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まずは絵の構図を、2Bの鉛筆でざっくりと描いていく。この段階では、絵の大半を占めるガーベラの花とバスケットが、どんな形をしていてどの方向を向いているかを大まかに示せればよい。ガーベラの花は円盤状で、バスケットの方は四角い一口チョコを上下逆さまにしたような形で、簡略的に描く。脇役となる葉や装飾のリボンなども同様に、細部は省略し位置だけ決めていく。
「鉛筆の持ち方、変わってるわね」
背中越しに作業を覗いていた早苗が、私の手元を見て不思議がる。
私は今、鉛筆を五本の指すべてを使って軽く握っていた。筆先が手の親指側にあるので、包丁の持ち方に似ている。
「鉛筆デッサンやるときはこれが基本なんだ」
「へえ」
別に左手だからこうしているのではなく、利き手で描くときもやり方は同じだ。
画用紙に対して鉛筆を寝かせ、露出した芯の腹を紙に擦りつけるように描いていく。序盤は線を消して描き直しやすいように、筆圧は控えめにするのがキモだ。
ところでふと気付いたが、今のところ左手でも問題なく描けている。さすがに利き手よりはやりづらいが、思っていたほど作業に支障はなかった。
モチーフの概観は一〇分ほどで描き上がった。まだ下書きの段階なので、今は花の絵であることも分からないような状態である。
「ふう……」
一つ大きく息をして、集中力を高める。
絵の解像度を上げていくここからが本当の勝負だ。
下書きをベースに、ガーベラの細長い花びらや、バスケットの網目などといった物の特徴的な部分を描き起こす。同時に、明暗・陰影も付けていく。モチーフに当たっている光の向きを意識して、光が当たる部分は紙の白色を残して表現し、光が当たらない陰の部分は鉛筆で黒く塗る。こうすることで絵に立体感が生まれるのだ。
「あっ」
ペキ、と鉛筆の芯が折れる。少し力が入りすぎた。利き手じゃないせいで、力の加減が難しいのだ。
「ごめん、ティッシュある?」
「あるわ」
早苗にティッシュを一枚もらってスツールに広げる。そしてペンケースからカッターを取り出して、鉛筆の先を削っていく。
「聞いたことはあったけど、絵描きって本当にカッターで鉛筆を削るのね」
「うん。こうしないと芯が出なくてダメなんだ」
デッサン用の鉛筆は主に芯の側面を使う都合上、芯を大きく露出させなければならない。一般的な鉛筆削りではそのような仕上がりにならないので、代わりにカッターを使うのである。
鉛筆を右手で握り、左手でカッターを持っているのだが、普段と手の左右が逆なのと、右腕がギプスと三角巾のせいであまり動かせないのとで、手元は覚束ない。苦戦しながらもなんとか鉛筆を削り終えた私は、削り屑をティッシュで包んで脇に除けて、制作を再開する。
しかし、その後も利き手が使えないことによる困難が私に立ちはだかった。工程が進むごとに要求される手の動きの精密さが上がり、使い慣れていない左手では対応しきれなくなっていく。絵にも段々と粗が出始めていた。私の作業を見守る早苗も違和感に気付いているのか、心配そうな視線を背中に感じる。
細かい描き込みのために鉛筆の持ち方を一般的な筆記形に変えた途端、ハンディキャップによる影響は顕著になった。筆先が不安定に揺れ、線は思ってもない方向へ伸びて言うことを聞かない。
描き進めるにつれて絵が崩れていく。暴れる筆先が、ここまでなんとか積み上げてきたものをすべてなぎ倒していく。
焦りで腕が力んだ瞬間、鉛筆の芯が再び折れた。
私は奥歯をぎしり、と噛み締める。思い通りに手が動かないのがもどかしかった。
そのとき、ぽん、と肩を叩かれた。
「もうやめにしましょ」
「そんな! 私はまだやれる!」
受け入れがたい提案だった。これはせっかく早苗がくれたチャンスなのだ。ここで投げ出したくはない。
往生際悪く足掻こうとする私だったが、早苗は首を横に振った。
「このまま続けても、今のあなたに私を説得させられる絵が描けるとは到底思えないわ」
満足のいく絵を仕上げられなかったから見限られたのだと思って、私は一瞬ショックを受ける。だがすぐにそれは間違いだと気付いた。早苗の表情には、とても見ていられないといった哀れみが浮かんでいる。きっと、私がこれ以上無駄な苦労を重ねずに済むよう止めてくれたといったところだろう。これは早苗なりの慈悲だ。
悔しいが、早苗の主張は正しかった。絵の完成形のイメージも、そこに辿り着くまでのプロセスも、はっきりと頭の中に浮かんでいるのに、利き手を使えない今の私にはそれを実現する力がなかった。勢いでなんとかできるだろうと楽観していたが、現実はそう甘くはなかったのである。
自分の無力さに消沈する私だったが、そこに早苗から思わぬ救いの言葉がかかった。
「あなたの怪我が治ったら、もう一度チャンスをあげるわ」
「いいの?」
早苗を描かせてもらう件は今回の失態で潰えたかと思っていたのだが。
「私をがっかりさせたまま終わるなんて許さないわよ」
「ああ、そういうことか」
なんだかんだ言っても、早苗は私の絵に少しは期待を寄せてくれていたらしい。このまま終わるのはお互いに心残りというわけだ。
「続きは後日。だから、今日はもうお終いにしましょう」
「……分かった。今日は諦める」
そうして早苗に諭された私は、鉛筆を置いたのであった。
いつの間にか日が高くなっていた。時計を見ると、絵を描き始めてから一時間以上が経過している。まだ三〇分くらいしか経っていないと思っていた。筆を握っていると時間が経つのが本当に早い。
「そういえば」
画材や動かした椅子などを元に戻している最中、早苗から質問される。
「あなた右利きだったの?」
「そうだけど。なんでそんなことを?」
「右腕を骨折してるのに自信満々で絵を描くなんて言い出すから、てっきり左利きだと思ってたのよ。実際、あなた最初の方は左手で普通に上手く描けてたし」
早苗はそういって感心したかと思えば、すぐに呆れた顔になる。
「というか、利き手が使えないなら治るまで待てば良かったじゃない」
早苗の指摘はもっともであった。私自身、無謀なことをしたと反省している。
だけど。
「じっとしていられなかったんだ」
私は己を突き動かした衝動を
「君と友達になれて、絵のモデルを頼めるかもしれないって考えたとき、早く描かなきゃ、って気持ちになったんだ」
最高の被写体が手の届くところに存在している。そんな状況で、右腕が治るのなんてとても待っていられなかった。私は善は急げとばかりに、母が来院したタイミングで画材を持ってきてくれと頼んだ。そして準備が整った今日、早苗に絵の話を切り出したのである。
「早く描かなきゃ、って。急がなくても私はいなくならないわよ」
「違うんだ。これは早苗がどうこうって問題じゃない」
私が怪我の回復を待たずに行動した理由。それは私自身の問題だった。
「私、いつ死ぬか分からないからさ」
私が口にした言葉に早苗がぎょっとした。彼女はすぐに意味を理解したようで、居たたまれなさそうに目を伏せる。
いつ死ぬか分からない。
それは自分が病気であると分かってからこれまで、常に心に留めてきたことだった。
心筋症に蝕まれている私の心臓は、言わば切れかけの電池みたいなものである。いつ鼓動が止まってもおかしくないのだ。事実、私はここ一ヶ月で二度も気を失っている。心停止が一瞬に留まっていたからこそ大事には至らなかったものの、もし運悪く心臓がそのまま仕事を放り出していたら、私はとっくにこの世にいないわけだ。
いつだって死と隣り合わせ。明日生きていられる保証なんてない。だから。
「死んでしまう前に、やれることをやれるだけやっておきたいんだ」
どのくらい残されているか分からない時間を大事に使う。それが私の生き方だった。
そしてその指針は私の趣味にも通じている。
「絵を描いてるのも、似たような理由なんだよね」
「というと?」
「生きているうちに、私が生きた意味を遺したいんだ」
私は持論を語った。
「人が生きる意味って、何かを遺すことだと思うんだ。遺すものは人それぞれ。功績だったり、発明だったり、はたまた子孫だったり、色々あると思う」
なぜ人は生きるのか? その問いに対する絶対的な正解があるかは分からないけれど、私ならこう答える。後世に遺る物事を成すこと。それが私が思う生きる意味だった。
「それで、先の短い私の人生で遺せるものってなんだろうって考えたとき、絵がベストだなって思ったんだ」
芸術は形として残すことができる。しかも優れている作品であれば人の心にも残る。そういった意味で、絵は自分にでも遺すことができるもののなかで最善であると、私は考えた。
「自分が生きた意味を作る。そのために私は絵を描いてるんだ」
絵を描くのは元々好きだったが、病気になってからはそういった使命感を持って描くようになった。目標は、人々を感動させ何百年にも渡って愛され続ける名画を遺すことだ。
「……なーんて、ちょっとカッコつけすぎたかな?」
なんだか照れ臭くなったので、おどけてごまかす。
静かに私の話に耳を傾けていた早苗は意外そうな様子だった。
「あなたって、思いのほかちゃんと考えを持って生きてるのね」
「思いのほか、ってなんだよー」
茶化されてむくれる私だったが、早苗は「冗談よ」と発言を撤回する。
「素敵な生き方ね」
「本当?」
「ええ。ちょっと眩しいわ」
早苗は目を細めて微笑むが、その仕草がなぜか一瞬悲しそうに見えた。おや? と引っ掛かりを覚えて私は彼女を凝視するが、道端に咲く花のように慎ましやかな笑みに陰りは見当たらなかった。きっと私の勘違いだったのだろう。
「そういうわけでさ、私の野望のためにモデルになって。無条件で」
「怒るわよ」
情に訴えれば協力してくれるのではないかと思って嘆願してみたが、早苗の返事はにべもなかった。
「それとこれとは話が別。チャンスは実力で勝ち取りなさい」
「はーい」
何はともあれ。早苗はリベンジの機会を与えてくれた。
次こそ早苗を唸らせてやる。
私は静かに意気込んだのであった。
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