28
その日の晩。
私はこれまでに描いてきた早苗の絵をベッドの上に広げていた。早苗の絵は五〇枚以上あってすべては乗り切らないため、上手く描けたものを優先的に選んで並べている。
椅子に座って腕組みしながらそれらの作品を眺めていると、志田さんが隣にやってきて感嘆の声を上げた。
「上手な絵ねえ。個展でも開くのかしら」
「いやー、実は今壁にぶつかってて。何がダメなのかなって気になって、前に描いた絵を見直してるんです」
納得のいく作品がなかなか描けないことを受けて、私は過去作を振り返っていた。上手くいかなかった絵ともう一度向き合ってみることで、壁を突き破る手掛かりを得られないだろうかと考えたのだ。
「そうだ。志田さんから見て、私の絵のダメなところとか気になるところがあったら、教えてくれませんか?」
作者より他人の方が客観的な評価を下せるはずだ。そう思って志田さんに作品のフィードバックをお願いする。
「うーん。どれもとても綺麗だけれど」
絵を一枚一枚じっくりと鑑賞していった志田さんは、やがてあることを見抜いた。
「早苗ちゃん、って言ったかしら。この子が笑ってる絵はないのねえ。なんだか悲しそうな顔ばかり」
「そうなんですよ!」
鋭い洞察に、私はがくがくと首を縦に振った。志田さんが言ったように、これまで描いてきた早苗の絵に、笑顔は一つたりともない。
「これは陽子ちゃんの指示?」
「いや、違います。彼女にモデルを頼むといつもこうなるんです」
取り繕わない彼女の自然体は、いつも悲しげで憂鬱そうなものになる。悪口みたいであまり言いたくないが、たぶん本人の根の暗さがそのまま顕れているのだろう。
「笑っている絵も描こうとはしたんですけど、彼女、作り笑いがすごく下手で」
たまには違うテイストの絵も描きたいと思って、何度か笑ってみてほしいとオーダーしたことがあった。彼女もそれに応えようとしてくれたのだが、どうもぎこちない笑顔にしかならなかったのだ。普通に過ごしているときは自然に笑ってくれるのに、モデルをするとなった途端、その笑みは急に引っ込んでしまう。学級写真やアルバム写真の撮影で笑うのが苦手な人がたまにいたが、早苗もたぶんその手合いなのだろう。
笑っている絵がない経緯を聞いた志田さんは、私に新たな質問をしてくる。
「陽子ちゃんは、この絵の早苗ちゃんのこと、どう思う?」
「どうって、まあ、やっぱり綺麗だと思います。儚い美しさがあるというか、切ない雰囲気があって目を離せないみたいな」
哀切が滲む美、という作品のコンセプトを語った私であったが、志田さんは首を横に振る。
「訊きたいのはそういうことじゃないわ。陽子ちゃんは友達として、こういう顔をしている早苗ちゃんのこと、どう思う?」
「友達として?」
世を
そんなこと、考えずとも答えは出ている。
「……こういう顔は、あまりしてほしくないです」
絵描きとしての私は、早苗の陰がある風情を良しとしていた。だが絵のことを度外視するのであれば話は変わる。大切な友人が暗い顔をしているのは、もちろん嫌だった。
私の返答を聞くと、志田さんは優しく目を細めた。
「じゃあきっとそれが、陽子ちゃんが自分の絵を認められない原因ねえ。どんなに綺麗に描けているとしても、その絵が写すものがあなたの望むものじゃないなら、心の底から好きになれるはずがないもの」
「!」
志田さんの言葉に私はハッとした。
早苗の造形のずば抜けた美しさは、憂愁が滲む表情でさえも魅力へと昇華してしまう。その魔法で目が眩んでいて、私は気が付かなかったのだ。今まで描いてきた早苗の姿は、私が本当に望んでいるものではない。
誤った道を進んでいたことを知って衝撃を受ける私に、志田さんはさらに畳み掛ける。
「陽子ちゃんは、早苗ちゃんにどうあってほしい?」
心の奥底まで見透かすかのような志田さんの深い瞳が、私をまっすぐに見据える。
早苗にどうあってほしいか。
その問いは、単に絵のことだけを訊かれているわけではない気がして。
「……私は早苗に、元気に笑って生きていてほしいんです」
自ずと、言葉が溢れていた。
せっかく病気が治ったのだから、彼女には自由な人生を送ってほしいと思っていること。
なのに彼女は、私に尽くすために己のすべてを犠牲にしてしまっているということ。
その献身の元に、意味のある生を遂げたいという動機があること。
私には、彼女の選択を否定できなかったこと。
早苗が退院してから今日までにあった出来事と、それについて抱いていたやり切れない思いを、私はすべて打ち明けた。長い上にたどたどしくて要領を得ない話になってしまったが、志田さんは終始真剣に耳を傾けてくれた。
「どうすればいいんですかね、私」
早苗には私に縛られずに生きてほしい。
けれど、私の力になることで人生に意味を持たせようとする彼女の意志は
そんなジレンマに囚われている私に。
志田さんは一つの命題を提示する。
「意味のあることをしていないと、人間って生きてちゃいけないのかしら?」
「えっ?」
志田さんが投げ掛けたのは、私の価値観を揺らがせかねない問いだった。自身のルーツが危ぶまれている事態に、私は慌てて答えを述べる。
「ダメ……だと思います。何か意味のあることを成し遂げないと、生まれてきたのが無駄になちゃうから」
何も為せぬまま死んだら、その一生はなかったも同然になってしまう。それが受け入れ難いから、私は絵を描くことで、早苗は私の手助けをすることで、自分の命に価値を付けようとしているのだ。
そう主張したら、志田さんはぎょっとするようなことを口にした。
「じゃあ陽子ちゃん。私はもう死んじゃっていい?」
「はい⁉ 急に何言ってるんですか?」
突拍子もないように思える話に耳を疑う私だったが、志田さんは構わず先を続ける。
「勉強も仕事も、結婚も子育ても、人生の営みはもう一通り済んだ。もういい歳で、しかも病気もしているから、お迎えも近いでしょう。これから何か新しいことを始めて最後までやり切るのは、きっともう無理ねえ。そんな私は、もう死んでもいい?」
「それは……!」
途轍もなく重い話に私は鼻白んだ。志田さんは今、自分の命の価値を問うている。
にこやかな表情で返事を待つ志田さんに、私はかすれ声で答えた。
「ダメです。志田さんには、生きててほしい」
志田さんはたまたま同じ部屋になったルームメイトだが、もう何ヶ月も生活を共にしたことで赤の他人以上の存在になっている。死んでもいいだなんて、まったく思えない。確かに年を取っている志田さんには、もう大きな物事を果たすことはできないだろう。だとしても、私は志田さんにできるだけ長生きしてほしかった。
「そうでしょう?」
志田さんは我が意を得たりとばかりに破顔する。
「あなたは私に生きていてほしいと思ってる。陽子ちゃんだけじゃない。私の夫も、子供も、孫も、友達も、私に生きていてほしいと思ってくれているわ。だから私は生きているのよ」
なぜ人は生きるのか?
その問題に、志田さんは一つの明快な答えを示した。
「誰かから生きててほしいと思われている。生きる意味なんて、それだけで充分だと思わない?」
「……思います」
霧が晴れて、視界が広がったような気分だった。どうしてこんなに簡単なことが分からなかったのだろう。
何も遺せない人生に価値などない。
私も、早苗も、そう妄信していた。
だけどそれは間違いだった。
生きていてほしいと思ってくれる人がいる。それだけで生きている意味があったのだ。
「志田さん、ありがとうございました。私、大事なことに気付けました」
「ふふ、どういたしまして」
感謝を伝えると、教えを授けてくれた人生の大先輩は嫣然と微笑んだのであった。
志田さんと話をしたおかげで、私のすべきことがはっきりした。
私は早苗に生きていてほしいと思っている。葵さんも晴樹さんもそうだ。ゆえに、早苗の人生は既に充分すぎるくらい意味を持っていた。
ならば、早苗が私に執着する必要はもはやない。彼女は、私のために注いでいた時間を自分のために使うべきである。
だから。
学校に行かず、毎日のように私に会いに来るのは、もうやめさせなければならない。
早苗をどう説得するか、私は悩んだ。学校に行くべきだという私の考えはこれまで何度も伝えてきたが、早苗は少しも聞く耳を持たなかった。今更言葉で言い聞かせようとしても、恐らく同じ結果になるはずだ。説得の仕方は工夫しなければならないだろう。
数日考え抜いた末、私は一つ妙案を思いついた。上手くいくかは分からない。だけど、それが最も可能性のある方法だった。
思い立ったが吉日と、私はすぐに準備を始めた。計画は早苗に気取られぬよう、細心の注意を払って秘密裏に進めた。
そうして一週間が経った、四月の終わりのある日。
「お母さん」
「何?」
検診の付き添いで来院した母に、私はある話を持ち掛けた。
「折り入ってお願いがあるんだけど」
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