第6話
マスターがコーヒーを淹れに行ってからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
といっても長くて十分、せいぜい五分程度の時間だったはずだが、ミカは永久のように感じていた。
ミカ自身にもなんでこうなってしまったのか分からなかった。ただ涙を止められなかった。恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかったが、同時に居心地の良さも感じていた。
終わって欲しくないけど、早く終わって欲しい時間。その狭間でかすかに張り裂けそうな心持ちになっていた。
そのとき、マスターの声が。
「コーヒーが入りましたぁ」
実はカウンターから一部始終を見物して、空気を伺っていたのでナイスなタイミングで切り込むことができたのだが、今は黙っておこう。
まさか見られていたとは思っていないミカはマスターに感謝し、気を取り直して取り繕った。
「あ、ありがとうございます! じゃあ早速食べましょうか!」
そう言って三人は淹れたてのコーヒーとともに、シフォンケーキ、スコーン、パウンドケーキ、タルトを思い思いに食べ出した。
マスターが二人に語りかける。
「自分らしい春という意味では、私はこのドライフルーツのタルトが一番近いかなぁ。中身の配分はもうちょっと考える必要があると思うけどさぁ。ベリー系多めにしてお茶目な色合い、カボチャの種で緑も表現できるかも」
「たしかに美味しいけど、ドライフルーツもタルトもなんか冬っぽくない? ドライフルーツ自体の味のバランスは俺も春っぽいと思うけど……」
男はそう言いながらまた一口、タルトを食べる。実は男はタルトが好物だ。
つられてミカもタルトを頬張る。どれも美味しすぎて止まらない。だが、それでは意味がないので強い意志を持って手を止める。
フォークを置いたミカに気づいて、マスターも男も注目する。
「私もタルトは冬って感じがします。でもこのタルトの味はすごく私の春っぽいんですよねぇ。ドライフルーツの濃厚さがコーヒーのスッキリさと出会うと意外にバランスが取れるような気がします」
「おぉー……」
ミカの言葉を聞いた二人は嘆息している。
「え、私なにか変なこと言いましたか?」
「いえ、突然プロのような発言だったので驚いてしまっただけですよ。まさにその通りだと思います。さすがですね」
男にそう言われて、ミカはまんざらでもない気持ちになった。男が続ける。
「すごく適当なこと言うけど、ケーキの方が春っぽくないかな? パウンドケーキとかでもいいんだけどさ。そしたら味変わっちゃうかなぁ?」
「むーん……。ケーキもいいと思うけれど、タルトって生地がビスケットとかパイだからアクセントになるんだよね。ただケーキにしただけだと、雰囲気がさっぱりしすぎちゃうかなぁ。慎ましやかなのは私の春って感じではあるのだけれど……、軽妙さが欲しいかなぁ」
マスターが脳を高速回転させながら答える。そして、タルトを見ながら「ナルホド、ナルホド」と小声で呟いているような気もするが気にしない。いや、やっぱりちょっぴり怖い。
そして「うん。うん」と納得したように頷いたマスターはミカの方を向いて喋りかけた。
「ミカちゃんはどれがよかった? 他のお菓子はどうだった?」
ミカの顔を覗き込むように見てくるマスター。ミカよりも年上のはずなのに愛らしい。
「そうですね。どれも本当に美味しかったんですよね……。さっきも言いましたが、パウンドケーキのふわふわ感としっとり具合が絶妙ですっごく美味しかったです。あと––」
マスターも男も真剣に、でも力を抜いてミカの意見を聞いている。コーヒーでもすすりながら。
ミカが続ける。
「あと、スコーンもすごく好きです。こちらもしっとりなんですけど食べ心地はしっかりあって、ちょっとだけぽろっとするんですよね。パウンドケーキの食感と比べながら食べるとリズム感があって余計に楽しめました」
「面白いこと言いますね。スコーンとケーキの食感の違いに目をつけるなんて––」
男がそう言った瞬間、今日一番の早さでマスターが動き、声を出した。
「あー!!!」
頭の上に電球でも光っていそうな顔で、マスターは男の方に向き直った。
「出来るかもしれないよ。スコーンっぽい食感をもたせつつも、しっとりしたケーキを作ること。そのケーキをドライフルーツ入りにして見た目と味をちょっとだけ春っぽくするの。調整がすごく難しいけど、やる価値あるかもしれない! 季節が変わっても、この食感を作るレシピは活かせると思うし!」
「えっ、一つの品でそんなことが出来るんですか?」
マスターのテンションにつられてミカもいつもより声が高く大きくなっている。
「うんっ。昔、外国でそういうの食べたことがあるんだ。記憶を探りながら試行錯誤してみるよ! ミカちゃんありがとう。やっとこの店らしいもの、私たちらしいお菓子が作れそうだよ」
マスター、もう新しいお菓子を作ることで頭がいっぱい。でもそんなマスターの姿を見て、ミカも胸がいっぱい。すごく良い時間を過ごした気分になっていた。
「ミカちゃんにはすごく良いイメージをもらえたよ、やっぱり私が見込んだだけのことはあるね」
マスターは胸を張って、自慢げに立っている。
「なにかお礼をしないとね。何がいいかな? なんでもいいから言ってごらーん」
マスターが一気に加速しはじめて若干頭が追いつかなくなっていたミカは、先ほどから静かにしている男の方を見た。
男は慣れているのか、エネルギーを纏いながらも落ち着いた目をミカに向けて、ただ頷いた。その瞳に「好きにしていいんだよ」と言われた気がして、ミカは心を決めた。
ミカは体をマスターの方にまっすぐ向けて、大きく息を吸い込み、強大な決意の元、言い放った。
「今日食べたピクルスの作り方教えてください!!」
「!!!!」
ミカがあんまりにも決死の思いで話そうとするものだから、身構えていた二人は逆の意味で面食らってしまっていた。
男もマスターも突然笑い出す。マスターに至っては笑いながら涙を出している。
「ミカちゃん。面白すぎるよ! そんなことでいいならいつでも教えてあげる。なんでもいいとか言っちゃったからすごく身構えたのに、まさかピクルスの作り方だなんてー」
ミカは、ミカとしては必死に勇気を振り絞って話したことなのに、尊敬する二人にそんなことを言われて気恥ずかしくなってしまっていた。でも、なんだか自分がこの場の中心になれた気がして、この店のあったかさの一部にもなれた気がして、体が軽くなった。
「わかった。いいよ。そしたらマスター直々に絶品ピクルスの作り方教えてあげる! 再来週、次の次の日曜日のお昼頃って空いてるかな? お店は休みだから、自由に出来るの」
マスターは目の端から溢れる涙をぬぐいながら話した。
「え、本当にいいんですか? 私は大丈夫ですが……、休みの日なのに……」
「大丈夫だよ! 平日にはできないことをするために日曜のおやすみも作っているんだから。お昼ご飯も作ってあげるから楽しみにしていてね」
ミカはそれを聞いて、今晩から眠れなくなりそうなくらいうれしい気持ちになった。
◆
「ミカちゃん。今日は本当にありがとうね。すごく助かったよ。こっからがマスターの腕の見せ所だね!」
そう言うマスターの顔は、ミカがこれまでの人生で見てきた表情の中で、誰のどの笑顔よりも喜びに満ちているようだった。あまりにも混じり気がなくて、この世のものではない神聖さを帯びているように見えた。
マスターとミカが二人の世界を作ろうとしているのに気づいて、なんとなしに気配を絶っていた男が並々ならない生々しさで途端に存在感を発して出で立った。そして自分のコートを掴みながら一つ。
「マスター、これから作るお菓子の名前は何?」
それを聞いて、マスターはさっきとはまた違う新しい笑顔になりながら、はっきりとした口調で言った。
「クラムケーキ!」
◆
夜も深まり、風が冷たくなっている。体が徐々に温度を失っていくのに反して、ミカの心は暖かいままだった。
マスターを一人にしておこうという男の意向のもと、二人は店を出ていた。
駅まで送ってくれると言う男の申し出を受け入れて、今は二人でいつもの商店街を歩いている。
「ミカさん今日はありがとうございました。いつもとは違う新しい風が入ってきて、僕にもマスターにも良い刺激がありました。何より楽しかったですねー」
また相談屋モードに入り気味の男だが、軽い空気で親しみやすい。
「いえいえ。こちらこそありがとうございました。なかなかできない経験ができてよかったです。それに……」
ミカは歩調を緩め男の方を見ようとするが、どうしてなのか気恥ずかしくて見ることができない。
男は少し先でミカが歩み出すのを待っている。
「いえ、なんでもないです。マスターすごい勢いでしたね」
男の空気は変わらない。
「そうですねぇ。スイッチ入ってしまったんですね。僕も自分の世界に入ってしまうことがあるので慣れているというか、お互い様なんですよー」
そう言う男の姿にミカのお腹はきゅっと締まった。男が言葉を紡ぐ。
「それにしても、ミカさんはだいぶ薄着ですよね。今日店に来た時からとても寒そうでした。体が冷え切らないように気をつけないといけないですね。これを––」
そう言って男はコートのポケットから小さな紙の袋を取り出した。
「さっき二人が別れの挨拶大会を繰り広げている時に取って来たんです。今日の無茶振りに対する僕からのお礼ですかね。スパイスティーです。帰ってお風呂に入った後にでも飲んでください。今日の冷えが帳消しになるくらい血の巡りが良くなりますよ」
そんな気遣いを見せる男の笑顔に、ミカの冷えきった顔に赤みがさしていった。
それが寒さのせいであるのか、それとも得体の知れない何かであるのか、ミカにはわかるはずもなかった。
◆
駅で男と別れ、自分の部屋に帰ったあと、ミカはすぐにお風呂を沸かし、あったまった。
お風呂に入りながらいつの間にか自分の体を抱きしめる格好になっていたのだが、どうしてそうしようと思ったのかミカは覚えていなかった。
お風呂から出て来た後、あの男にもらったお茶にお湯を注ぎ、お湯の色が変わるのを待っていた。
ティーカップからスパイスの香りが広がって来た。
男から以前もらったポプリの匂いにどこか似ている。
「そういえばいつのまにか香りがきえちゃったなぁ」
そう言いながら窓に置いたポプリの方を見る。あの時は春までに素敵な恋人でも作れたらなんて思っていたはずなのに、なかなかうまく行かないものだ。
だが、そんな心情とは裏腹にお茶に温められたミカの顔はとても緩やかで幸せそうだった。
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