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「ここのところ、心筋症の悪化が進んでいます」

「そう、ですか」

 担当医の友永ともなが先生が告げた一言に、診察室に詰めていた私と母は肩を落とした。

 がっちりした体つきが熊を思わせる友永先生は、短く整えたあごひげを撫でながら、私の病状について説明し始める。病気の詳しい話は難しくて分からないので母に任せて、今に至るまでのことを少し振り返ろうと思う。

 昨日、病室に戻る途中で不整脈を起こした私は、すぐに病室に運ばれ、心臓の動きを活性化させる薬を投与された。幸い不整脈は軽度なものだったので、私はひとまず小康と相成った。

 そして一夜明けて今日。大事にならなかったとはいえ短いスパンで不整脈が発生している現状を受けて、現在の治療方針を見直す必要があるということで、母にも病院に来てもらい、友永先生と話し合いをしているというのが今の状況である。

 今回の診断結果を受けて、私はそれなりに落ち込んでいた。病院で一ヶ月間治療を受けてきたのに、心臓は良くなるどころか悪くなっているという。病気とは長い付き合いですぐには治らないことは覚悟してしていたつもりだが、それでも苦労の成果がまったく現れていないことにはこたえるものがあった。

 脳裏にふと早苗のことがよぎる。薬がほとんど効かない脳腫瘍と長年闘っている彼女も、きっとこのような無力感を味わってきたのだろう。病気が治ることを半ば諦めてしまっている早苗の気持ちがちょっとだけ分かった気がした。

 私が物思いに沈んでいるうちに、治療方針の話し合いがまとまろうとしていた。薬の種類を変えて経過を観察するとのことらしい。先生には申し訳ないが、打つ手がなくてとりあえず新しいことを試してみるといったような、決め手に欠ける方針に見受けられた。治療が難しい病気なのは承知しているが、何か劇的な解決策でもないものだろうか。

 そんな不平を内心で転がしていたときだった。

「それと今日はもう一つ。こちらを」

 友永先生が一冊のパンフレットを寄越してくる。そこに書かれていた文字を見て、私たち母娘は目を瞬いた。


 日本臓器移植ネットワーク


 母が困惑気味に訊ねる。

「あの、これは?」

「国内の臓器移植を取り仕切る機関の案内になります」

 友永先生は低く落ち着いた声で説明する。

「はっきり申し上げて、陽子さんの心臓が現行の治療によって回復する見込みは薄いです。そのため、心臓移植という別方向からの対処を提案させていただきます」

「は、はあ」

 朗報か悲報か、どうにも判断しかねる展開だった。臓器移植というこれまで話題に上がらなかった方策の登場には希望を持てるが、同時にこのままだと私の病気はほぼ治らないと医者に宣告されたわけである。

 期待と不安で板挟みになる私だが、一方で母はいぶかしげだった。

「実は病気が分かったときも移植の話は出てきたんですが、そのときは子供が国内で臓器移植を受けるのは難しいと言われたんです。それでも、陽子は移植を受けられるんですか?」

 身を乗り出して疑念をぶつける母に対して、友永先生は物腰柔らかに対応する。

「ご安心ください。確かに以前は、法律で一五歳未満の者による臓器提供が認められておらず、国内で小さな子供が臓器移植を受けるのはまず不可能でした。ですが今年法改正されたことで、一五歳未満の子供もドナーになれるようになったんです。ですから、今は陽子さんも移植を受けられるんですよ」

「そうなんですね」

 母はほっとしたように相好を崩すと、移植の提案に食いついた。

「ではそのお話、詳しく聴かせてもらえますか? あんたもいいわね?」

「え、ああ、うん」

 急な話でまだ気持ちが追いついていなかったが、急き立てる母に流されて私は頷く。

 そうして私は母と共に、心臓移植を受ける段取りについて説明を受けることになった。



 三者顔を突き合わせての話し合いが終わって母が帰ったあと、病室に戻った私のもとに早苗が訪ねてきた。

「元気?」

「めっちゃ元気」

「全然そうは見えないのだけど」

 ベッドに寝て点滴を受けている状態で虚勢を張ると、早苗に半眼で睨まれる。

「あはは。まあ、それなりかな」

 実際のところ体調はあまり良くなかった。不整脈は解消しているものの、体に慢性的なだるさがある。ただしこれは心筋症の症状ではなく、昨日から使い始めた薬の副作用らしい。

「それより昨日はありがとね」

 私は体を起こして礼を言う。早苗が前向きに生きられるように支えてあげようなどと豪語していたくせに、助けられているのは私の方ばかりだ。早苗には本当に頭が上がらない。

「構わないわ。でも、その様子だとしばらく絵は描けそうにないわね」

「そうかも」

 確かに、今のコンディションでは恐らくまともに描けない。制作の再開は体調が良くなってからになるだろう。

 そのとき、ふと嫌な考えが頭に浮かんだ。果たして私の調子は元に戻るのだろうか。今感じているだるさは薬の一時的な副作用とのことだが、実は悪化した病気の症状だったりしないか。もしかすると、この先ずっとこのままなのではないだろうか。

 暗い想像に囚われていると、早苗の面持ちが翳った。

「陽子、何かあった?」

「えっ。あー」

 訊ねられ、私はまごつく。何かあったかと言われれば、あった。私は今いくつか不安を抱えていて、いささか気が散っている。だが、もやもやとしたこの鬱屈を、早苗に打ち明けていいか迷った。命の危機を助けられた上に、心の問題まで背負ってもらうのは情けなくないだろうか。それに早苗にとってもたぶん迷惑に違いない。

「別に何も……」

 そう思い、早苗の追及を適当にかわそうとしたのだが。

「いまさら遠慮なんてやめて」

 煙に巻こうとする私を、早苗は見逃してくれなかった。吸い込まれそうな瞳にまっすぐ見つめられ、私は言葉に詰まる。

「私も、この前はみっともない部分をあなたに見せてしまったわ。だからあなたも、話したいことがあれば、話してもらって構わないのよ」

 このとき、私は早苗にすべて見透かされていることを悟った。私が落ち込んでいることも、それを隠そうとしていることも、どうやら筒抜けらしい。その上で早苗は、包み隠さず胸の内を明かしてほしいと言っている。

「まったく。君には敵わないなあ」

 この手の問答では聡明な早苗に勝てない。私は観念し、蓋をしていた憂鬱を晒すことにした。

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