19
この日。
私はとうとう遭遇してしまった。思えば彼女は頻繁にこの病院に出入りしていたはずで、今まで会わずに済んでいたのがむしろ不思議なくらいだった。
「あっ」
お手洗いから部屋に戻ろうとしていた私は、廊下でその人とばっちり目が合い、足を止める。
細身で背が高く、目元が涼しげな大人の女性だった。グレーのチェスターコートと黒のスキニーパンツというスタイルの良さが引き立つコーデに、緩くウェーブのかかった髪をシュシュで纏めたサイドテールが様になっているが、心なしか前に会ったときよりも顔色が悪いように思える。
「あなたは確か……ああ!」
記憶を探るようにしばし空を見つめたその女性――早苗のお母さんは、私が誰だか思い出して、はたと目を
「少しお話できるかしら」とお願いされて、私は早苗母と病院の一階にやってきた。
午後三時のロビーは閑散としていた。時間を取らせるお礼といって自販機で温かいお茶を買ってもらった後、私たちは手近の長椅子に並んで腰掛ける。
「陽子さん、だったわね?」
「はい」
「改めまして。早苗の母の、
早苗母改め葵さんは、子供の私相手に物腰丁寧に名乗った。その所作一つ見ただけで、相当育ちの良い人なのだろうと窺える。
「挨拶が遅れてしまってごめんなさい。なかなか顔を合わせる機会がなかったものだから」
葵さんと会うのは、夏に早苗の病室で初めて出くわしたあのとき以来だ。しかも前回は早苗のせいで、まともに言葉も交わせないまま別れている。
「いえ。こちらこそすみません」
胸の前で手をぶんぶん振りながら、私は良心の呵責で密かに胸を痛めた。葵さんとの再会がこうも遅くなったのは、偶然ではなく作為的なものである。というのも、私と葵さんが交流を持つのを早苗が嫌がっているみたいで、以前のように鉢合わせしないよう、葵さんが来院する時間帯は病室を訪ねてこないようにと言い付けられていたのだ。
そういうわけで、葵さんと約三か月ぶりの対面なのだが。
「それで、お話というのは?」
私はおずおずと用向きを伺う。わざわざ場所を移したくらいなので、まさかただの世間話ではないはずだ。もしも気の進まない話をされたらどうしようかと及び腰になる私に、葵さんが用件を切り出す。
「そうね。まずはお礼を言わせて」
「お礼?」
「ええ。早苗といつも仲良くしてくれて、本当にありがとう」
葵さんが口にしたのは、私への感謝だった。
「入院して以来塞ぎ込んでいく一方だった早苗が、夏の始め頃から少し明るくなったの。最初は何があったのかと不思議だったけど、あれはきっと、あなたと友達になって楽しい時間を過ごしていたからだったんでしょうね」
葵さんは眉尻を下げて嬉しそうに話す。母親だけあって顔立ちは早苗とそっくりだが、笑うと早苗よりも柔和な印象を受けた。
それはさておき。
「早苗が明るくなった、ですか」
早苗に前向きに生きてもらうため彼女の生活を楽しいものにしようと日々意識してきた私にとって、それは喜ばしい変化だった。
葵さんが話を続ける。
「私たち親子は色々あって長いこと気まずい仲で、早苗は私とほとんど口を利いてくれないの。加えて、あの子には友達がいなかった。だからあの子はずっと独りぼっちだったのよ」
早苗と友達になる前、心に壁を造って誰も寄せ付けなかった当時の彼女のことを思い出す。今思えばあの頃の早苗には、心を許せる者が一人もいなかったわけだ。
「でも、あなたが現れて状況は変わった。あなたは早苗を孤独から救い出してくれた。早苗の友達になってくれて、陽子さんには本当に感謝してるわ」
「そんな! とんでもないです」
仰々しくも思える葵さんの謝辞に、私は恐縮する。
「私だって早苗にたくさん助けられてます。早苗が友達でいてくれるから、きつい闘病生活もがんばれるんです。お礼を言いたいのは私も同じ。だからそんな大袈裟に考えないでください」
救われているのはお互い様。むしろ、どちらかといえば私の方が早苗に良くしてもらっているくらいだ。
私の思いを聞いた葵さんは、眩しそうに目を細める。
「早苗はいい友達に巡り合えたのね」
遠回しに私の人となりを褒める葵さんだったが、ふとその笑顔がぎこちなく崩れた。彼女は何か逡巡するようにしばし目を泳がせていたが、やがて意を決したように表情を引き締めると、私のことをまっすぐ見据える。
「早苗がドナーになったことは聞いてるかしら?」
「!」
ドナー。その単語に、私は氷水を浴びせられたかのごとくびくりと体を強張らせた。
心臓移植の話をされることは薄々予感していた。死後に臓器提供する意思を、早苗はご両親に伝えている。当然、その動機及び私の存在についても説明済みのはずだ。だから、遠からずそのことについて早苗の家族と話すことになるだろうと、私は覚悟していたのである。
「……はい。全部聞いてます」
「そう」
私の返事を聞いた葵さんは、少し間を置いてから、
「正直、ドナーになりたいと言われたときは物凄くショックだったわ。久しぶりにあの子から話し掛けてくれたと思ったら突然、『私が死んだときは』なんて言い出すのだから」
私は痛いほど葵さんに共感する。仮定とはいえ、早苗が死ぬ未来の話をされるのは堪らなく怖い。
「最初は早苗の気持ちが分からなかった。あの子が自分が死んだときのことを考えているのがただただ嫌だった」
胃が縮み上がり、喉がからからにひりつく。早苗に死後のことを考えさせた元凶は他ならぬ自分だ。私は罪悪感に圧し潰されそうになって、今すぐ葵さんに謝らねばと思った。
しかし。
「だけど、あなたと話をして納得したわ」
葵さんは、困ったように微笑を浮かべる。
「あなたはきっと、とてもいい人。優しくて、誠実で、早苗のことを大事に思ってくれている。だからあの子も、あなたの助けになりたがっているんでしょうね」
葵さんの見解は想像していたものと正反対だったので、私は気抜けしてしまう。
「私を、責めないんですか?」
私はてっきり、非難を受けるのではないかと恐れていた。早苗に臓器提供を希望させたことを恨まれていると思っていた。だが葵さんは首を横に振る。
「もしあなたが何か負い目を感じているのだとしたら、それは筋違いよ。これは私たち家族の感情的な問題であって、あなたには何の責任もないわ」
それに、と葵さんは付け加えた。
「臓器提供自体には、もともと賛成だったわ。本来なら助からない命を救うことができる。それは素晴らしいことよ。だから」
葵さんの手が、私の手を包み込む。
「早苗が死ぬようなことがあったら、私たちはあの子の臓器提供を承諾するつもりよ。心臓が誰に提供されるかは分からないとのことだけど、もしも陽子さんのもとに届いたら、遠慮せずもらってあげて」
慈愛に満ちた葵さんの目にまっすぐ見つめられて。
「……ありがとうございます」
私は、どうにかお礼を絞り出した。
葵さんに憎まれていないと分かって、正直ほっとした。一方で、ドナーの家族が抱える複雑な思いに触れたことで、臓器移植という命のバトンの重みを改めて痛感する。様々な葛藤があった上で葵さんは、少しでも私のためになるならと、早苗の臓器提供を認めてくれたのだ。その善意の温かさに、私は頭が上がらなかった。
けれど。移植はあくまで、早苗が死んだとしたらという仮定の話だ。
「お気持ちはとても嬉しいです。でも、万が一のことを話すのはもうやめましょう」
私のためを思ってくれている葵さんを、お返しに励ます。
「早苗の治療は
少しでも葵さんに元気になってもらいたい。そう思って根拠もなくポジティブなことを口にしたのだが。
期待とは裏腹に、葵さんの顔に影が差した。
「あの子から聞いてない?」
「え、何をですか?」
何のことか分からず聞き返すと、葵さんは何か失態に気付いたように口元を押さえた。その反応に、にわかに胸がざわつく。
「何か、あったんですか?」
問い詰めると、さすがにごまかせないと悟ったのか葵さんは口を割った。
「少し前から、早苗の容態がかなり悪くなっているの」
「えっ⁉」
思いもよらぬ悪い知らせだった。私は途轍もないショックを受ける。
つらそうに俯いた葵さんは、沈んだ声で語った。
「陽子さんが言っていたように、薬物治療を始めてから長い間、早苗の脳腫瘍は良くも悪くもならずだった。なのにここ数ヶ月で、なぜか腫瘍が急成長したのよ。原因は今も分からなくて、状態は日に日に悪くなっているわ」
私は早苗の様子を思い返す。確かにここ最近、早苗は頭痛に苦しむことが増えていた。彼女は季節の変化によるものだと言っていたが、実際は私の懸念どおり病気が悪化していたのだ。
同時に、葵さんの変化にも得心がいく。早苗の病状悪化を受けて心労が降り積もっているのだろう、以前より
絶望はさらに積み重なる。
「腫瘍がこのまま成長を続けるなら、脳の血管に大きな影響が出る前に摘出しなければならない。だけど早苗の腫瘍は脳の複雑な場所にあって、もし手術で摘出する場合、その成功率は……一〇パーセントもないと言われているわ」
「そんな」
あまりに心許ない勝算だった。葵さんの説明にはなかったが、手術が失敗したときに辿る末路は自ずと想像がつく。手術はあまりにもリスクが大きい。だからこそ早苗は薬物治療を受けていたわけだが、薬でも腫瘍の抑えが利かなくなった今、いよいよ分の悪い賭けを迫られようとしている。
「陽子さん。早苗は今、かなり危険な状態なの。万が一が起こり得るところまで来てしまっている。だから、つらいでしょうけれど、あなたも最悪を覚悟しておいて」
「……はい」
葵さんの深刻な忠告に、私はかろうじて頷き返したのであった。
葵さんが帰った後、私は一人ロビーに残った。椅子に掛けたまま、冷めてしまったお茶を一口飲んだ後、
早苗が死ぬかもしれない。
今まで意識になかった可能性に、底知れぬ恐怖を感じた。早苗の脳腫瘍は長い間小さくも大きくもならず、均衡が保たれていた。だから私は、無意識的に早苗が死ぬことはないだろうと楽観していたのである。
早苗に死んでほしくなくて、私にできることがないか考えてみるが、何も見つからない。自分の無能さを思い知らされて、悔しさに首を絞められる。
私がこうなることを分かっていて、早苗は病気の悪化を隠していたのだろうか。私にはすべて隠さず話せと言うくせに、私には何も背負わせてくれない。気遣われているのか、あるいは信頼されていないのか。どちらにせよ情けなさが募る。
明日からどんな顔をして早苗に会えばいいのだろう。いっそ、私はすべて知っているぞ、と早苗に詰め寄りたいくらいだが、そうすれば会うなと言われていた葵さんと会ったことがバレてしまう。そのため、私は何も知らないふりを装わなければならないのだ。
鬱屈が黒々と渦巻く。悩み事がありすぎておかしくなりそうだった。
「早苗が死ぬなんて、嫌だよ」
声に出すと目頭が熱を帯びて、私は慌てた。ここは公共の場だ、おいそれと粗相を晒すわけにはいかない。涙がこぼれてしまう前に、私は病室に戻ったのであった。
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