転落
18
清涼に透き通った空の下。
秋の草花が彩る庭園の片隅にある、ところどころペンキが剥がれた白塗りのベンチに座って、紺色のセーラー服に身を包んだ美しい少女がうたた寝をしている。さらりと胸元に流れる髪は深い濡れ羽色に輝き、日焼けを知らぬ肌はよく磨かれた陶器のように
少女が見せる無防備な寝顔に、私は手を止めてしばし
ふと、このまま彼女を見つめていたいという思いに駆られる。だが私は欲望をぐっと堪え、画用紙の上で再び鉛筆を走らせるのであった。
私がこの病院に来て四ヶ月が経った。
入院してからの一~二ヶ月はこれまで体験したことがないくらい激動の日々だったが、夏の暮れ辺りからは特に大きな問題もなく、落ち着いた時間を過ごしていた。
きっと退屈なのだろうと先入観で決めつけていた入院生活だが、なんだかんだ楽しくやっている。病気の治療に、九月に入って学校から定期的に送られてくるようになった勉強課題、そして唯一無二の趣味である絵の制作と、やることが色々あって案外暇はしない。
一方で、病気の経過は良くなかった。私の心臓の機能はコンスタントに低下し続けており、身体が徐々に弱ってきていることを自分でも実感している。現行の治療は病気の進行を遅らせることしかできず、完治はほぼ心臓移植頼みと言っても過言ではない。
私は自分の命が擦り減ってゆくのを感じながら、いつ現れるか分からない心臓提供者を待ち続けている。
「終わったよ」
絵の完成を告げると、眠り姫の瞼がゆっくりと開いた。彼女が両腕を突き上げて伸びをすると、体のあちこちからみしみしと音が鳴る。
「何度か本当に寝そうになったわ」
「お疲れさま」
絵のモデルをしてくれていた早苗が、とろんとした目を擦って小さく欠伸をする。そんな彼女に労いの言葉を掛けながら、私も凝った首をぐりぐりと回した。
外で絵を描いたのは久しぶりだった。病気の悪化に伴って私の体力は落ちてきており、調子が悪いときは何日か寝たきりの状態が続くこともあるのだが、元気なときはこうして精力的に創作活動に打ち込んでいる。
「見せて」
「どーぞ」
完成した絵を見た早苗は、
横長のベンチに座って
余談だが、早苗が着ているセーラー服は私の学校の制服だった。患者衣だと絵の見栄えが良くならないので、モデルをしてもらうときに貸して着てもらっているのだ。オーソドックスなデザインだが、透明感のある早苗のルックスとの親和性は抜群で、私はもはや彼女に贈呈してもいいとすら思い始めている。
早苗はしばらく絵に見入ったあと、口元を綻ばせた。
「とても可愛いわ」
「でしょでしょ! 寝てるところ初めて見たから、破壊力すごすぎて萌え死ぬかと思った」
「そっちじゃないわよ変態。私が言ってるのは花の方」
「えぇー? 早苗も可愛いのにぃ」
「ぐぬ……まあ、私もよく描けてると思う」
赤面しながらも絵の出来を認める早苗に、私はにんまりと笑う。
早苗は毒舌で辛口だが、私の絵だけはいつも褒めてくれる。ずっと病院で過ごしている私にとって、早苗は自分の作品を見てくれる貴重な存在だ。私の創作意欲が枯れないのは間違いなく彼女のおかげである。
早苗が私に問う。
「あなたとしては、この絵の出来はどう?」
「今回はかなり手応えあったよ。でも、もっと上手くやれるはず」
私は厳しい自己評価を下す。構図、絵のタッチ、仕上がりの華やかさ、どれを取っても高いレベルではあると思う。だがこれが会心の出来かといえば、私は疑問を抱かざるを得ない。
前に東京の美術館で見た偉人の作品を思い出す。優れた名画は、一目見ただけで脳に電撃が走り鳥肌が立つほどの凄みがあった。私の絵は、まだその境地に辿り着いていない。
「陽子って、絵に関してはものすごくストイックよね」
早苗は尊敬半分呆れ半分で私を評する。
「こんなに綺麗な絵でもダメなら、あなたが満足する日なんて来るのかしら」
「うっ」
決して悪意はないのだろうけれど、早苗の問い掛けは私の心に深く刺さる。
神様が手ずから造り上げたのではないかというほど美麗な早苗をモデルにすれば、これまで描いてきたものとは一線を画す感動的な大作を生み出せると思っていた。だが絵の世界はそう甘くなかった。これまでに何十枚も早苗の絵を描いてきたが、いずれも私が満足できる出来にはなっていない。
その原因はまだはっきりと掴めていないが、私は朧気ながら、絵のメッセージ性が薄いからではないかと考えている。作者が作品を通して鑑賞者に伝えたい、訴えたいこと。それが私の絵にはまだ足りない気がした。
しかし、その考察を踏まえてメッセージ性を意識した制作を心掛けているものの、躍進の
ふと思う。早苗が投げ掛けたように、胸を張って誇れる傑作を描けるようになるまでの道のりは、果てしなく長く感じられる。そして病気を抱えている私は、いつまで生きられるか分からない。もしも道半ばで倒れたとしたら。私の人生に何か意味は遺るのだろうか――
「痛っ……」
小さな呻き声に、私は暗い思索の海から引っ張り上げられた。見れば早苗が顰め面でこめかみに手を添えている。心臓がどきりと飛び跳ねた。
「早苗、大丈夫⁉」
頭の中に腫瘍がある早苗は時折こうして頭痛を催すことがあった。私もしばしば、彼女が痛みを堪えているところを目撃している。
助けを呼びに行くべきか迷ったが、早苗は私を制した。
「たぶん、平気。いつもの頭痛よ」
その言葉どおり、早苗の顔に浮かぶ険しさは次第に抜けていった。命に関わる事態ではなかったようでほっとするが、不安は完全には消えてくれない。
「頭痛、最近多くない?」
ここのところ、早苗が頭痛を起こす頻度が高くなっている気がする。もしや病気が悪くなっているのでは? と心配する私だったが、早苗はあっけらかんと私見を述べた。
「季節の変わり目はよく痛むのよ。気温の変化の影響で血管に負担がかかるから」
「そうなんだ。知らなかった」
早苗が披露した豆知識に私は膝を打つ。確かに秋も後半に入り、段々と冷える日も増えてきた。噂をすればとばかりに、ひゅうう、と冷たい風が庭を駆け抜けていく。
「うう。寒くなってきたし、戻ろっか」
「賛成」
あまり厚着をしていなかった私たちは、肩をぴったりくっつけ合って病室に戻るのであった。
このとき私は、早苗に説明された頭痛についての話を鵜呑みにしていた。
半月後。私はそれが方便だったことを知る。
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