ちをお見舞いしてくれた早苗は、私から目を背けて正面に向き直ると、何事もなかったようにテレビ鑑賞を再開した。
「あの」
「……」
渋面でテレビを凝視する早苗は、私が呼び掛けても微動だにしない。まさかこのまま無視を決め込むつもりなのか? だとしたらメンタルが鋼鉄すぎる。
「早苗ちゃん……さん?」
名前を呼ぶと、早苗の瞼が、ひくり、と動いた。無我の境地に至って私を完全にいないものとして扱っていたらどうしようかと心配したが、どうやら認識はされているようだ。
私はさらに気を引こうと、早苗の顔の前で掌をひらひらと振る。すると彼女は大きな溜め息を吐いて、ようやくこちらを向いた。
「なんで私の名前知ってるの?」
じろり、と睨まれる。友好的ではないものの、早苗から反応が返ってきたことに安堵する。
「看護師さんに教えてもらった」
「患者のプライバシー管理ザルすぎでしょ、この病院」
「おっしゃるとおりで」
早苗の悪態には同意だった。安野さんは事もなく早苗の素性を教えてくれたが、冷静に考えたら入院患者の情報を第三者にあれこれ喋るのはわりとダメなことだと思う。まあ、早苗と同年代で同性の私が相手だったから、安野さんも口を軽くしていたのだろうけど。
「で、あなた何しに来たの?」
乱雑に頭を掻きながら訊ねる早苗に、私は目的を告げた。
「昨日のこと、謝りに来た」
「昨日のことって、何?」
「え?」
早苗の問い掛けに思わず呆ける。
『何』って、そんなの言わずとも分かるだろうに。それとも一見簡単に思える引っ掛け問題なのだろうか。
こちらを試すような問いに腹の内を探られているような気味悪さを感じつつ、私は結局シンプルな答えを返す。
「何って、君を怒らせちゃったことだよ」
しかし。
「つまり?」
「『つまり』って何? 私は謝りに来たんだってば。それだけだよ」
会話は噛み合わない。私は困惑する。
私は早苗を怒らせた。だから彼女に謝ろうとしている。他に説明など必要ないだろうに。
だが早苗は「そうじゃない」と一蹴する。
「あなたは、何をして、私を怒らせた? それを訊いているの」
「それは……」
形を変えてきた早苗の質問に、私は言葉を詰まらせた。私が昨日踏んだ地雷の正体は、未だによく分からないままなのである。
答えを持ち合わせていなかった私は回答を放棄して、せめて自分の意思だけでも伝えようとする。
「私が何をしてしまったのかは正直分からない。でも、君を怒らせてしまったことは確かだから。それだけは謝りたい」
「馬鹿みたい」
早苗は鼻で笑った。
「つまりあなたは、自分にどんな非があったのか理解しないまま、謝ろうとしてるわけね。どうせ、一言謝れば全部済むと思ってるんでしょう?」
私は今度こそ言葉を失った。
嫌味たらしいが、早苗の指摘はぐうの音も出ない正論だった。私は、自分の行いのどこが悪かったのか省みる努力を怠っていた。そんな私がしようとしていたのは、ただ相手に許してほしいという動機からなる、表面的で自分本位な謝罪だったのである。
自分の浅ましさが恥ずかしくて、私はこの場から逃げ出したくなった。けれどもしここで引き下がってしまったら、早苗とはこれっきりになってしまうだろう。それは嫌だ。早苗に誤解されたままでは終わりたくなかった。早苗を怒らせてしまったことに罪悪感を抱いているのは確かなのだ。
怖気づく自分を叱咤するように、私は拳を膝の上で握りしめた。
「自分がしたことをよく考えないまま謝ろうとしたのは、ごめんなさい。でも申し訳ないって思ってるのは本当なの。だから、私が何をしてしまったのか教えて。教えてくれたら反省して、次から気を付けるから」
早苗は一瞬、虚を突かれたように目を丸くする。敵意のベールは一瞬剥がれかけたように思えたが、しかしすぐ元通りになった。
「嫌よ。教えない」
「どうして?」
またも意図の読めない返しだった。理由も分からないのに謝るなと責めておきながら、何が気に障ったのかは明かしてくれない。言っていることがちぐはぐだし、捉えようによっては意地が悪いとも思える。
早苗はさらに私を混乱させていく。
「まず私、謝罪なんて求めてないから」
「実は怒ってないってこと?」
では今まで私がしていたことはすべて独り相撲だったのかと思ったが、早苗は「違う」と突っ撥ねる。
「私は確かにあなたに対して怒ったけど、謝ってもらいたいとは思ってないし、許す気もない」
「何それ」
私がいくら誠意を尽くして頭を下げたとしても、早苗はそれを聞き入れるつもりはないということだ。これにはさすがの私もムッとする。
早苗はさらに付け加える。
「そもそも私、二度と話し掛けてくるなって言ったよね?」
「えっ、いつ?」
「昨日」
まったく記憶になかった。言われたことを一字一句覚えているわけではないので確かではないが、『二度と話し掛けてくるな』なんて強い言葉をぶつけられていたらさすがに忘れるはずがない。
「……言ってなくない?」
「絶対言った。あなた一日前のことすら覚えてないの? 記憶力大丈夫? ニワトリ以下なの? 脳みそちゃんと入ってるのかしら?」
「えぇ……」
たぶん早苗の記憶違いなのだが、仮にも侘びを入れに来た手前、強く反論するのは
私を
「とにかく、私はもうあなたと関わりたくないわけ。お願いだから放っておいてくれる?」
そう話をまとめると、彼女はテレビに向き直った。
歩み寄ろうとするこちらの思いを汲み取らず拒絶する、一方的な通告。
「……分かった。もういい」
私の中で、何かが折れた。
こちらが架けようとした橋をことごとく叩き壊してくる早苗に、いい加減うんざりした。こんな相手に引け目を感じて気を揉んでいたことが、急に馬鹿馬鹿しくなった。
ここまで頑なに和解を拒む相手に、これ以上何ができようか。
もう用はない、と私は立ち上がった。去り際、腹いせに早苗に何か言ってやろうと思ったが、ぶつけたい思いはたくさんで複雑でまとまらなくて、出てきたのは結局、
「ばーか」
という小学生レベルの捨て台詞だけだった。
それが聞こえたかどうかは分からないが、早苗はただじっとテレビを眺めていたのであった。
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