エピローグ:フラットホワイトのお姉さん
第24話
沼田ミカは二十五歳。顔つきは地味目だが、肌ツヤはよく、自然に上った口角が彼女の人の良さを表している。
服装や化粧もこれといった特徴がないようだが、よく見ると綺麗にまとまっており、細かい部分に個性が出ている。そのためか全体として統一感があり、なんとなく目を引く雰囲気があった。
彼女は今日良永ミカとなる。その協力をしてもらうために最近は足が遠のいてしまった道を踏みしめながら、ゆっくりと進んでいる。
最初にこの道を歩いていたとき、ミカは周囲を確認する余裕がなかった。だが今はよく周りが見えているし、さっき通り過ぎたパン屋がとても美味しいバケットを売っていることも知っている。
知らないうちに変わってしまった店もある。おしゃれなイタリアンを出していた店は、今ではタイ料理店に変わっていて、記憶との違いを際立たせる。
そんな商店街を抜けて奥へ奥へと進むと、遠くの方に木造の建物が見えて来た。そこが今日の目的地だ。
今日は店の定休日だった。だからミカはお店の裏口に回ってドアを叩いた。
「ごめんくださーい」
大きな声を出すと扉が開いて、人懐っこい笑顔を浮かべた女性が中から出て来た。彼女がこのお店のマスターだ。
「ミカちゃん、久しぶり! そしておめでとう!」
マスターは記憶の通りに目をころころさせながら笑っている。相変わらず元気そうだ。というか、むしろ元気になっているかもしれない。
ミカは挨拶をした後で、今日のお礼の高級和菓子を渡した。
マスターはなんでも作れるので何を持っていくのが良いか迷ったが、この店は洋菓子を出すことのほうが多いので、ミカは和菓子を贈ることにしたのだ。
「とりあえずはやることやっちゃおうか。そのあとは時間あるかな? 良かったらお茶でも飲んでいってよ!」
マスターに迎えられてミカは店の中に入って行った。
◆
ミカはお店の中にある相談室で、マスターと向かい合って座っていた。
マスターはミカが用意した婚姻届の証人欄に名前を書いている。
相談室の主は今日はおらず、部屋はどことなく物寂しく見える。
机やソファ、古いタンスはどれも変わっていない。匂いも記憶のままだ。スパイシーなんだけれど故郷に帰って来たような安心感のある香りがする。
ミカはこの部屋で恥ずかしい思いをしたし、泣いたし、怒りもした。たった二回しか入ったことがなかったのに記憶は鮮明で、忘れることができない。
ボーッと待っているとマスターが記入を終えた。
ミカは内容を見て問題ないことを確認した。この後でタクミと役所に向かうがまだ時間には余裕がある。
「何か飲みたいものってある?」
そう言ってマスターはメニューをミカに渡した。この部屋のメニューは特別で、普段は出していない飲み物がいくつかある。
ミカは懐かしさに浸って薬草茶を頼もうと思ったが、全く同じだと進歩がない気がしたので、ちょっと変わり種にすることにした。
「それじゃあ、薬草茶のスパイシーをお願いします」
ミカが注文するとマスターは「あ」と言った。
何かあったのかとミカが疑問を浮かべていると、彼女は何故か苦笑いしながら声を出した。
「凪が『もしミカさんが薬草茶を頼むのならこのスパイシー特別ブレンドをおすすめして』って言ってたんだけどそれにする?」
「怖っ」
ミカは思わずそう言ってしまった。相談屋なのか占い屋なのかよく分からないが、あの男にはそういうところがある。だけど、不思議と嫌な気持ちではなかった。
「怖いけどそれにします。せっかくなので」
マスターと同じようにミカも苦笑しながら飲み物を決めた。
場所を移動して、二人はカフェのキッチンにやって来た。
マスターはすぐに茶葉を計りとり、湯を沸かしている。
「そういえば改めて思ったのですが、マスターのお名前って沙絵さんですよね? 私、最初の頃はアイさんなんだと思ってました」
「あー、そうだよね。よくそう言われるんだよねー。なんでai's cafeなのかって」
ミカも同じ疑問だ。知る限りこの店の関係者にアイという人はいないし、店はマスターが始めたので先代がいるという訳でもない。
マスターはミカに出すカップを選びながら話始めた。
「私ってね、緑川沙絵って名前だけど、生まれる前日までは愛って名前になるはずだったの」
マスターはミカに背を向けていて、どんな表情をしているのか分からない。
「私のちょっと前に生まれたいとこが愛子ちゃんって名前になったみたいでさ、近い親族に同じような名前がいると紛らわしいからってことで沙絵に変わったんだって」
「そんなことがあるんですか」
「面白いよね。全く同じ訳でもないし、いとこなだけなんだけど、変えるものみたい。今もそうなのか昔だからだったのかはよく分からないんだけどね」
カップとソーサーを選び終えたマスターはミカの前に座って笑顔を見せた。
「昔、つらいときに思ったの。もし私が愛だったらこんなにつらい気持ちにならずに済んだのかなぁってさ。実際にはほとんど変わらない人生だったと思うんだけど、なんだか生まれ変わった気持ちで、新しい人生を始めてみたくなったんだ」
火にかけたポットからは湯気が出ていて、コポコポとした音が静かに鳴っている。
「だから、ai's cafeって名前にしたの。ここは緑川沙絵だったことが苦しかった私が人生を変えてみようと思って作ったお店だから」
マスターはお茶目に笑いながらポットを火からおろし、茶葉にお湯を注ぐ。
水はすぐに色付き、さっぱりとしたスパイスの香りがミカの元に届く。
「今では自分が何かとか生まれ変わりたいとか考えることはないんだけど、たまにその頃のことを思い出すんだよね。初心に帰るっていうかねー。ミカちゃんもそういうことあるでしょ?」
ミカは頷いた。まさに今そんな気分だったのだ。
「だからアイさんがいないのにai's cafeだったんですね」
「うん。でもこうやってミカちゃんには話したけれど、ライトに伝えたい時は『ラブのカフェです』って答えることにしてるんだけどね」
マスターはちょっと顔を斜めに傾けて、お決まりの目でミカを見た。マンガみたいというか、コミカルな人だとミカは改めて思った。
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