第18話

 夜、「ai's cafe」に二つの人影があった。

 沼田ミカと喫茶店の店主だ。


 二人は店の真ん中にあるテーブルに向かい合って座っている。


 ミカは勇んでここまで来たものの、どうしたら良いのか分からなくなった。考えているうちに、自分が何に苦しんでいるのかはっきり分からなくなってしまったのだ。


 店に入るときには、ミカは覚悟の決まったような顔をしていたが、席に着いた途端おろおろして要領の得ない話をはじめた。マスターは落ち着く時間が必要だと考えて、一旦話を切り上げることにした。


「ねぇ、ミカちゃん。せっかくだし、何か飲もうか。何が良い?」


「そうですね⋯⋯」


 ミカは自分が飲み物も決められない状態に陥っていると気づいた。


「ミカちゃん、夜でもカフェインは大丈夫だよね? エスプレッソは飲んだことある?」


「いえ、ありません。一度飲んで見たいと思っていたんです!」


 ミカはちょっとだけ元気な声を出した。


「最近エスプレッソに凝っていてね。良い豆があるからそれにしようか」


「いいですね。すごく濃そうだと思って避けていたんですけれど、大丈夫でしょうか?」


 それを聞いてマスターは考えた。

 

「うん。ミカちゃんたまにコーヒーを頼む時も濃い味が好きそうだし、多分大丈夫だよ」


 そう言うとマスターは席を立って、エスプレッソマシーンの方に向かった。

 ミカは何とはなしにマスターの後についていった。





 マスターはひどく真剣な顔でエスプレッソを淹れていた。


 まずは豆を挽く。グラインダーから小気味良い音が立って、豆が細かくなっているのがわかる。


 マスターは細かくなった豆を小さなバスケットに入れて、均している。

 丸い文鎮に取っ手がついたような器具でコーヒーの粉を固めているようだ。


 ミカはその様子をぼーっと見ていた。

 コーヒーの粉を均すとき、マスターの手が微かに震えていたのだが、ミカは気が付かなかった。マスターにしては会話がなく、淡々と作業をしているなーとちょっぴり思ったくらいである。


 マスターは粉の入った容器をエスプレッソマシーンにセットして、抽出を始めた。

 マシーンの口は二つあるようで、小さいカップが二つ置いてある。


 カップの中にコーヒーが注がれていく。

 液の出が少なくなり、ぽたぽたと垂れるようになった瞬間、マスターはカップを引き上げ、これまた小さなお皿の上に置かれたコーヒーカップに注いだ。

 そしてあろうことか砂糖を取り出し、カップの大きさにしては多めに投入した。


 ミカはコーヒーに砂糖を入れるのはしばらく前に卒業していたので、訝しげな気持ちになった。


 だが、マスターは気にしたそぶりもなく、ミカの方を向いていった。


「こちらエスプレッソになります! 騙されたと思ってグイッと飲んでみて!」

 言うなり、マスターは片方のカップを手に取って、くくっと飲んでしまった。


 ミカは先を越された気持ちになったので躊躇いなくカップを持ち、口につけた。

 液が最初に口に入ってきたとき、濃くて苦いと思った。しかし、すぐに芳醇な香りが鼻に抜け、酸味と苦味が組み合わさって強烈な旨味となった。

 半分ほど飲んで息をつく。体が熱くなっているように感じる。微かな甘さが後を追うように意識にのぼり、コーヒーの苛烈さを柔らかく包んでくれる。

 このエスプレッソはミカがこれまでに味わったことのない種類の美味しさを持っていた。


 すぐに二口目に入った。

 砂糖が底に溜まっているから甘みが強い。だけど、その甘さが好ましい。

 粘度が増しているのも良いのかもしれない。コーヒーの凝縮された美味しさを舌にしっかり伝えてくれるような気がした。


 ミカは二口でエスプレッソを飲み切ってしまった。

 体はどんどん熱くなっていて、エネルギーに満ちている。とても濃密な時間を過ごした気分だ。


 マスターを見ると、嬉しそうな顔で底に溜まった砂糖をスプーンで掬って食べていた。

 ミカの視線に気づいて小さいスプーンを渡してくれる。


 ミカは素早い動きでスプーンを受け取って、濃厚なコーヒーの味が染み込んだ砂糖を口に入れ、余韻を楽しんだ。





 水を飲みながら息を吐いた後、二人でテーブルに戻った。


 エスプレッソについて話をした後、マスターは居住まいを正してからミカに聞いた。


「さっきの話だけれど、ミカちゃんはタクミくんのことが気になっているんだよね?」


 ミカも背筋を伸ばしてから答える。


「はい。そうです。好きだというのは間違いないんですけれど、物足りない気持ちがあるというか⋯⋯。タクミくんのことを気になってはいても四六時中彼のことを考えるようでもないですし、よく分からないんです」


「そっかぁ。よく分からないんだね。だけど、タクミくんといるのは楽しいんだよね?」


「そうですね。連絡が来ると気持ちが晴れやかになるし、胸がきゅんってなることも多いです」


 マスターは唇に人差し指を当てて考えている。その仕草はどこかの男によく似ていた。


 ミカは続ける。


「何に悩んでいるのかもよく分からないんです。このまま関係を進めてしまえば良いとも思うんですけれど、すごく怖くて⋯⋯。違和感を抱き続けていて、自分が何を求めているのか分からず、不安だけが募ってしまって困りました」


「むーん。自分のことがよく分からないけれど、ミカちゃんは違和感を持っている、と」


「そうなんです。あと、タクミくんは常に一定の距離感で、踏み込んでもこないし、離れたりもしない。だけど、それが不思議で変に思っちゃいますね。迫ってもこないし⋯⋯」


 ミカは自分が突然踏み込んだ話をしはじめたことに気がついたが、口を止めることができなかった。


「男の子はいつも勇気を出して告白してくれたりするけれど、私はそういうことをしたことがなかったなって突然思ったんです。バレンタインでチョコを渡したことはありましたけれど、いつも決定的な出来事が起きるのをただ待っていた。仄めかすだけで、自分から足を踏み出したことはなかったって思ったんです。こんな気持ちが突然出てきて、自分が悪いような気もしてしまって、どうしたらよいのやら⋯⋯」


「うんうん。いつも男の子が動きを見せてくれるのを受け身で待っていたことに気がついて、よく分からない気持ちになったんだね」


「そうなんです。マスターはどう思いますか? こういう経験ありますか?」


 下を向いていたミカがマスターの顔を見ると、柔らかいが読めない表情をしていた。


「私も昔はそういうところがあったかな。だけど、ミカちゃんよりはアグレッシブだったかもしれない。この人が好きだと思うと、積極的に誘って会って、たくさん連絡とりたくなっちゃうんだよね。だけど、やっぱり最終的には男の人に踏み込んで来てほしかったかな」


「そうですよね。周りの友達もそう言っています。女友達も男友達も、大事なことは男が言うもんだって気持ちが強いみたいですね。それはそれで良いと思うんですけれど、じゃあ女の方は何もしなくても良いのかと言うとそんな気もしなくて⋯⋯」


 そう言ったきり、ミカは黙り込んでしまった。

 頭の中でいろんな思いを巡らせているように見えたので、マスターは黙ってその様子を見ていた。


 そして、秋の寒さが喫茶店の中にも入り込んで来たので、一瞬だけ席を立って、暖房をつけにいった。

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