13

 まずは構図決めだ。今回は向日葵と同じ高さの視点から、一つの花をアップで写す絵にしようと考えていた。手前にある花を主役として大きく描き、奥側に生えている向日葵と空を背景にする形である。

 納得のいくアングルを探して花壇の周りを歩き回ることしばし。花の見え方、光の加減ともにちょうどいい場所が見つかった。

 スケッチブックの留め具から紙を一枚外し、画板に固定する。向日葵の花壇と空の広がりが魅力になると思われるので、紙は横向きにした。

「あ、そうだ」

 あることを思い出して、私は早苗に訊ねる。

「色鉛筆使いたいんだけど、いい?」

 今日は白黒ではなく色付きの絵を描くつもりだった。利き腕が復活して本格的に絵の制作を再開できるようになったので、黒鉛筆だけではなく色鉛筆も準備していたのだ。色があった方が画面が華やかだし、描く側としてもより楽しめる。

「構わないわ」

「はーい」

 色鉛筆の使用許可が下りて画材も確定したところで、いよいよ描き始めだ。

 私はまずのBのデッサン用黒鉛筆を握った。色鉛筆を使うといえ、色を塗る前に下書きが必要だからだ。

 鉛筆を紙の上に走らせる。サッと薄い黒線を引いた瞬間、約一ヶ月半ぶりに筆を握った右手が喜びに震えた。ブランクの影響も特になく、怪我をする前と手応えはまったく同じだ。画板という舞台の上で、私は右手を縦横無尽に躍らせていく。

 後から色を乗せる都合上、下書きは線が濃くならないように注意する。手前にある向日葵は花や葉の形をはっきりと描いていくが、奥の方にある向日葵は大まかな輪郭と位置だけ合っていればいい。

「こんなもんかな」

 下書きは二〇分ほどで完成した。

「大口叩くだけあって上手いじゃない」

 制作過程を眺めていた早苗が口にした称賛に、私は照れ笑いを浮かべた。

「まだ下書きだよ。褒めるの早いって」

 ここまでは前の鉛筆デッサンとあまり変わらない内容だ。見せ場は色を塗るここからである。

 私はバッグから色鉛筆のケースを取り出す。平たい缶のケースを開けると、鮮やかなグラデーションを成す二四本の色鉛筆が現れた。それはさながら輝く宝石が並べられたショーケースのようで、蓋を開ける度にいつもにんまりと笑みがこぼれてしまう。

 私はまず水色を手に取り、空を描き始めた。鉛筆を寝かせて、広く薄く画面に色を乗せていく。水色で一通り塗り終わったら、その上から部分的に青色を重ねる。さらに続いて紫色を手にしたとき、早苗から戸惑いの声が上がった。

「そんな色で空を塗って大丈夫なの?」

 早苗の心配はもっともらしかった。早朝や夕刻ならいざ知らず、昼間の空と言えば普通は水色か青色で、紫が混ざる余地などない。

 だがそれは現実の話。今私が作っているのは絵画である。そこに当たり前や常識なんてものは必要ない。

「まあ見ててよ」

 私は紫の鉛筆をそっと滑らせていく。新たに加えられた紫色は果たして、浮くことなく見事に画面に馴染んだ。

「すごい。どうして?」

「色を塗り重ねているからだよ」

 驚嘆する早苗に、私は得意げに説明する。

「色をいくつか重ねることで、単色では出せない色味になるんだ。水彩画とかだと、パレットの上で違う色の絵具を混ぜて別の色を作るでしょ? あれと似たようなものだよ。色鉛筆は絵具みたいにできないから、紙の上で色を混ぜ合わせるんだ」

 私は新しい色を生み出すための素材の一つとして紫色を使った。だから空と関連のなさそうな色でも違和感なく溶け込んだのだ。

 一色で一度に濃く塗り潰すのではなく、複数の色を段階的に塗り重ねていくことで、深みのある色彩に仕上がる。私が色鉛筆で絵を描くときはいつもこの手法を採っていた。

「なるほど。絵ってけっこう自由なのね」

「そうなの! 他にも空に工夫してるところがあるんだけど、分かる?」

 関心をもってもらえたみたいなので、ここぞとばかりに話を振る。早苗はしばらく画面を見つめてから、あっ、と声を上げた。

「実際より雲が減ってるわね」

「正解! さすがだね」

 早苗が言い当てた通り、まだ色を塗っていない雲の部分は現実よりも少なかった。今日の空模様だとそのまま絵にするにはいささか雲が多い。太陽との結び付きが強い向日葵が主役ということもあり、私は雲を減らして青空のスペースを広く取っていたのである。

 モチーフに都合の悪い部分があれば変えてしまえばいい。このような融通が利くところも、写真にはない絵の良さだと私は考えている。

「絵って面白いでしょ」

「ええ、そうね」

 私は手を動かしながら、自分の趣味の魅力を認めてもらえた嬉しさを噛み締めた。作業を始めたときにはまだ残っていた緊張も、いつの間にかどこかに行ってしまっている。私は今、絵を描くことを全力で楽しんでいた。

 空が七割方完成したら一旦、向日葵の描き込みに移る。私はここでも、葉や茎に青色を使ったり、黄色の花びらにピンク色を差すなど、多様な色遣いを見せていく。そのたびに早苗は驚くのだが、これは決してパフォーマンスで奇抜な色を選んでいるわけではない。色の相性をきちんと理解した上でのチョイスなのである。自分で言うのもなんだが、それなりに高度なことをやっているつもりだ。

 画面全体に一通り色を付け終えた。この時点で並みの絵としてなら成立する出来になっているが、私の作品はここで終わらない。ここからがラストスパートだ。

 私は暗い色で物の陰を濃く塗っていく。このとき、目に見えているよりも暗さを強調するのがポイントだ。反対に、光が当たって明るくなっている部分はより明るく目立たせる。そうすることで明暗が分かれて、物の形がはっきりと浮かび上がってくるのだ。

 筆を入れる度にみるみる立体感が宿る。加速度的に質が上がっていくこの瞬間が、絵を描いている時間で一番好きだった。

 最後に指の腹で紙を軽く擦り、鉛筆の粉を馴染ませて質感を滑らかにしていく。その後、画面全体を眺め、気になる部分を見つけては微調整を加える。

 そうして何度目かの全体チェックを終えた私は、よし、と頷いて鉛筆を置いた。

「お待たせ。できたよ」

 私は制作復帰後の一作目を無事に描き終えた。

 色鉛筆特有の淡く温かみのあるタッチと、混色による豊かな彩りで、雄大な夏の空を背に生き生きと咲く向日葵を描いた作品だ。完成までにかかった時間は一時間半ほどだろうか。ブランクの影響も一切なく出来は上々。自分の実力を出し切れたはずだ。

 あとは早苗が気に入ってくれるかどうかだ。上手くいくことを願いながら、私は早苗に画板ごと絵を手渡す。

 早苗はじっくりと絵を観賞した後、おもむろに口を開いた。

「これ、本当に陽子が描いたのよね?」

「そうだよ! 目の前で描いてたじゃん!」

 とんちんかんな発言にずっこける私だったが、早苗はふざけるでもなく、魔法でも目の当たりにしたかのように唖然としている。

「だって、こんなに上手いなんて思ってなかったんだもの。それに、色鉛筆でここまで綺麗な絵を描けるなんて。私全然知らなかった」

 早苗は悩ましい吐息を漏らす。絵を見据える双眸そうぼうには、熱に浮かされたような興奮と陶酔が窺えた。

「あなた、すごいのね」

 早苗の賛辞に、私はぶるりと震えた。心地よくて、こそばゆくて、飛び上がりたくなるような衝動が、体の奥から湧き上がる。絵は人に見られることで初めて意味を為す。

 見てもらって。褒めてもらう。このご褒美があるから創作はやめられない。

 やがて早苗が画板から顔を上げる。

「あなたの絵が素敵だったら、私を描かせてあげる。そういう約束だったわね」

「うん」

「ごめんなさい。あれはなかったことにして」

「……えっ?」

 私は耳を疑った。期待していたのと真逆の申し出に、崖から突き落とされたような絶望に打ちのめされる。確かな手応えを感じていただけに、ショックで固まる私だったが。

「描かせてあげる、なんて傲慢だったわね」

 そう詫びを口にした早苗は、頬を上気させながらこう告げた。

「こちらからお願いするわ。私を描いて」

 放心して凍りついていた私の脳に、早苗の言葉がゆっくりと浸透する。

 そしてその意味を理解した瞬間。

 ぶわっ、と。

 感涙が溢れた。

「ちょっ、え、何。なんで泣くの」

 直前の勘違いによる動揺と、次にやってきた宿願を果たせた歓喜とで感情が乱高下し、私は思わず感極まってしまう。

「えぅ、ごめん。でも、だってさ。嬉しくて……!」

 出会ったときから早苗を描きたいと思っていた。それから色々な困難が立ち塞がったが、それらの壁を乗り越えてようやくここまで来た。これを喜ばずになんていられようか。

「まったくもう」

 早苗はやれやれと肩を竦めながらも少し嬉しそうだった。

「もう一枚、描ける?」

「うん!」

 涙に濡れた顔を服の袖でごしごしと拭った私は、笑って頷く。絵を描いたのが久しぶりだったせいか少し疲れていたが、心は今すぐに描きたいと喚いていた。早苗もきっと同じ気持ちだろう。

 こうして私は、立て続けに制作に取り掛かることになった。

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