第19話
その日の夜は雲がひとつもなくて、星が綺麗だった。
マスターはオリオン座ぐらいしか星座を知らなかったけれど、三連の煌めきが目に焼きつき、三日月もいつも以上に瞬いているように思った。
窓の外からそんな様子を眺めた後、薄く息を吐いてから話を始めた。
「ねぇ、ミカちゃん。ミカちゃんは自分が恋に落ちる音を聞いたことってある? 音じゃなくてもいいんだけれどね」
そう言われたミカはゆっくりとマスターの方を見た。マスターの瞳は少し潤んでいて光り輝いていた。
ミカはうまく言葉が出てこなかったけれど、なんとなく深く頷いた。
「私は必ず恋に落ちる音を聞いていたの。『あぁ、いま自分は恋に落ちたなぁ』って思って、恋に夢中になった。会うと天にも昇るくらいに嬉しくて、ちょっとでもうまく行かないことがあると胸がギューっとするけれど、また会えば馬鹿らしいくらいに全てが解決してしまう。それが私にとっての恋だった」
ミカは話を聞きながら自分も似ていると思った。
「恋はいつもジェットコースターみたいで、幸せと苦しみの間を行き来していたんだよね。刺激的なものだった」
そう言われてみて、ミカは自分も恋に刺激を求めていたのではないかと思った。
マスターの声はひそやかになって、ミカにだけ聞こえるように音を広げた。
「あるときにね。付き合っていた彼に結婚してくれって言われたんだ。私は飛び上がるくらいに嬉しかった。彼は素敵な人だったし、私のことを大切にしてくれてね。ジェットコースターも一番高いところに昇っていて、それからの生活が楽しみで仕方なくなった。私はミカちゃんと同じくらいの頃に結婚したの」
ミカは驚いて前のめりになった。
「え、マスターって既婚者だったんですか?」
そう言ってはみたものの、そんな話を聞いたことはなかった。相手の話だって耳にしたことがない。
「三年で別れちゃったんだけどね」
マスターはそう言いながら笑った。その笑いはミカには綺麗なものに見えた。
しかし、その綺麗さに比例して切なさが胸に込み上げてきた。
「彼の結婚をその場で受け入れたんだけど、夜になってとても怖くなったんだ。もちろん勢いで受け入れたわけじゃないんだよ? 大好きだったから私も彼と結婚したかった。だけど、ゾッとしたの。自分のこれからの人生を決めるのにはあまりにも簡単だったんじゃないかってさ。誰かの人生を一緒に担っていくにはあっさりと決めすぎたんじゃないかってね。プロポーズされたその日にマリッジブルーになっちゃったんだよね」
マスターはちょっとだけ笑って言った。
ミカは真剣に話を聞いている。
自分が直面している問題と同じ種類のことをマスターが話してくれていると分かっているからだ。
「自分は今まで受け身だったって気がついたんだ。そういう意味ではミカちゃんは気がつくのが早くて、私は遅かった。だけど、なんとか『彼と一緒に幸せになるんだ』って心に決めた。結婚式をして、友達や家族に祝福されればされるほど、その覚悟の気持ちは強くなっていった。それは彼も一緒だったみたいで、本当に嬉しかった。良いパートナーを見つけたって幸せな気持ちだった」
マスターは楽しそうに話をしていた。声も弾んでいて、目尻にも愛嬌のあるシワができている。
「だけどお互いに気持ちが強すぎたのかな。彼は二人の生活をしっかりと続けるために仕事を頑張りすぎるようになった。そんな彼に喜んで欲しくて、私は家事をたくさんやって、手の込んだ料理を作るようになった。お互いに相手を思いやってした行動だったはずなのに、時間が経つにつれて噛み合わなくなっちゃってね。よく分からなかった。
「いつのまにか口喧嘩をするようになったけれど、仲直りして抱きしめ合う時だけ幸せな気分になっている自分に気づいちゃったんだ。そのときだけジェットコースターに乗っている感覚で、底にいる状態から楽しい気持ちがフッと湧いてきて途端に幸せになるの。
「恋人みたいでいられる夫婦になりたいと思っていたけれど、恋の気分を味わうために喧嘩するのは間違っているでしょ? 相手の話を聞くわけでもなく、ただ言い合いをして、言うことがなくなると謝りあって、それで夜を一緒に過ごしていたの。そんな夫婦生活に入ってしまった」
ミカは再びマスターを真っ直ぐに見つめた。
「そのあとどうなったんですか?」
ミカの声はうわずっていた。いつの間にか手に汗をびっしょりかいている。
「旅に出るって言って私が家出しちゃったの。彼もお互いに距離を取った方が良いって思っていたから許してくれて、三ヶ月帰らなかった。友達の家に泊めてもらって、喫茶店や料理屋の手伝いをさせてもらったんだぁ」
マスターはいつもの調子をちょっとずつ取り戻して、微かに芝居がかった話し方になった。
ミカはマスターの話に聞き入っていた。いつも能天気に見えるマスターの人生が予想以上に波乱万丈だったからだ。
「そのあと帰ってから何度か話をして、離婚することにしたの。もちろん色々と揉めたんだけれど、結局は合意してね。口惜しい日々だったなぁ⋯⋯。それからは本気で喫茶店や定食屋の技術を学んでみたり、海外で生活してみたりしてね。いまでは元気に『ai's cafe』のマスターをしているというわけです!」
マスターの晴れやかな笑顔につられて、ミカもいつの間にか笑顔になっていた。
「話が逸れちゃったんだけれど、何が言いたかったのかっていうとね⋯⋯」
ミカは息を飲んだ。
「恋に落ちる音を聞く必要はないってことなんだよね」
「へ?」
ミカにはよく分からなかった。
「ミカちゃんは恋って刺激的なものだと思っていない? 苦しいところから突然幸せになったり、不安の雲が彼の一言で晴れやかになったりするようなものが恋なんだって、漠然と思っていたりしないかな? 気分の落ち込みとか感情の起伏があるときに恋に落ちた感覚になるんじゃないかって私は思ったんだけど、そんなことってないかな?」
ミカはマスターの話を頭におきながら、自分の感情を整理してみた。
そしたら、マスターの言う通りだったのではないかと感じるようになった。
「もしかしたらそうかもしれないです。タクミくんといて、楽しかったけれど、恋に落ちた時のあの独特の感情の動きがなくて、これは恋じゃないかもしれないって思っていたかもしれないです」
「そういう恋から始まって、うまくいく人もたくさんいるんだろうけれどね。だけど覚えておいて。音が聞こえた時だけが恋じゃないんだって。ジェットコースターに乗ったときみたいに胸が躍った時だけ恋だと思わなくてもいいの。じわじわと近づいて、ただお互いを大切に思いあって、そうして成り立つ恋もこの世界にはたくさんあるんだから」
マスターはどこか切なそうな顔になった。色々と思い起こすことがあるのかもしれない。
「余計なことばかり言っちゃったけれど、恋の形は人それぞれだと思ってタクミくんのことを考えてみて。ポジティブな気持ちだけが湧く恋愛に戸惑う人は意外に多くいるみたいだから。ミカちゃんが誰かと関係を持つことに対して怖さを感じるのも、自分を大切に思えるようになったからだと私は思うよ。相手のことを前よりもうまく尊重できるようになったからだと思うよ」
ミカは目を見開いて、マスターを見た。
いまの話が目から鱗すぎて、心の中が台風みたいに渦巻いていた。
「大丈夫。きっとうまくいくよ。いま直面している問題は、ミカちゃんが階段を何段ものぼったから出てきた問題なんだと思う。凪みたいに言ったら『好転している』と私は思ったの」
それから、ミカはマスターが話してくれたことを咀嚼しながら色んなことを質問した。
マスターの何倍も話をして、自分の気持ちを客観的に何度も見つめ直した。
そしてエスプレッソをもう一度飲んだ後、店を出て電車に乗り、一時間散歩してから家に帰った。
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