16

「ちょっといい話と、悪い話。どっちから聞きたい?」

「悪い方で」

 悲観的な早苗らしい選択だった。私は苦笑しながら、さきほど診察室で伝えられたことを彼女に教える。

「私の病気、悪くなってた。治療があまり効いてなくて、このままだと治らないみたい」

「……そう」

 おおよそ予想はしていたのだろう、報告を聞いた早苗は驚くでもなく、ただ重々しい溜め息を吐く。その振る舞いからは消沈と憐憫れんびんがありありと見て取れた。

「つらいね。病気って」

 投薬治療を続けても私の心筋症が完治する可能性は低い。友永先生ははっきり口にしていなかったがとどのつまり、私は高確率で助からないということだ。死というバッドエンドがいよいよ現実味を帯びてきたことに、私は追い詰められているような焦燥感を覚えている。

 早苗がもどかしそうに患者衣の袖を強く摘まむ。

「きっと治るから大丈夫、なんて励ましてあげたいけれど。そんな無責任なこと、私には口が裂けても言えない。ごめんなさい。気が利いたことを言えなくて」

 私より先に入院し、病気が治らない絶望感を知った早苗は、聞こえのいい気休めを口にしたりはしない。そんなものは無駄だと分かっているからだ。

「そんな。話を聞いてくれるだけでありがたいよ」

 そこで会話が途切れ、通夜みたいな重苦しさが滞留した。気まずさを振り払うように早苗が話題を変える。

「いい方の話は?」

 私も気を取り直し、二つ目の報告をする。

「私、心臓移植を受けることになるかも」

「え。良かったじゃない。……良かった、で合ってるのよね?」

「まあ、うん」

 曇っていた早苗の表情が少し晴れる。

「いつ受けるの?」

「ああ、ごめん。いつとかはまだ決まってないというか、そもそもまだ移植を受けられるかどうかも分からないんだ」

「どういうこと?」

「移植を受けるために審査とか手続きとか、色々必要なんだって」

 私は友永先生に説明してもらったことを反芻はんすうする。

 日本で臓器移植を受けるにはまず、臓器移植を施術できる医療施設で診察を受けなければならない。その後、患者の臓器移植の可否や必要性の有無などを専門家によって構成される委員会で検討し、移植が必要と判断されれば、次の段階に進むことができる。

 心臓の移植を行える医療施設は国内に一〇箇所ほどしかないそうだが、幸いこの病院がそのうちの一つとのことなので、最初の受診はもう済んでいるようなものだ。委員会の審査も問題ないだろうと先生にお墨付きをもらっているので、第一ステップは難なく通過するだろう。問題はその先だ。

 移植処置が適切と判断された患者は、公益社団法人・日本臓器移植ネットワーク(JOT)に情報登録される。JOTとは、臓器移植を希望する患者(レシピエント)と、死後に自分の臓器を提供する意思を表明している人(ドナー)とを仲介する、日本で唯一の組織である。JOTにレシピエントとして登録されることで初めて臓器移植を受けられるようになるのだ。

 ただし、JOTに登録されたからといってすぐに移植を受けられるわけではない。その理由は移植の段取りにある。

 臓器移植の流れは次のようになる。死亡して臓器提供可能な状態になったドナーが現れると、全レシピエントの中から医学的に最適な臓器移植先が選定される。そうしてレシピエントが決定したら、ドナーから臓器を摘出して移送し、レシピエントに臓器を移植する。

 重要なのは、移植を受けるレシピエントはJOTによって公正に選ばれるという点だ。具体的には、血液型や体格、臓器に対する拒絶反応の有無といったドナーとの医学的な相性に加え、重症度や年齢、JOTに登録してから経過した日数などを総合的に考慮して選定される。すなわち、自分の身体に適した臓器を持つドナーからでないと移植を受けられず、また仮に適合するドナーが現れたとしても、自分より病状が重かったり待機日数が長いレシピエントが他にいる場合は、そちらへの提供が優先される。

 心臓の移植を希望しているレシピエントは何百人もいるが、それに対して一年間に行われる心臓移植はわずか数件。レシピエントの待機期間は三年を悠に超えるという。心臓移植を受けるには、果てしない順番待ちが必要なのであった。

「なるほど。簡単なものではないってことね」

「そゆこと」

 臓器移植を巡る現状を知って幾分か気を落とす早苗だったが。

「それでも、助かる道があるというのはいいことだわ」

 彼女にしては珍しく前向きな意見だった。確かに時間がかかるとしても、病気を治す手段があるというのは希望になる。

 だが、当の私は少し複雑な心境だった。

「まあ、うん。そうなんだけどね」

「何よ、歯切れが悪いじゃない。何か気になることでもあるの?」

「うーん。ちょっとね」

 私は臓器移植に対する率直な思いをこぼした。

「私が他人から心臓をもらっていいのか、不安なんだ」

「どうして?」

「私に心臓をくれる人は、必ず死んでいるからだよ。私は誰かの命をもらうことになるんだ」

 当たり前のことだが、心臓は死者からしか提供されない。人間は心臓がないと生きられないからだ。すなわち、私のもとに心臓が巡ってくるとき、必然的にその裏にはドナーの死があるわけである。

「もちろん、私のせいでドナーが死ぬわけじゃないのは分かってるよ? たまたま亡くなった人の心臓を使わせてもらうだけ。理屈では分かっているんだけど、どうしても、誰かの犠牲の上に生かされるってイメージが拭えないんだ」

 ドナーが死ぬことで自分が助かる。その因果関係に、私は得も言われぬ抵抗感を覚える。

「それに、心臓の提供を待っているレシピエントは他にもたくさんいる。もし私が移植を受けられることになったら、私は他の人が助かる機会を奪っていることになるじゃない?」

 貴重な救済の枠が私に使われることにも、畏れ多さがある。

「そうまでして、私は生きるべきなのかな」

 私が心臓移植を受けるに相応しい人間なのか分からない。これが、病状の悪化と共に頭の中を占めているもう一つのわだかまりだ。

 私の悩みを聴いた早苗が、口を開く。

「馬鹿なこと言わないで」

 怒気を孕んだ声に思わず身が竦む。早苗は咎めるように私を睨んでいた。

「私には生きろと言ったくせに、自分が生きるべきか分からないですって? 無責任にもほどがないかしら」

「ご、ごめん」

 まさか怒られるとは思わなかった。全身の毛が逆立ちそうなほど怒りを露わにする早苗に、私は気圧される。

「ふひゃっ、何をしゅる⁉」

「黙れ阿呆」

 いきなり顔を両手で挟まれた。そして顔をぐい、と寄せられる。文字通り目と鼻の先、まつ毛の本数を数えられるくらいの至近距離から、早苗に目を覗き込まれる。こうなると私はヘビに睨まれたカエルだった。

「陽子。聴きなさい」

「ひゃい」

 どんなお叱りを受けるのだろうか、とおののく私であったが。

「あなたには才能がある」

「え?」

 早苗の口から出てきたのは、叱責ではなく賛辞だった。拍子抜けしてぽかんとする私に、早苗は先を続ける。

「あなたの絵は、私の心を震わせた。生きていたらあなたは、きっとすごい絵描きになれるの」

 間近にある早苗の瞳が、力強い輝きを放つ。それは、私に対する尊敬の念だった。

「あなたは、生きるべき人間よ」

 早苗の肯定が、すっ、と胸に入り込んだ。その言葉は妙にしっくりときて、私の中にある臓器移植への後ろめたさを魔法のように消し去っていく。

「だから陽子、生きなさい。あなたは心臓移植を受けて、生きるの。いいわね?」

「……うん」

 私の命は臓器移植の代償に釣り合わないと思っていた。周りに流されて、このまま移植を希望していいのか迷っていた。けれど早苗は、私には生きる価値があると言ってくれている。その後押しが、私に勇気をくれた。

「ありがとう。早苗のおかげで元気になった」

「そう」

 私の顔から手を離した早苗は目を細めて、珍しく優しい笑みを浮かべた。

 こうして私は、心臓移植を前向きに受け入れることにしたのであった。

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