14

 広げていた画材を一旦バッグに仕舞って、庭の中を移動する。どこで描くか二人で話し合った末、やってきたのは池の中にある東屋だった。私たちが出会った思い出の場所。初めて早苗を描くのに相応しい舞台だ。

 着いてから早速、モデルとなる早苗の位置とポーズをあれこれ試しながら考えていく。今日は野暮やぼったい患者衣を着ているということもあり、描くのは顔から胸辺りまでに留め、東屋から庭の景色を見る早苗の横顔を切り取る構図にしようと決めた。

「こんな感じでいい?」

「ばっちり」

 早苗はベンチに座って私が指定した姿勢を取る。私の方も準備はできていた。

 制作を始める前に、早苗に一声掛ける。

「あまり気負わずに、自然体でいてくれればいいから」

「自然体、ね。んー……よく分からないけど、まあやってみるわ」

 そう言うや、早苗は束の間瞑目めいもくし、ゆっくりと瞼を開く。

 その刹那。早苗の雰囲気が一変した。

 東屋の壁に背中を預け、外の景色を眺める彼女は、静かな憂いを色濃く滲ませていた。どこか寂しそうな目元が、薄く開いている唇が、力の抜けた華奢な肩が、彼女の持つ背景をありありと物語っている。彼女は、檻に閉じ込められ、自由を奪われた悲劇のヒロイン。外の世界を、いつも羨望と諦観の眼差しで見つめている。

 早苗が身一つで表現したストーリーに私は胸をかれた。彼女はこれを演じているのではない。言われた通りありのままを見せているだけだ。つまり、私をも吞み込まんとするこの悲愴さは、早苗自身が抱えているものなのである。その事実に切なさが込み上げてくる一方で、悲劇性と共にあるその儚い美しさに、私はどうしようもなく心を奪われていた。

 ただ見た目が綺麗なだけでなく、リアルで生々しいテーマを内に秘めている。そんな魅力的で手強いモチーフに、私は心して挑む。

 向日葵の絵と同じく、まずは鉛筆で下書きをする。早苗をじっくりと観察し、目で見た形を画用紙の上に黒線で再現していく。

 この過程で、私は改めて早苗の美しさを思い知った。彼女の容姿には瑕疵かしがない。頬から顎先にかけてのシャープな曲線も、歪みなくまっすぐ通っている鼻梁びりょうも、すべてが完璧に整っている。だからこそ、彼女を描くのは途方もなく難しい。どこか一ヶ所でもいびつになったら調和が一気に崩れてしまいそうで、そういう意味では緻密に形作られている人工物を描いているような感覚すらある。

 線を描いては消してを繰り返して、普段より力を入れた下書きが出来上がった。輪郭のトレースは上手くいった。あとは、柔肌の曲面や、豊かな黒髪の質感、そして彼女が漂わせるアンニュイなオーラを、色でどこまで表現できるかだ。

 鉛筆を色鉛筆に持ち替えて着色に着手する。早苗の物憂げな佇まいに合わせて、青や紫などの寒色を多く採用し、モノクロの世界に彩りを加えていく。色を塗って明暗を付けていくと、早苗の形が段々と浮かび上がってくる。今のところ首尾は上々だ。

 絵を描き始めてからしばらく経つが、この間私たちはほとんど言葉を交わさなかった。早苗は時折体をほぐすためにポーズを崩して伸びをするのだが、そのときでさえ彼女は無言で、モデルの役目に徹している。それほどまでに、私たちは集中して制作に臨んでいた。

 私は時間を忘れるほど夢中で鉛筆を走らせた。早苗を描くのはやはり格別に楽しかった。奇跡のような彼女の美をこの手で写し取る度に、脳が痺れるような気持ち良さが迸り、心が打ち震える。

 しかしその一方で、私は悔しさを噛み締めてもいた。作品の完成が近づいてくるにつれて、ひしひしと痛感する。早苗と対峙する私が感じている、胸を締め付けられるような物哀しい美しさを、私は完全に描き切れていない。ある程度は表現できているけれど、何かが欠けている。そしてその何かを埋める術が、今の私には分からない。

 制作は佳境に入る。細部の仕上げを一通り済ませ、各部の微調整を終えた私は、画面全体の最終確認をする。

 憂いをたたえた目でここではないどこかを見つめる、私の大切な友達。その見目の麗しさと退廃的な色香を、青を中心とした冷涼な色で描き表した。時間の都合によって背景は省略しているが、そのおかげで彼女の素材の良さが際立ったので、これが正解であるように思える。

 出来は悪くない。むしろ、これまで私が描いてきた中でもトップクラスの作品だ。だが、早苗というモデルのこの上ない魅力を余すところなく描き切れたかといえば、私は自信を持ってイエスと答えられない。何が足りないのか。どうすれば追い求める完璧に近づけるのか。私は必死に改善策を考えるが、この日理想に辿り着く道を見つけることはついぞなく、心残りながら制作完了としたのであった。

 鉛筆を置いて、肩の力を抜く。長時間の作業による疲労と共に、念願だった早苗の絵を描くことができた達成感と、一〇〇パーセント満足のいく出来にならなかった口惜しさが押し寄せる。色々と思うところはあった。だがまずは、無事に制作を終えられたことを喜ぶとしよう。

「終わったよ」

 絵の完成を早苗に告げる。

 その瞬間、彼女が纏っていた哀愁が、跡形もなく霧散した。

「うぅん! さすがに、疲れたわ……」

 ポーズを崩した早苗が、くたり、と萎れるようにベンチに寝そべる。制作中はおくびにも出さなかったが、同じ姿勢をキープし続けていた早苗の疲れは、私と同等かそれ以上だろう。

「お疲れ様! 本当にありがとう……!」

「構わないわ。私としても貴重な経験だった」

 早苗はぐったりとしつつも、私の手元に関心の視線を注いでいた。

「それで。どう?」

 作品の出来を問われる。ずっとモデルをやっていた早苗は今回、制作過程をまったく見ていない。つまり、彼女はこれから初めて絵を目にするのだ。

 私は何も言わず画用紙を早苗に手渡す。果たして早苗はどんな反応を見せるのか。私が固唾かたずを吞んで見守る中、絵を受け取った早苗は、驚いたように瞠目どうもくする。そしてその瞳は、みるみるうちに興奮の光を帯びていった。

「不思議ね。いつも鏡で見ている顔なのに、どうしてこんなにも心打たれるのかしら」

 感慨深げに目を細めて、早苗は柔らかく微笑む。

「すごく素敵よ」

「ほんとに? やった……!」

 緊張が解けて安堵すると同時に、胸の奥がじんわりと温かくなった。ずっと切望していた早苗の絵を描けて。さらにその絵で早苗の心を動かすことができて。なんと幸せなのだろう、と私は喜びを噛み締める。

 だけど私は、これで満足はしていない。

「実はさ、私はこの絵の出来に納得いってないんだ」

「そうなの? こんなに上手く描けているのに」

 早苗は意外そうに瞬きする。早苗は素敵だと褒めてくれたが、私が目指しているのはさらに上、自他ともに認める傑作だ。

「今回は君の魅力のすべてを描き切れなかった。私はもっと良い絵を描きたい。もっと君の美しさをこの手で表したい。だからさ」

 私は早苗に率直な思いを伝えた。


「これからも君を描かせて」


 私の頼みを受けて呆気に取られたのか、早苗はしばし言葉を失う。だがやがておかしそうにくすりと噴き出して、ちょっと意地悪な目をこちらに向けてきた。

「うーん、どうしようかしら。モデルをするのってすごく体が凝るのよねえ」

「ええっ、そんな!」

 確かに絵のモデルが大変なのは分かる。だがえて言うなら、それくらいのことなら我慢してほしい。私は必死に頼み込む。

「そんなこと言わずに、お願い! そうだ! 私めっちゃ揉むよ! 肩とか腰とか何でも揉んであげるから!」

「どうしようかなー」

「ねえほんとお願い! マジで! 一生のお願いっ!」

「あなたそれ二度目よ」

 早苗はひとしきりケラケラと笑ったあと、私に向けて片目をつむって見せた。

「冗談よ。次の絵も期待してるわ」

 早苗にしては珍しく茶目っ気のある仕草に、私はくらり、とよろめく。もし私が男子だったら今ので確実に恋に落ちていただろう。それくらい破壊力のあるウインクだった。

 何はともあれ。私はこれからも早苗を描いていいようだ。

「うん! 私がんばるよ!」

 次はもっと上手く、もっと美しく描く。そして私の創作史上最高の作品を生み出してやろう。

 私は新たな決意を胸に抱きながら、早苗と歩んでいくこれからに想いを馳せるのであった。



 だが。現実とは時に非情なものだ。

 私はそれを、嫌というほど思い知る。

 庭から病室へ帰る道すがら、建物の階段を上り始めたときに、異変が訪れた。

 一段進むごとに体のだるさが増していく。最初は、自覚しているより疲れが溜まっているのだろうかなどと思ったが、何かただの疲労とは違う予感がしてきた。足取りはどんどん重くなり、息も乱れ始める。

「ごめん、ちょっと休憩」

 二階と三階の間にある踊り場に差し掛かったとき、私はとうとうその場にうずくまった。

「陽子? ……陽子⁉ 大丈夫⁉」

 ぐったりと壁に寄りかかった私を見て、早苗が慌てて駆け寄ってくる。

「もしかして、また?」

「そうみたい」

 私たちはたぶん同じことに思い当たっていた。

 不整脈。

 前みたいにすぐ意識を失いはしないものの、心臓の動きに不具合があるのか、動悸と息切れを起こしている。

「待ってて、人を呼んでくるから!」

「ごめん、よろしく」

 早苗が助けを呼びに階段を駆け上がっていく。その背中を見送りながら、私は自分の左胸に手をかざした。

 せっかく色々と物事が上手く運んでいたところなのに。

 息苦しさに抗いながら、私は思うようにならない自分の体を恨んだ。

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