第17話
ミカとタクミが会うのはカフェが多かった。
ベルベットアップルにはあれから二回行ったし、おしゃれなカフェにも何軒か行った。
だけど「ai's cafe」にはまだ行けていない。
最初の時は、タクミが風邪を引いてしまったということで会う予定自体がなくなった。
二回目は、急遽閉店になったようだった。前日の夜にミカは一人で行ったのだが、マスターは閉店に関して何も言っていなかった。
三回目は、ミカの会社でトラブルがあって「ai's cafe」が閉まってから会うことになった。
ここまでくると呪われているような気分になる。
どちらも「ai's cafe」の話を出さなくなり、別の場所でデートを楽しむようになった。
「ミカちゃんって変わったよね」
デートの時、突然タクミは言った。
「え? そう?」
「うん。いまは自分の気持ちとか感情をすごく率直に話してくれるよね。高校生の頃はそういうイメージはなかったから」
確かにそうかもしれないとミカは思った。
ちょっと前まで自分の趣味や心情を外に出すのが怖くて仕方がなかった。
けれど、あの恥ずかしい状況を乗り越えた今、気持ちを話すくらいはミカにとってなんでもなかった。
「そういうところがすごく魅力的だなって思っているよ」
ちょっとだけ目を逸らしながらタクミはそう言った。
そんなタクミの姿がミカには印象的だった。
◆
沼田ミカはもう大人だ。
だから当然体の関係を持ったことだってある。
だけど、そういう意味でタクミは踏み込んでこなかった。
三回目のデートの時、手を繋いだ。
大きくてしっかりとしたタクミの手にミカの胸は高鳴った。
タクミのことは嫌いじゃなかったので、そのまま迫られたら先に進んでいたかもしれない。
だが、手を繋ぐ以上のことにはならなかった。
タクミは何度も言ってくれている。
「ミカちゃんと会うと元気をもらえる」
「肌のツヤが良いね」
「気持ちの良い性格だね」
「ミカちゃんのこと好きだよ」
「一緒にいて楽しい」
ミカも同じ気持ちだった。タクミといて楽しかった。
何度も気分が高揚した。だけど何か物足りない気持ちであることも間違いなかった。
タクミはミカを好いてくれている。大切にしてくれる。
タクミがミカの心や体を求めたらミカは受け入れるだろう。
けれど、タクミは迫ってこない。
思い返すうちにミカは突然極寒の地に投げ捨てられたような気持ちになった。
自分の体が魅力的じゃないからタクミは手を出して来ないんだと思い込んで、また自分から不快の海に飛び込んで行きそうになった。
「もうそういう世界はこりごりだよ」
仕事の帰り道で、つい口に出してしまった。
タクミが本当にミカの体に魅力を感じていないのだとしたら、そもそもタクミとは深い関係になれない。今の時点でそんなことばかり考えても仕方がない。
そう見切って、ミカはもっと健全なことに集中しようと思った。
「でもそう簡単に割り切れないから困っているんだよね」
その日の夜はいつもより暗かったようにミカは感じた。
◆
思い返せば、いままでミカはただ男性を受け入れていれば良かった。
深い関係になることを早く求める男性に合わせて、拒むか受け入れるかを消極的に選んでいれば良いだけだった。
だけど、タクミは迫って来ない。
タクミがそういうことに興味がない人なのかもしれないと思ったこともある。極端に考えて「いくじなし」と思ったこともある。
もしかしたらそういう面もあるのかもしれない。
だけど、改めて考えるとミカも人のことを言えないのだと気がついた。
自分の大切な体を明け渡す選択を他人に任せて平気でいたし、自分から勇気を出すことなんてなかった。
そんな自分のことを今では怖く感じるし、よっぽど「いくじなし」なんじゃないかと思った。
いま選択を迫られているのはミカの方なのかもしれない。
タクミは率直に気持ちを話してくれる。
付き合いたいとサラッと言ってくれたこともある。
タクミはミカが決めるのを待っている。
そういう考えが浮かんできた。
だから、もう一度まっさらな気持ちで考える。
ミカはタクミを選びたいのだろうか。
タクミといるのはとても楽しい。
だが、どこか物足りない気持ちになる。
刺激がないのかもしれない。
これは恋なのだろうか。
あの日間違ったミカには、よく分からなくなってしまった。
◆
ミカは今日も一人で「ai's cafe」に来ている。
あれからずっとタクミのことを考えている。
そんなミカは上の空だったので、のっそりと近づくマスターに気がつかなかった。
「お客様、ぼーっとしておられますが、何か不都合でもありましたでしょうか?」
びくっとしてミカが声の方を見ると、慇懃無礼ぶったマスターがお盆を持って立っていた。
目が合うとマスターの顔がくしゃっと緩んで笑顔になる。
「ミカちゃん。お茶が冷めているまで考え込んでいたみたいだけど大丈夫?」
そう言われて見てみると、カップにたっぷり入ったお茶が常温近くになっていることにミカは気がついた。
マスターに運んでもらってから、一回は口をつけたものの、それ以降は飲んでいなかったかもしれない。付け合わせの水羊羹にも手をつけていない。
ふと周囲を見渡すと、いつの間にか他の客もいなくなっていた。
マスターが見るに見かねて話しかけてきてくれたのだろう。他のお客が来るまでは話にも付き合ってくれるだろう。
ミカはゆっくり考えた。
その間、マスターは黙ってミカのことを待っていたが、あまりにも長く考えるのでちょっと心配になっていた。
ミカは決心する。
「マスター、申し訳ないのですが私の相談に乗ってもらえないでしょうか? どうしても話したいことがあるんです」
マスターは一瞬考えた。
「いいよ。お店が閉店したあとか、来週の日曜日だったら空けられると思うけれど、ミカちゃんの予定はどうかな?」
「今日の閉店後でも良いですか? 出直してからまたきます」
「うん。分かった。お店でも良いかな? 明日はお休みだし、ゆっくり話せると思うよ」
「分かりました。不躾なお願いですいません」
そういうと、ミカはお茶を飲んで、水羊羹を食べた。
そして「よし!」と気合を入れてからお金を払い、店を出て行った。
そんなミカの姿をマスターは心配そうな顔で眺めていた。
◆
梅紫あやめは若苗凪と休日を過ごしていた。
土日の片方の日はしっかり休み、もう片方の日は勉強をすることになっている。
勉強はなんでも良い。真面目に読書をするときもあるし、美術館に行くこともある。お菓子作りも教養だと言い張って、二人で粉まみれになることだってあった。
今日は休みの日だ。
まず朝起きて、二人で散歩をする。
運動のための散歩なので、途中で早歩きをしてみたり、かるくかけっこをしてみたりもする。
そのあとシャワーを浴びて、若苗凪は横になる。
疲れている時はそのまま眠り、夕方まで起きないこともある。
彼は意志の力が強いので限界まで頑張ることができる。反面、感覚が麻痺してしまうことがあるので、あえて休んで調子を確かめている。
体を動かす時間と休む時間を積極的に取ることが若苗凪の健康法だ。
今日は眠りに入ったようだった。
最近何かを深く考えているようだから、頭を整理する必要があったのかもしれない。
こういう時期のあとは積極的に動いて、また何かを作り上げるものだから、そのための活性化エネルギーを蓄えているという見方もできるかもしれない。
梅紫あやめは何も聞かない。
聞く必要があるときには必ず言ってくるからだ。
あやめが聞いたら教えてくれるだろう。そして、それに対してあやめは何か意見を言うだろう。凪はその意見をしっかり聞くだろう。
けれども、それが不必要なときもある。
若苗凪は人の話を100%聞くことができる人間だ。
相手の意を汲み取りながら、頭の別の部分で客観的に話を聞いている。あらゆる角度から話を受け取っている。
そんなことばかり続けていたら、彼は消耗して擦り切れてしまうとあやめは思っている。だからこれでいいのだと確信している。
梅紫あやめにとって休養といえば紅茶だ。
最近はヌワラエリアに凝っている。いくつかの茶葉を飲み比べて、とても幸せな気分だ。
水色が明るい色なのも面白い。しばらくの間は楽しめそうだ。
一人の部屋で紅茶を楽しんでいると、携帯が振動しているのに気がついた。
休みの日はほとんど携帯を見ないことにしているし、連絡がくることもあまりない。
あやめが携帯を見てみると『緑川沙絵』と出ていた。電話だった。
「はいはい」
"あやめちゃん。やっほー"
「やっほー」
"今日って休みの日だよね? 凪って起きてる?"
あやめは沙絵の声に焦りが混じっていることに気がついた。凪が必要なことが起きたのかもしれない。しかし、彼は寝ていて、余程のことがない限り起こしてはいけないというのが二人の共通認識だった。
「凪は今日は寝てるよ」
"あー、そっかぁ。分かった"
沙絵もよく分かっているのですぐ諦めたようだ。
「何かあったの?」
"うーん。相談屋関連でね。凪が前に相談受けた人が困っているみたいだから一応話しておこうと思ったの"
「起こした方がいい?」
"ううん。私が頼りたくなっちゃっただけだから"
沙絵の声が心細そうだと感じた。
「凪が起きたら伝えておいた方が良いことある?」
"うーん。気が向いたら連絡してって言っておいて。最近なんだか頭がぐるぐるしていたいみたいだし。どうしても必要になったら私からもまた連絡するから"
「分かった」
あやめはカップに入った紅茶を一口飲んで、ゆっくりと息を吐き出してから言った。
「沙絵ちゃん。私には細かいことが分からないけれど、きっと大丈夫。『真正面から向き合うことが結局大事なんだ』っていつも凪は言っているけれど、沙絵ちゃんだってその力を十分に持っているよ。私はいつも応援している」
"うん。あやめちゃん。いつもありがとう。私やってみるね"
「うん! きっとうまくいくよ」
"ありがと。また遊びにきてね。それじゃあ、カフェに戻らなくっちゃ"
そう言って緑川沙絵は電話を切った。
梅紫あやめは色々と思うところがあったが、今は自分が出る場面ではないと判断して、棚に飾られたガンダーラの磨研土器をうっとりとした目で眺め始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます