第14話
それからの数日、ミカの生活は荒れた。
なんとか仕事には行ったものの、家に帰ってからは泣いてばかりいた。
同僚にも「何かあったの?」と心配されたが、話す気にもなれず、ただ「大丈夫」とだけ返して乗り切った。
木曜日、仕事をしているミカの心に「不倫」という言葉が浮かんできた。
何度も頭に浮かんで来るうちに、不思議とその言葉が胸に馴染んできた。
そしてミカはいつのまにか「それでもいい」とつぶやいていた。
それからは早かった。
ミカは、どうやったらあの男に気に入ってもらえるか、そればかりを考えた。
金曜日の夜、仕事帰りにこれまでに着たことのない露出度の高い服を買った。
気恥ずかしいが、なりふり構っている場合ではない。
そう自分に言い聞かせて、土曜日になるのを待った。
とても強大なものが自分に迫ってくるようで、怖くて怖くて仕方がなかった。
◆
土曜日、待ちに待った時間。あの人と会って二人で話せる時間。
やっとそれがやってきた。
ミカは暗い笑顔のまま、店に向かった。
カフェに着くと、いつもの様子でマスターが笑いかけてくれた。
マスターはいつも温かい。
「奥の部屋へどうぞ」
そう声をかけられて、ミカは約七ヶ月ぶりにあの不思議な部屋へと入って行った。
◆
私がドアを開けると、前回と変わらぬ風景が広がっていた。落ち着く色味、落ち着く空気、そして落ち着く香り。
そして、あの人……。
ここ最近会いたくて、話したくてたまらなかったあの人がいた。
体が熱い。顔が火照る。
耳が火事になっているかもしれない。
胸に響く声で彼が声をかけてくれる。
「お久しぶりです。こちらにどうぞ」
私はソファに腰掛け、上着を脱ぎ、異国情緒漂う不思議な男の顔をまっすぐ見つめた。彼の視線は私の顔に向いている。もっと下に落としてくれてもいいのにな。
はじめのうち、私は最近のつらさや閉塞感について原因は伏せて話をした。以前のように、あの人は心地よいくらいの相槌を打ちながら、しっかりと私の話を聞いてくれた。それだけで私は天にも昇るような心地になって行った。
だけど、話を続けていくうちにいつのまにか私にイライラとした気持ちが芽生えてきた。
私は知っている。
これは相談屋という役割を全うするためのこの人の仮面なのだ。役なのだ。
だって、マスターには全然違かった。マスターといるときはもっと自然だった。話を遮ることもあったし、ちょっぴり怖いような顔をすることもあった。
それが今はどうだろう。私の話を完全に聞いてくれて、優しい顔をしている。
あの時とは全く違う。
やっぱり、私にはまっすぐ向き合ってくれないのだ。
そう思うと、怒りが膨れ上がった。
マスターやあの女の人といる時は、今とは違うのだ。
あの女の人と私は違うのだ。
怒りに任せて私は口を開く。
「私はつらいんです。本当につらいんです。毎日ご飯もちゃんと食べられなくなって来たし、夜も眠れません。仕事もうまくいかなくて、閉塞感を感じています。それがなぜだかわかりますか?」
彼お得意の一瞬考えてから返事をする仕草が、今日は滑稽に映る。
「いえ、わかりません」
その言葉を聞いて、私の怒りは限界を迎えた。なぜわかってくれないのだ! 私は声を張り上げてまくし立てる。
「あなたのせいです! あなたが私を見てくれないからです! あなたが私をもっと助けてくれないからです! あなたが私の近くにいてくれないからです! いいですか、私のこのつらさも、苦しみも、全部すぐ治るんです! 私には治し方がわかっているんです! それが何かわかりますか?」
「いえ、僕には分かりません。教えていただけますか?」
裏切りだ。裏切りだ。そんな言葉が私の頭にまた浮かんできて、隙間なく詰まり、心を張り裂こうとしてくる。
そして、ついに私の心は爆発した。
「あなたが私と一緒にいてくれたらいいんです!
私と一緒に過ごしてくれたらいいんです!
一日だけでいいです! いえ、一晩だけでいいんです!
だから、私と一緒に夜を明かしてください!
忘れられない夜をこの身体に刻みつけてください!
私のことをあの人と同じくらい愛して、そして優しく抱きしめてください!」
私は力の限り怒鳴った。何もかもがどうでもよくなっていた。ただ心の赴くままに、思いのままに言葉を口に出して、目の前の男に投げつけた。
男は私の顔を見つめたまま、何も言わない。
一秒、二秒、三秒……。ピタリとしたまま、空気すら動かない。
部屋はとても静かだ。時間がゆっくり流れている気がする。なぜか、息が苦しい。
呼吸をしなければ……。
私は大きく息を吸い込み、そして吐き出した。
その瞬間、私は自分が何を喚いていたのかに気づいた。
血の気がどんどん引いていく。
私はなんてふしだらな女なんだ……。
なんてみだらで、身の程知らずな女なんだ……。
目の前が真っ暗になっていく。もう、ここにいるわけにはいかない。
この人の前にいて良いわけがない。
出て行こう。
そう思って、ソファから腰を浮かそうとした。
その時、これまで聞いたことのない声色で言葉が伝わってきた。
「おっしゃる通りかもしれません」
その音色は力強く、私のお腹に直接響いて来るようだった。
大きい和太鼓のような振動が私の心を震わせた。
私に考える暇を与えずに彼は続けた。
「ミカさんが分かったとおっしゃった通り、言う通りのことをすれば確かに治るのかもしれません。その感覚はきっと正しいのだと思います」
彼の目は今までに見たことがないほど、まっすぐで真剣だった。
「––だけど、僕にはできません。ミカさんの言う通りにしてしまったら、僕はこの仕事をやめなくてはならなくなります。恋人も失ってしまいます。マスターにも顔向けできなくなります……。
すぐに治す道が見えているのに、それを我慢しないといけないのはつらいと思います。でも、僕はそれをすることができません。しかし、その代わりに、ミカさんのその気持ちを違う方法で解消する方法を考えることはできます。
だから、少しのあいだ辛抱させてしまうことになりますが、一緒に考えていきませんか? 僕にはそれができます。ミカさんにもそれができると思います」
その言葉を聞いて、私はこわばりきっていた体を緩め、ソファに身を預けてめそめそと泣いた。
後になって思い返して考えてみると、彼がこんな反応を返してくれて本当に良かった。もし、このとき「それは違う」だとか「体を大事にしなさい」みたいなことを言われていたら、私の心は折れてしまっていただろう。
この時の私はひたすらに不安定で、自分が世界で一番みじめな人間である気がしていた。
あのまま時間が経っていたら自分の醜さで頭がいっぱいになって、立ち上がれなくなってしまっただろう。そうなる前に、瞬く間にあの男が救ってくれたのだ。
私がダメなんじゃなくて、彼の都合で出来ないんだと自然に思えて、私は安心することができた。
残念な気持ちもあったけど、こんな自分を受け入れてくれる人がいるんだと心から信じられて、私は温かい気持ちでいっぱいだった。
このあとのことはよく覚えていない。だけど、思い返せばこのあとの時間こそ大事だった。
彼は、私が本当は次のステップに進むのを恐れているのだということを看破した。
今だから言えることだが、私は彼に恋をしてなどいなかった。
自分にとって本当に大切なこと、自分のパートナーや将来のことを考えなくてはいけないのに、その領域に足を踏み出すのが怖くて、彼を隠れ蓑にしていたのだ。
その証拠に、彼と話をして自分らしさを求めていくという決心をしてからは、彼に対して尊敬の念は抱けど、恋愛の気持ちは湧いてこなくなった。
でも、それが分かるようになるのはまだ先の話。先の先の話。
◆
部屋から出て来たミカの顔は真っ青だった。
何が起こったのか自分でもまだ分かっていなかった。
ただ力のかぎり喚いて、そのあと涙が尽きるまで泣いて、今では何も残っていなかった。
ミカにとっても驚きだった。自分にあんなにエネルギーがあったなんて。あんなに怒ることができたなんて、あんなに泣くことがまだできたなんて。
そんなミカの様子に気づいたマスターは、ささっとミカの方に寄って来て、ミカの手を引いて椅子につかせた。そして、たまに見せるあの俊敏さでもって、いつもの薬草茶を持って来て、飲むようにミカを促した。
そのまま一時間ほど呆然として、ふと気づくとミカのテーブルにはいつもの水羊羹。
それを一口、また一口と食べるうちに不思議な力が漲ってきて、ミカもだいぶ冷静になってきた。
そのあとさらに十五分ほど一息ついて、やっと蘇った後にハッと気づいて、どうにもいたたまれなくなってきて、その日は店を後にした。
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