26

 再会の時は思いがけず早かった。

「久しぶり、陽子」

 退院から三日経った土曜日の午後。早苗は突然私の病室にやってきた。

「えっ、早苗⁉ どうしたの⁉」

「どうしたのって、お見舞いに来たんじゃない」

 仰天する私に、早苗はさも当然と言わんばかりに答える。確かに会いに来てほしいとは言ったが、こんなに早く来るとは思わなかった。

 また、私は早苗の見た目の変化にも驚く。

 早苗は私服を着ていた。ココア色のタイトニットに細身のデニムとスリムな体型が浮き彫りになる装いに、黒の温かそうなモッズコートをざっくりと羽織ったコーデ。右手には手頃なサイズのトートバッグを提げている。私服姿は初めて見たが、その着こなしは本人の抜群の容姿とも相俟あいまって非常に洗練されていた。

 突如として起こった出来事を処理しきれなくて、ぽかんと口を開けて固まっていると、早苗が上目遣いで不安げな視線を向けてくる。

「もしかして、迷惑だった?」

「いや、全然! すっごく嬉しいよ」

 我に返って笑顔で歓迎すると、早苗は「良かったわ」と顔を綻ばせた。早苗が会いに来てくれて嫌なことなんてあるはずがないのだ。

「ここまではどうやって?」

「パパが車で送ってくれたの。夕方帰るときにまた迎えに来てもらうわ」

「そっか。外での生活はどう?」

「家も町もしばらくぶりでまるで別世界ね。浦島太郎になった気分よ」

 椅子に掛けた早苗はそれから、退院後の出来事を色々と教えてくれた。

 病院に慣れすぎていたせいで、帰宅初日の夜はそわそわしてなかなか眠れなかったこと。

 ここ二日間、葵さんに連れられて買い物に出掛け、生活に必要なものを一通り揃えたこと。

 週明けから、形だけ在籍していた地元の公立中学校に復学する予定であること。

 早苗自ら話すというよりは、私が気になったことを手当たり次第に訊ねて、早苗がそれに答えていくといった形で会話が進んだ。

 服の話をしていたとき。早苗が出し抜けにあることを持ち掛けてくる。

「そうだ。私服の私、描いてみない?」

「えっ、いいの?」

 それは願ってもない提案だった。早苗を最後に描いたのは、彼女が脳出血で倒れる前のこと。以降は早苗が多忙でモデルを頼めず、そのまま病院からいなくなってしまったので、もう彼女を描ける機会はないかもしれないと内心落ち込んでいたのだ。

「もちろん。そのために来たようなものだから」

「早苗……! ありがとう!」

 そうと決まれば善は急げと、ベッドテーブルに広げていた勉強道具を片付けて制作の準備をする。

 そうして私は早苗を描いた。

 私服姿の早苗を描くのは初めてだったので、試し描きのつもりで背景を端折はしょったシンプルなポートレイトにした。構図は、椅子に座った早苗がスツールに頬杖を突いて、窓の外を見つめているというもの。少し気だるげな表情とコンサバティブなファッションが大人びた色香を匂い立たせていて、私と同い年なのに一回り年上であるかのような風格を感じさせる。そんな彼女の居住まいに呑まれそうになりながら、私も負けじと制作に挑んだ。

 出来上がった絵は、最近の中では良い作品だった。早苗の反応も上々だったし、何より描いてて楽しめた。相変わらず会心の出来とまではいかないものの、ここしばらく続いていた不振を抜け出す糸口になりそうな一作であった。

「描かせてくれてありがと。やっぱり早苗がモデルだといい絵になるよ」

「こちらこそ。綺麗に描いてくれてありがとう」

 感謝を伝えつつ、私は嬉しそうにはにかむ早苗を見て安心した。病気が治って生き延びたことを後悔したこともあった彼女だが、今はこうして笑うことができている。元気になってくれてよかった、と私は人知れず喜びを噛み締めた。

 絵を描き終わってからは、二人で取り留めのない話に花を咲かせた。楽しい時間は駆け足で過ぎ去って、あっという間に面会の終了時刻を迎えた。

「今日は来てくれてありがとね」

「気にしないで。また来るわ」

 そう再来を約束して、早苗は帰っていったのであった。

 私はその晩、早苗と過ごした午後の余韻に浸りながら、次はいつ会えるかな、などと思いを馳せた。


 それがまさか次の日だなんて、露ほども思わずに。


「元気かしら?」

 明くる日。シルエットがゆったりとしたグレーのワンピースを着た早苗が、前日と同じ時間に姿を見せた。

「また来たの⁉」

「ええ」

 私は昨日とは異なる驚きを覚える。お見舞いとはこんな頻繁に来るものだっただろうか、と。

 首を捻る私をよそに、早苗は我が物顔で私の画材バッグを手渡してくる。

「今日も描くでしょ?」

「えっ。あー、うん。描く描く!」

 有無を言わさぬ勢いに流された私は、深く考えるのをやめてこくこくと頷いた。

 外はまだ冷えるため、昨日と同様に室内で制作をおこなった。描いたのは、本を読んでいる早苗。彼女はたびたび読書をたしなんでおり、静かに書物に没頭する姿からは隠しきれない知性が溢れ出ている。この日は本の持ち合わせがなかったため、私の英単語帳を代わりに使ってもらった。

 絵を描いている途中、母が私の洗濯物を回収しにやってきたので、作業を一時中断した。早苗と母は、前に病室で何度かニアミスしていたため面識がある。早苗の病気が快復したことをその場で知った母は、彼女の退院を笑顔で祝した。

 母が立ち去ってから制作を再開し、日が傾いてきた頃に絵を描き終えた。ワンピースの皺が複雑だったためいつもより時間がかかったが、フェミニンかつインテリジェントな雰囲気を感じさせるいい仕上がりになった。

 早苗はいつも通りその絵もお気に召したようで、良いところを口々に挙げていった。そして五時前になると、ご満悦な様子で帰途に着いたのであった。


 その翌日も早苗が見舞いに来て、私はようやく異常に気が付いた。


「来たわ」

「ごめんなさい。お邪魔するわね」

「早苗? それに葵さんまで?」

 またしても昼過ぎに早苗が来訪する。しかもどういうわけか葵さんの同伴付きだった。早苗がしとやかな笑みを浮かべているのに対して、葵さんはどこか肩身狭そうに入室してくる。

「これ、あげるわ。良かったら絵のモチーフに使って」

「あ、ありがと」

 早苗から小振りなフラワーアレンジメントをもらう。黄色のバラをメインとしており、見ていると気分が明るくなるような華やかさがあった

 受け取った花を一旦スツールの上に置いた私は、来客の用向きを問う。

「それより、なんで来たの?」

「なんでって、あなたに会いたかったからよ」

「そうじゃなくてさ。早苗、今日から登校するって言ってたじゃん。なのにどうして……」

 一昨日の近況報告では今日から復学予定だと聞いていた。しかし学校で授業を受けているはずの早苗は、なぜか私の目の前にいる。

 困惑して説明を求めると、思いがけない返事が返ってきた。

「学校は行かないことにしたわ」

「はあ?」

 堂々たる不登校宣言に唖然とした私は、助けを求めて葵さんに目配せする。しかし、葵さんは力なく首を横に振るだけで何も言わなかった。冷静に考えると、葵さんが見舞いに同行しているということは、早苗が学校に行ってない状況を容認しているわけである。いよいよ訳が分からなくなってきた。

「学校には行かないとダメでしょ」

 退院した早苗は、長期の入院生活によって欠けていた普通の物事を取り戻していかねばならない。学校生活はその筆頭と言えるだろう。

 それゆえ私は、義務教育を放棄する彼女の不良行為をいさめたのだが。

「学校なんてどうでもいいのよ」

 早苗は興味なさそうに吐き捨てた。

「病院を出てから私考えたの。どうすれば意味のある人生を送れるか、って」

「!」

 意味のある人生。その言葉にハッとする私の前で、早苗は唄うように語った。

「一度はあなたのために死のうとしたけど、それは失敗に終わった。じゃあ、生き残った私にできる意味ある行いって何? そう自分に問い掛けたとき、頭に浮かんだのはただ一つ、あなたのことだった」

 水晶のように輝く早苗に瞳に、私の姿が映り込む。

「才能あるあなたの力になる。それが私の願いであり、生きる意味よ。だから私はあなたのために時間を使うわ。いつでも私を描かせてあげる。必要ならなんだって手助けしてあげる。ずっと、あなたの傍にいてあげるわ」

「早苗……」

 まるでプロポーズみたいな申し出に、私は圧倒された。

 病気から解放されたことで、早苗は自由になったと勘違いしていた。普通の人と変わらない生活を送って、やりたいことをやれる人生を歩んでいくのだと思っていた。

 だが違った。早苗はまだ囚われている。そして彼女の自由を奪っているのは、あろうことかこの私だった。私が心を掴んでしまったばかりに、早苗は私に縛り付けられているのである。露悪的な見方をすれば、それはさながら悪い宗教にのめり込む熱狂的な信者のようであった。

 早苗が私の傍に居続けることになれば、無限の可能性が用意されているであろう彼女の世界を狭めることになってしまう。それはきっと、早苗にとって良くないことだ。

 しかし。私に早苗の意志を拒むことはできなかった。

 意味のある人生を送る。その大義を振りかざされた途端、私は何も言い返せなくなる。なぜなら私自身も同じ信条を掲げて生きているからだ。

「陽子。分かってくれる?」

「……うん」

 すべてを呑み込めたわけではないが、私は早苗に頷き返した。自身のすべてを私に捧げようとする早苗を、止めることはできない。これは彼女が選んだ意味ある生だ。私はその選択を尊重せざるを得ないのであった。

 澱んだ空気を切り替えるがごとく、早苗が柏手を打つ。

「さて。今日も私を描いてもらえるかしら」

「ごめん。今日は宿題をやらなくちゃいけなくて」

 昨日一昨日と早苗が訪ねてきたため勉強にあまり時間を充てられず、学校から出された課題がかなり残っていた。提出期限も迫っているので、今日は絵を描くのを我慢して勉強時間を確保せねばならない。

「そう。なら勉強会にしましょ。分からないところがあれば私に訊いて」

 かくして私は早苗の指導のもと宿題に取り組んだ。去年夏休みの宿題を手伝ってもらって以来、私はよく彼女に勉強を見てもらっていた。早苗は私より遥かに頭がいいし、人に教えるのも上手い。この日も彼女のおかげで勉強がだいぶ捗って、とてもありがたかった。

 一方で、本当にこれで良かったのだろうかという疑問が鎌首をもたげる。せっかく病気が治って普通の暮らしに戻れたのに、早苗がやっていることは退院前と変わっていない。進歩がないこの現況に、私はどうしようもないやるせなさを感じてしまう。

 そしてそれは、私だけではなかった。

 早苗がお手洗いで席を外したタイミングで、それまで静かに勉強する私たちを見守っていた葵さんが、申し訳なさそうに口を開いた。

「急に押し掛けてごめんなさいね。あの子、陽子さんの迷惑になってないかしら?」

「いえ、迷惑だなんて思ってないです! 私は助かってるし、早苗に会えるのは嬉しいので」

 絵のモデルをしてもらったり、勉強を教えてくれたりと、早苗の行いが私の助けになっているのは間違いない。しかし。

「でも、本当にこれでいいんでしょうか」

 私のために早苗が自身の日常を犠牲にするのは、果たして正しいのだろうか。意見を求めると、葵さんも苦悩を打ち明ける。

「そうね。私も最初は戸惑ったわ。退院した次の日には陽子さんのところへ連れていってほしいとせがんできて、昨日は学校には行かずお見舞いに行くなんて言い出したんだもの。私も、あの子は学校に通うべきだって考えていたから、当然反対した。でも今日、陽子さんと過ごすあの子を見てたら、揺らいでしまったわ」

 溜め息を一つ挟んで、葵さんは続ける。

「あの子、家ではずっと塞ぎ込んでいるの。いつも悲しそうな目をして、笑顔なんてちっとも見せてくれない。だけど、あなたの傍にいるときはとても生き生きしてる。あんなに機嫌のいいあの子を見たのは何年振りかしらね」

「……それは、知りませんでした」

 退院してからの早苗はいつも元気そうで、てっきり外でも同じ調子なのだと思い込んでいた。だがそれは私の前でだけだったらしい。たぶん、私を残して自分だけ病院を出ていったことを未だに割り切れていないのだろう。

 遠い目で葵さんは吐露する。

「以前は死にたがっていたことを思うと、早苗が楽しそうに生きていてくれるのはとても嬉しいのよ。それに、友達の力になりたいと思うことは決して悪いことではないわ。親としては失格かもしれないけれど、あの子が笑っていられるなら、あなたの傍に居させてあげるのが正解なのかもしれない」

 迷いはあるが結局のところ、葵さんも早苗のわがままを許さざるを得ないようだった。

「まったく困った娘ね」

 そう言って葵さんはかすかに笑った。口では呆れながらも、早苗への愛情が声音から伝わってくる。どんなに振り回されても早苗のことが大事なのだ。その気持ちは痛いほど分かって、私は「そうですね」とだけ呟き返した。

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