第15話
三日前に梅雨が明けた。
夏がやってきた。
七夕には間に合わず、二人の高貴な者たちの逢瀬も叶うことなく過ぎ去って行った。
ある男は「水無月というのは、天から水がなくなるからそう呼ぶのだという説があるくらいなのだから、問答無用で毎年二人を会わせたっていいんじゃないかなぁ」と言った。
それを聞いたある女は「ねぇ、水無月って和菓子のこと知っている? ういろうの上に小豆が乗っていてすごく美味しいんだよ!」と言った。
そしてもう一人の女は「あ、私ういろうによく合う紅茶を知っているよ。『七夕』っていう名前なの」と話の流れが分かっているのか、分かっていないのか、よく分からない返答をした。
とにかく、夏がやってきた。
そして「ai's cafe」にも新しいメニューがやってきた。
◆
今日は土曜日、あれから完全に立ち直ったミカは久しぶりに「ai's cafe」に向かっていた。久しぶりと言っても、先週行かなかっただけであるが……。
店に行くと、珍しくあの男がいた。
少し、いやかなり気まずいところはあるが、この前とは気の持ちようが全然違う。熱望するでもなく、拒否するでもなく、自然に顔を向けることができる。あ、いや、やっぱりあれは恥ずかしかった。すごくひどかった……。
もう今すぐにでもこの場所から逃げ出したくなったミカだったが、もう手遅れである。目がばっちり合ってしまっている。覚悟を決めて男の方に居直った。
「お久しぶりです。今日は珍しいですね……?」
そう声をかけると、目をそらし気味だった男の方もしっかりとこちらに顔を向けてきた。同じ机には、あの和の香りのする女の人がいる。
「あ、お久しぶりです。その顔をみるに、乗り越えたみたいですね。今日ですが、このカフェの夏期限定メニューが解禁になったので味わいに来たんですよ。僕とこちらの女性も色々と試行錯誤をしたので、出来栄えを確認しようかと。朝一番だったので、あまり人はいないかと思いましたけど、今日は早いのですね。良かったらミカさんも夏期限定メニューを試してみてください」
男と一緒に隣の女性も頭を下げて挨拶してくれる。こうやって近くで空気に触れてみると、とてもたおやかな女の人だ。唇の紅色が綺麗で花の様に見える。
男と女性は、ミカが来てから二十分ほど経ったのちに帰ってしまった。言葉の通り、ただ試食に来ただけなのだろう。
お昼が近くなってきたころ、ミカはマスターを呼んで注文をした。
「夏期限定スリランカ式スパイスカレーと紅茶のセットをお願いします!」
「はい! かしこまりました!」
◆
「スリランカカレーと紅茶のセット、お待たせしました! 少しずつ混ぜながら好みの味を探してください。それではごゆっくりぃー」
テンションの高いマスターにちょっと面食らいながらも、ミカは机の上に置かれた大皿に目を奪われた。
真ん中にはお米が盛られている。それを囲む様に黄色の豆カレー、茶色のチキンカレー、ナスの炒め物、水菜とカイワレのサラダ……。横には小皿に赤いものが二つ、ココナッツのからいふりかけと玉ねぎのからい和え物。メニューによると好みに合わせてかけると良いらしい。
ミカは「ふぅー」とゆっくり息を吐いてから、まずは豆カレーをスプーンにとって口に運んだ。
「おいしい……? でも、なんかすごくささやか……」
どことなく香るスパイス、薄味のスープ。一口食べただけで心に染み渡るようないつもの美味しさはない。
どこかの国の優しいお母さんが病気をした時に作ってくれるような、そんな素朴でエスニックな味だ。まずくはないが、ちょっと期待と違う……。だが、口の中にどこか懐かしさを感じる。なぜだか和のエッセンスを感じる。
次に、ミカはナスの炒め物を口にした。「あ、美味しい」と言いながら隅々まで味わう。スパイスの香りがする酸味のある炒め物だ。初めて食べる味だが、マスターが作るピクルスとどこか似ている。
もう一口、ナスを食べながらもぐもぐしていると、少し硬いものが歯に当たった。
「なんだろうこれ」
口には魚の香りが広がってゆく。ミカは得心した。これは鰹の厚削りを細かく砕いたものだ。
「あ!」
と声を上げながら先ほどの豆カレーをもう一度味わってみる。すると、このカレーからも鰹の風味が漂ってくる。
その後、全てのものを味見してみたミカは、チキンカレーと水菜のサラダ以外の全てのおかずから鰹のにおいを感じた。苦手と感じたやたら辛いココナッツのふりかけからもだ。
「これがスリランカなの……?」
疑問に思いながらも、ミカはカレーをどんどんと平らげた。二種類のカレーとサラダ、そして玉ねぎの和え物を一緒に食べるとすごく美味しいということに気づいてからは手が止まらなくなった。
メインのチキンカレーに玉ねぎの和え物をいれると、からさと酸味が足されてパンチのある味になってくる。だが、それだけでは味も濃いし、どこか間怠っこしさを感じてしまう。
だが、そこに豆カレーとサラダが加わると、コクが増し、サラサラ感のある味になる。特に水菜とカイワレのシャキシャキが良い。アクセントにもなるし、野菜の瑞々しさが口に広がり、食材たちを喉まで運びやすくしてくれる。次のスプーンを受け入れやすくしてくれる。
アクセントが欲しい時には、ナスの炒めものを食べる。味わったことのない酢が使われているようだが、嫌な感じは全くない。ミカは南国版ピクルスと勝手に名付けて、心のノートにメモしている。
カレーを続けて食べていると、口の中がどんどん辛くなってくる。そういうときにはアイスティーだ。この店独特のまろみは健在で、すごく芳純だ。フルーツで香り付けされているような気さえしてきてしまう。「一点の曇りもないアイスティー」、いつのまにかそんな言葉が浮かんできて、ミカは自然と笑顔になっていた。
カレー、ナス、カレー、ナス、サラダ、カレー、アイスティー……。
あぁ、何という組み合わせ、これがハーモニーというものなのだろうか? 食が止まらない。
ミカはあっという間に、大皿に盛られた食べ物たちを綺麗さっぱり食べ終えてしまった。
一息ついて、ミカはアイスティーのおかわりを貰うことにした。
「すいませーん」
「はいはーい」
マスターの気の抜ける声が遠くから聞こえてくる。機敏にのそのそと歩くという器用な所作でマスターがこちらのテーブルまでやってきた。ミカが話し出す。
「カレーもお茶もすごく美味しかったです!」
「ありがとうございます! この季節は毎年スパイス系の特別料理が出るから、それを楽しみにしてくれてる人も多いんだぁ。夏しか来ないっていうお客さんもいるんだよ」
「そうなんですね! はじめは不思議な味だと思っていたんですけど、いつのまにか夢中になっていました」
「うんうん。わかるよ、その気持ち。私も外のお店で初めてスリランカカレーを食べた時はそうだったからね!」
マスターは腕を組みながら目を瞑り、何度も頷いている。
「あと、このお茶もすごく美味してくて。おかわりしたいんです」
「これもすごく美味しいよね!」
そう言ったあと、マスターは少し居住まいを立て直し、すました顔になってから続けた。
「おかわりは同じものにしますか? スパイスティーに変えることもできますが」
突然店員モードになったマスターにミカは面食らうが「あ、これはお遊びだなぁ」と気づいてからは、こちらもお客モードに徹しようと決めた。
「それではスパイスティーをください」
「かしこまりました! いま淹れてくるねー」
そう言ってマスターはカウンターの方へと歩いていった。
しばしの時間の後、マスターが持ってきてくれたスパイスティーを飲み、まったりとした時間をミカは過ごしたのだった。
◆
とある日の夜、誰もいないカフェでお茶を飲む男と女。
「今回も色々と大変だったね」
「だねぇー。さすがに焦ることが多かったよ」
「そうなんだ。珍しいね」
「うーん。まぁ、そう珍しくはないけどね。俺なんて焦ってばっかりだよ」
「えっ、そうなの? ってそうだよね」
「うん。一歩間違えば、心に大きな傷をつけてしまうことになるからね。みんな、自分にとって一番大切で繊細なところを開いているわけだからさ」
「うんうん。そうだよね。そこを開くからこそ効果も大きいのだろうけど、その分、気をつけなくちゃいけないことは多くなってくるよね」
「うん。昔はうまくいかないことも多かったよ。表にある気持ちと、心の奥底にある気持ちが違うことも多いしさ。でも、そうも言っていられないよね」
「そうだね。だけど、最近すこしがんばりすぎじゃない? 夏のメニューもできたことだし、セーブしないとまた疲れちゃうよ」
「そだねぇ。どっかのカフェのマスターのわがままに付き合わなきゃいけないしね!」
「あぁ! それハイキングのことでしょ! ハイキングの件はもういいってことになったでしょ!」
「おっと、そうだったねぇ。まぁとにかく色々と穏便に済んでよかったよ」
「うんうん。スパイスカレーも人気だよぉ」
「お、それはよかった!」
「いろんな人にお礼いわないとね」
「そうだねぇ。とりあえずラマさんにはまた何か持っていくことにしよう」
「それがいいね。カレーリーフにランペに、お米の茹で方まで教えてもらっちゃったもんね」
「うん。あとトゥナパハに関してもかなり細かくアドバイスもらったし、ココナッツビネガーの情報もありがたかったなぁ……。そう考えると、スリランカカレーに関してはほとんどラマさんのおかげだなぁ。まぁタイのときも、インドのときも、普段のカレーのことも、スパイスに関しては大体ラマさんのおかげだけど」
「そだねぇ。紅茶に関してはほとんどあやめちゃんだし」
「そうだよね……。あれ、俺らは?」
「……」
「おい、目をそらすなよ」
「あ、最近もミカちゃん来てるけど、すごく元気そうだよ」
「あ、話もそらしたな。まぁ、いいけど。そっか。元気そうならよかった。」
「わかった。何か言付けはある?」
「ううん。特にはないかなー」
「おっけー」
「よろしく。あ、そういえばあやめがハイキングの服とか買いに行きたいって言ってたよ」
「行く! 行く! いつ? すぐ?」
「興奮するなよ。多分あとで話せるから待ってて」
「はぁい」
◆
「なぁ、緑川」
「ん?」
「最初は二人だったけど、今は協力してくれる人がたくさんいてくれて助かるな」
「突然どしたの?」
「いやぁ、なんかそう思ってさ。俺ら、昔はあんなに人に頼れない人間だったのに、今は自分から気持ちを開いて、信じて、託すことができるようになったなぁって」
「そだねぇ……。昔は一人でもなんでもできる気がしていたし、それが二人ならもっともっと! って思っていたからね。凪はもっとひどかったでしょ?」
「うん。身体を壊すまではね」
「うん……」
「緑川もそうだと思うけど、ずっと『自分の足で前に進んでいかなきゃ』って思っていた気がするんだ。でもさ、それだけじゃないよね。お互いがお互いを運んで行くっていうかさ。そういう感覚がやっとやっと分かるようになってきたのかもしれない」
「うん。長くかかっちゃったね」
「そだね。というか傲慢だったんだよ。これまでも相談屋にくる人とかお客さん達からたくさん学んでいたはずなのに、自分で進んでいる気になっていた」
「私もいつのまにかそう思っちゃっていたなぁ」
「まぁ、何はともあれ、夏メニューの成功を祝って、ダージリンのセカンドフラッシュ開けようぜ! タルボのやつ」
「え、それあやめちゃんのやつだよね? さすがに怒られるよ!」
「え。やっぱまずいかな?」
「まずいよ。怒ったらこわいよぉ……」
「そうかな? 今日あたりここに来るような––」
遠くから聞こえてくる声。
「やほー! 沙絵ちゃん。凪も! 今日は来ちゃったよ」
「お、いいところに」
「あやめちゃん、やほー! 聞いてよ、凪が勝手にあやめちゃんのダージリン飲もうとしてたよ! タルボ茶園のやつ!」
「馬鹿、言うなよ」
「凪? あれは三人で一緒に飲もうって約束したよね? 覚えていないわけないもんね?」
「はわわ……。やっぱり怒った……」
「そろそろ来ると思ってたんだよ」
「あら、なんでわかったの?」
「予定的にそろそろハイキングのこと詰めないとだから」
「そうだよね。今日のところはその読みを信じてあげる。……沙絵ちゃん、私、怒ってないよ?」
「すー、はー。ふぅー。あやめちゃん、よかったよ。そしたら改めて、夏メニューの成功を祝ってダージリンの紅茶、淹れてこよっか?」
「うん! おねがします!」
「かしこまりました。めでたしめでたし」
「うん。めでたしめでたし」
「ほら、あやめちゃんも」
「え? ……めでたしめでたし」
そんなこんなで、このカフェに関わる風変わりな人たちはまた仲良く自分たちの人生を進めて行くことにしたのでした。
そして、自分の心の中に眠る恐れと真正面から向き合う決心をしたミカは、これから思いも寄らない人生の道を歩いて行くことになるのですが、それはほんのちょっとだけ先のお話。
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