6

 翌朝。

 私は昨日と同じく、朝食の後すぐに早苗の病室を訪れた。

 早苗との仲直りをすっぱり諦めて心のつかえが取れたからか、廊下を進む足取りは軽かった。夜も久しぶりにぐっすり眠ることができたし、昨日の意識喪失の余波も特にない。

「失礼しまーす」

 ドアをノックしてから早苗の病室に入る。入口から見て部屋の左側に、母と歳が近そうな女性がいた。右側のベッドは空っぽで、他には誰もいない。

「突然すみません。……ぎわらさんいますか?」

 女性に早苗の所在を訊ねる。『萩』の字の読み方に自信がないので小声になった。

「早苗ちゃんなら、さっきお庭に出掛けていきましたよ」

「そうですか。ありがとうございます」

 どうやら来るのがちょっと遅かったらしい。親切に教えてくれた女性に礼を言って、早苗の病室を後にする。

 私はその足で裏庭に赴いた。不快な音を立てて軋む重い扉を開けて、久しぶりに空の下へ躍り出る。ここ数日ほど曇天が続いていたが、空を覆う雲はだいぶ薄くなってきている。

 扉の外に出てぐるりと近くを見回すが、目の届く範囲には誰もいなかった。

 早苗を探して、草木が誇らしげに葉を広げる庭園を歩く。目的を忘れそうなほど美しい景観を楽しみながら進んでいくと、やがて池のあるエリアにやってきた。

「いた」

 探していた人物が見つかる。後ろ姿だがほぼ間違いない、早苗だ。彼女は初めて会ったときと同じく、池の中央の東屋にいた。

 気を失っていたときに見た夢と景色が重なる。あの夢の中で女の子は泣いていた。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。

 池の飛び石を渡り切った私は、少し緊張しながら、白い屋根がつくる陰に踏み入る。

 早苗は椅子に座って本を読んでいた。その表情は凪いだ湖面のように穏やかで、患者衣ではなく白いワンピースでも着ていればさぞかし見栄えしたであろう。つくづく絵になる少女だった。

「や」

 片手を上げて呼び掛けると、早苗はこちらを一瞥いちべつした。だがその後、顔色一つ変えずに手元の本に目を戻してしまう。やはり私とはもう一言も喋らないつもりなのだろう。

 それでいい。

 私は東屋の入り口に立ったまま話を始める。

「もう関わるなって言われたけど、一つだけ伝えたいことがあって来た。これで本当に最後にするから、申し訳ないけど我慢して」

 前置きの言い訳にも、早苗は顔を上げない。

 それでもいい。私が義理を果たせれば充分だから。

「昨日は助かった。君が人を呼んでくれたおかげで、私は無事だった。本当にありがとう」

 助けてもらった感謝を伝える。早苗は相変わらず反応しなかったが、構わない。これで私の気は済んだ。

「それだけ。じゃあ、その……お大事に」

 私は友達になれなかった少女に別れを告げる。

 鼻の奥がツンとした。理由は分からない。最後まで早苗に無視されたのが腹立たしいからだろうか。この数日の気苦労が水泡と帰して落胆しているからだろうか。それとも、彼女に振り向いてもらえなかったのが悲しいからだろうか。

 説明不可能な感情が、足を地面に縫い留めようとする。だが、早苗と話すのはこれで最後と決めていた。私は未練を振り切るようにきびすを返す。

 そのとき。

「待ちなさい骨折バカ」

 背中に悪口が飛来した。私はびくりと後ろを振り返る。早苗がこちらを睨んでいた。

「え? 今のって私のこと?」

「他に誰がいるのよ」

「ええ……」

 それはそうだが、呼び方もうちょっと他にあっただろ。

「ええと、何かな?」

 呼び止められた理由を伺う。絶縁を言い渡してきた早苗の方から話し掛けてくるとは、どういう風の吹き回しだろうか。

「私もあなたに言いたいことがある」

 早苗は本を閉じて脇に置くと、椅子から立ち上がって私の正面に立つ。手を伸ばせば触れられる距離だった。

 これから何を言われるのだろうか。関わらないでほしいという言いつけを破ったことへの文句か。それに近付いてきたということは、まさか手を出してくるのではないか?

 思い当たった物騒な可能性に怯える私だったが、早苗の次の言葉は予想に反し静かだった。

「あなたって、病気なの?」

 病気。その単語にドキリと胸が脈打つ。

 なぜそんなことを訊かれるのか。私が昨日倒れたことから察したのだろうか。ともあれ、特別隠しておくようなことでもない。

「うん。私、心臓が悪いんだ」

 かっこ悪いところを他人に目撃されたかのような気恥ずかしさを覚えながら、私は頷く。

 私は幼少期から心筋症を患っていた。

 心筋症というのは、心臓の筋肉が異常を起こして、心臓が上手く動かなくなる病気だ。私が罹っているのは正確な発症原因がまだ解明されていない特殊な心筋症で、治療も困難であることから国の難病指定を受けている。

「だいぶ悪いの?」

「前までは、息切れとか動悸が起こるだけだったんだよ」

 当初は軽い症状だった。病気による差し障りは、激しい運動ができなかったり、定期的に薬を服用しなければならなかったくらいで、普通の人と大して変わらない生活を送れていた。

「でも」

 川の水が時間を掛けて石を削っていくように、病はじわじわと私の体を侵していた。

「この前初めて、不整脈で気を失っちゃってさ」

 心機能に異常が起こり、脳への酸素供給が途切れることで一時的に意識障害を引き起こす。半月前、私は自転車に乗っているときにこの症状に襲われて転倒した。右腕の骨折はそのとき負った怪我である。昨日倒れたのも不整脈が原因で、意識を失くすのはあれが二回目だった。

「病院に運ばれた後に検査してみたら、病気がかなり悪くなってたことが分かってね。いよいよ本格的に治療しないといけなくなって、ここに入院することになったってわけ」

 病気の進行が判明したことで、以前より高度で継続的な治療と、有事の際に迅速な処置を施せる環境が必要となり、私は入院を余儀なくされたのだ。

「こうなることは前から分かってたんだ」

 病気であると診断を受けたとき、最悪の事態も覚悟しておけと告げられた。画期的な治療法が見つからない限り完治は望み薄で、病状が突然悪化してすぐに死ぬ可能性だってある。私は子供ながら、そんな境遇を受け入れて生きてきたのである。

「まあ、いざ実際になってみたら、めっちゃ怖いしショックだったけどね」

 暗い雰囲気を中和しようと、私は冗談めかして話を締めた。

「そうだったのね」

 私の病状を知った早苗は、沈痛な面持ちを浮かべて思いがけないことを口にした。

「ごめんなさい」

「はい?」

 早苗に謝られて私は困惑した。顔を合わせればいつも暴言を吐いていたあの早苗からしおらしい言葉が出てきたのが意外だし、そもそも謝られている理由が分からない。

「私、何か悪いことされたっけ?」

「昨日、あなたを健康な人間呼ばわりしたでしょ」

「ああ」

 健康な人への妬みを叫んでいた早苗の痛ましい姿が脳裏に蘇る。

「あなたが入院したのは腕の怪我のせいで、それ以外は健康なんだと思い込んでた。実は重い病気だったなんて気付かなかった。私、あなたにデリカシーのないことを言ってしまったわよね。だから、悪かったわ」

 そう言って、早苗はばつが悪そうに目を伏せる。

「いや、そんな。全然気にしてないから。大丈夫」

 何も思うところがない事柄について謝られて、逆にこちらが恐縮してしまう。健康な人間であると誤解されたところで、私は特に嫌な思いをするわけでもない――

 ふと気付く。

 早苗は私のことを健康な人間であると勘違いして、私と友達になりたくないと言っていた。

 その誤解が解けた今は、どうなのだろうか。

 早苗と友達になるのは諦めていたけれど、まだチャンスがあるのではないだろうか。

 もしそうならば。

「あのさ」

 一縷いちるの望みに賭けて、私はもう一度早苗と向き合う。

「病気だったら、私は君の友達になれる……?」

 俯く早苗が、華奢な肩を小さく跳ねさせた。そしてそのまま固まって動かなくなる。その様子はなんとなく、何かを怖がっているかのように見えた。

 私は早苗の返事を辛抱強く待った。

 長い沈黙を経て、早苗が顔を上げる。その目は迷いに揺れていた。

「ここに入院してきてひと月くらい経ったころ、友達ができたの」

 始まったのは脈絡のない話だったが、煙に巻こうとしているわけではないのは雰囲気で分かった。私は彼女の話に耳を傾ける。

「足を骨折して入院してきた、同い年の女の子だった。よく笑う屈託のない子で、ちょっとあなたに似てたわ。ここじゃ子供が少ないから、同年代の私たちは自然と仲良くなった。一緒に遊んだり、勉強したり、笑い合ったり。彼女と過ごす時間は、入院生活における唯一の楽しみだった」

 早苗は引き出しの奥に仕舞っていた思い出の品を懐かしむように目を細める。

 しかし。

「でも、私たちの関係は長く続かなかった」

 清水のように透き通った声に、濁りが混じった。

「彼女の怪我の具合は酷かったけれど、時間が経てば治るものだった。私の病気とは違って、ね。別れは必然だったわ。二ヶ月ほどで足が完治すると、彼女はすぐに退院した。退院の日に挨拶は交わしたけれど、彼女とは結局それっきり」

 早苗の握りしめた拳が、小刻みに震える。

「私はそのとき思い知ったわ。元気になって元の生活に戻っていく友達を見送って、自分だけ病院に置き去りになったときの、寂しさと、虚しさと、疎外感を。そして気付いた。私は普通の人とは別の世界に住んでいるんだって。病院から出られない私が、普通の生活を送っている人たちと友達になるべきではない、って」

 私たちくらいの子供が抱くべきではない失望と諦観が、言葉の端々から溢れ出す。

「あんな思いをするくらいなら、もう友達なんていらない。あの時そう決意してから今まで、私はずっと独りよ」

 語られた悲痛な過去に、私は肌をガラスの破片で切り付けられるような痛みを感じた。自分のことではないのに、胸が苦しくなる。

 早苗はこちらから歩み寄ろうとしても近づかせてくれなかった。かたくなに人を寄せ付けず、殻に閉じこもろうとしていた。そんなどこまでも非友好的な態度の早苗に、私は愛想を尽かしかけた。

 しかしその根本には、もう友達と引き離されるつらい思いをしたくない、という恐怖があったのだ。今の話で、早苗の印象は一八〇度変わった。彼女は好きで人と関わろうとしないのではない。二度と傷つくまいと自分の心を守っているだけだ。

 早苗が他人から距離を置いてきた訳は理解できるし、共感もする。

 だけど。

 もし、早苗のもとから離れていかない友達がいるとしたらどうだろう。

 私はそんな存在になることができる。それに私自身も、早苗と友達になりたいと望んでいる。

 そして。

「でも、本当は寂しいんだよね?」

 私が問い掛けると、早苗は唇を噛み締めて、ゆっくりと頷いた。

 早苗がこんな身の上話を聴かせてくれたのはなぜか。

 私が病気であると知って、態度が変わったのはなぜか。

 友達になってと頼むたびに、苦しそうな顔をしていたのはなぜなのか。

 そんなの決まっている。

 早苗だって、本当は友達が欲しかったのだ。

 であるならば。

 私たちがあるべき形は、もう定まっていた。

「じゃあさ。私と友達になろ?」

 私は早苗に左手を差し向けた。

 早苗の瞳が葛藤に揺れる。再び傷つくかもしれないことへの恐怖と、それでも人との繋がりを持ちたいという渇望が、彼女の中でせめぎ合っているのだろう。

 やがて早苗は唇を震わせて問う。

「あなたは、私の前からいなくなったりしない……?」

 怯えと期待が混ざり合った眼差しを向けられた瞬間。

 口より先に、体が動いた。

 私は前に一歩踏み出して、左腕で早苗の細い体を抱きしめる。

 こうするべきだと思った。約五年間、一人も友達がいない孤独と戦ってきた彼女を、一刻も早く救い出してあげたかった。

 早苗は私の抱擁に酷く驚いて身をすくませた。だがその硬直は次第に解けていく。

 そしてお互いの体温を充分に感じられるようになった頃。

 彼女は私の背中に腕を回して、幼子のように声を上げて泣き出した。



 曇り空を切り裂いた一筋の光が、花咲き乱れる庭園を照らす。

 雨の多かった今年の梅雨も、ようやく終わろうとしていた。



< 1章『出会い』 了 >

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