第7話

 あれから二回目の日曜日、ミカは「ai's cafe」の前に立っていた。


 マスターからの指示のもと、今日は裏口に向かっている。


 悪いことでもしているような気分になりながら敷地の奥に入り、裏口の扉をあけて入っていく。


「ごめんくださーい」


 恐る恐るミカが挨拶すると、マスターが返してくれた。


「あ、いらっしゃーい! 結構早く来たんだねぇ。もしかして、待ちきれなかったのかしら」


 いつもの元気なマスターがそこにいた。


「あ、ありがとうございます! 待ちきれなくて早く来ちゃいました」


「いまお昼ご飯作っていたんだよー。こちらへどうぞー」


「はいー!」


 そう言いながらミカは「ai's cafe」のキッチンへと入っていった。





 入ってみると、そこには予想以上に大きな空間が広がっていた。大きな冷蔵庫、いくつもの調理器具、そして私服のマスター。


 コックがいそうな本格的な厨房に小さなマスターが一人立っている。


 「ai's cafe」の魔法のような料理がこの場所で作り出されているのだと思うとミカの胸は高鳴った。


「ちょっとだけ待っててね。いま準備しちゃうから」


 そう言ってマスターは調理器具を出したり、どこからか調味料を持って来たりしてあくせく動いている。


 少しののち、マスターがこちらにやって来た。


「お待たせー。よく来たね。早速だけどピクルス一緒に作っちゃおっか。お昼の付け合せにしよう!」


「はい。あの……、あのとき勢いに任せて作り方教えてくださいなんて言ってしまったのですが本当によかったのですか……? お店の大切なレシピを教えてもらうだなんて……、今更ですが……」


「うん! 全然大丈夫だよ! うちはいくつかのお茶とお菓子のレシピ以外は、聞かれたら全部伝えることにしているの。こうやって一緒に作りながら教えるのは初めてだけどね」


 そう言いながらマスターは茶色がかった瞳をミカに向けながら微笑んだ。


 その顔がとっても綺麗で、ミカの心の詰まりが一気に除かれてしまった。


「さて、そしたらもう作り始めちゃうよ! 今日はカブ、人参、きゅうり、蓮根、カリフラワーを買って来たからこれで作ろうね。もうカットしてあるの」


 マスターがカットされた野菜たちを取り出してくる。


「しゃきしゃきが良かったら生のままでもいいんだけれど、私は軽く蒸してからピクルスにするのが好きかな。野菜の甘みがさっと香って食べやすいの。いつもはスチーマーを使うんだけど、今日はレンジにしよっか。お家でも簡単に作れるようにね」


 ミカは「ふむふむ」と言いながらメモを取っている。


「お野菜には軽く塩を振って、さっくり混ぜるといいかなー。この量だったら五分チンだね」


 マスターは野菜の入ったボウルにラップをかけ、レンジに入れ、調理をスタートさせた。


「液の方だけど、うちでは寿司酢と白ワインを使っているの」


「……寿司酢ですか?」


 ミカは驚きに満ちた顔で前のめりにマスターに対する。


「そうなの。寿司酢を使うと和の空気が入って来て懐かしい風味になるんだよ」


 確かにこの前食べたピクルスは和風の酢漬けのようでもあったので、ミカは納得しつつ、感服したような気分になった。


「昆布出汁の入った寿司酢にするとより和に近くなるかな。白ワインは何でもいいよ。飲み残しで気が抜けちゃっていても美味しくなるから大丈夫だしね。あとはハーブ。いつもはローズマリーをちょっと入れるくらいかな。お野菜によってはローリエとかタイムも使うんだけど、加減が難しいんだよね。もしあったら試しに使ってみるくらいで大丈夫。今日はローズマリーだけにしてみるね」


 マスターはそう言いながらローズマリーを手に取り、くんくんと嗅いでから三センチほど切ってローズマリーを深型のフライパンに入れた。


「酢と白ワインは一対一が基本の分量ね。甘めが良かったらここでお砂糖足しても良いし、寿司酢を多めにするのもありだと思う」


 マスターは計量カップに酢とワインを計り取り、フライパンに入れた。


「あとはこれを野菜と一緒に軽く煮立てたら完成だよ! 酸味が欲しかったら後で酢を足しても良いからね」


 そんなこんなでマスターに変わってミカが調味液を煮立てたり、煮沸消毒した瓶に詰めたりしてから、二人のピクルスは完成したのだった。


 ピクルスが完成し、ひたすらお礼を言って、一通り話をした後、マスターから料理の仕上げをするから十五分待っていてと言われた。


 ミカは、いつものようにカフェの席についてワクワクしていた。


「今日のご飯はなんだろうなぁ……」


 おそらく意図的なのだろう。マスターは今日のランチのメニューについては何にも話していない。


 厨房では鍋が火にかけられていたが、蓋をされて中身が見えなかった。スープか……、はたまた煮込みか……。なんにせよ本当に楽しみだとミカは独り言をさらに呟き、厨房の方をぼーっと眺めていた。





「おまたせー! 本日のランチ、鶏肉のトマト煮込み、ジャガイモのガレット、そしてピクルスでございます!」


 マスターが声を張り上げながら勢いよく厨房から飛び出して来た。手にはいつものお盆を持っている。


「私も一緒に食べるね!」


 そう言いながらマスターはお皿をテーブルに並べだした。


 トマトのたおやかな香りが広がっていく。


 食欲を刺激される……。


「このトマト煮込みは野菜と鶏肉の水分だけで煮込んだものなの! たくさんあるからおかわりしてね! パンは商店街のはずれにあるお店で買って来たんだよ。ミニカンパーニュだって! 少しライ麦が入っているみたい。皮がパリパリでおいしそうだったから、つい……」


「うわぁ、おいしそうです! 食べてもいいですか? 食べていいですよね? いただきます!」


 ミカもマスターもしっかりと手を合わせたのち、さっと動きだして食事を貪り始めた。





 十五分後、そこにはお腹を抱えて幸せそうな二人の女性がいた。


「もう何にも食べられない……」


 二人とも悪ノリというか、お互いの勢いにつられてしまい、いつも以上に食べてしまっていた。


 本当に美味しかったのだが、さすがにお腹がきつい……。


「食後にコーヒーでもと思ったけど、もう少し休憩してからにしようね……」


「はい……」


 満足そうな顔をしていながらも、しかばねのように動くことをやめた二人は気怠さに身を任せて、自分たちの業の深さにただうなだれるのであった。





「前から聞こうとおもっていたのですが……」


 徐々に消化が進み、胃の重さが和らいで来た頃、ミカが口を開いた。


「マスターっていつもは楽しそうにしていますが、たまに張り詰めているというか、すごく真剣な顔になってコーヒーを作っていることがありますよね? あれって……?」


 マスターはミカの話を聞いて、細めの目を軽く見開いた。しかしそれも一瞬。すぐに普段の柔らかい表情に戻った。


「あー、そうなんだよねぇ。そういうことがあるんだよねえ。どうやって説明したらいいのかなぁ……」


「あ、あの、余計なこと聞いてますか……?」


「ううん。そういうんじゃないから全然大丈夫だよ! うーん……。そうだなぁ……。そのことを話すためには少し前置きが長くなっちゃうけど、聞いてもらえるかな?」


 やや真面目になったマスターの表情を見て、ミカは姿勢を正しながら頷いた。


 マスターは話を続ける。


「私ね。自分のことをストローのように思っているの。必要な人に必要なものを送るためのストローであれたらって……。


 人ってさ、真面目にまっすぐ生きているつもりでも、道を踏み外しちゃったり、失敗しちゃったりするでしょ? そんな時、自分だけではどうしようもなくて誰かの助けを必要としていると思うの。


 助けを必要としている人は世界中にたくさんいるから、きっとその中に美味しいコーヒーや懐かしい料理に救われる人もいるんじゃないかなぁって……。そんな人たちに私という管を通して必要なものを届けられたらいいなって気持ちでこの店をやっているんだ……。


 私じゃなきゃできないわけでも、いけないわけでもないと思う……。だけど、せっかくこのカフェに迷い込んだのだったら、できる限り良いものを届けたいなぁって日々考えているんだぁ」


 マスターはミカのことを見つつ、たまに視線を外して遠い目になる。


 ミカはそんなマスターの姿に見惚れながら、精一杯の気持ちで耳を傾けている。


「だからね。毎日真剣につくっているし、常に最高のものを届けたくて準備をしているんだけど、なかなか難しいんだぁ。体力とか精神力のこともあるのだけど、本当にいいものを作るためにはタイミングとか巡り合わせとか、そういうものが必要なんだ。むーん……。ミカちゃんが信じるかわからないけど––」


 マスターの顔から微妙に力が抜け、物憂げなような、でも喜びも含んだ表情になる。


「わたし時々ね、コーヒーの豆や茶葉が飲んで欲しそうにしているって感じることがあるんだ。『自分を美味しくしてくれ』って言われているようでさ。私の妄想かもしれないけど……。だけど、そういう時は不思議と良いものが作れるの。


 その日の湿気、豆の挽き具合、お客さんの空気感、ポットと手の馴染み具合……。全てが完璧に思えて、噛み合って、いつもよりも集中できる。そういうとき『あぁ、世界が私を通してあの人に最高のものを与えようとしている』って気持ちになって来て、とても神聖なことをしているように錯覚する。


 あとからどんなに真剣に真似しようとしても、その時みたいにはうまくできないの。まるで自分じゃなかったみたいでね。コーヒーもお茶も料理も、本当にすごくいいものができるんだ。そういう時の私は、もしかしたらいつもみたいにただ楽しんでいるっていうよりは、深く集中していて真剣に見えるのかもしれないなぁ」


 ミカは、マスターが言おうとしていることが何なのか具体的に分かるわけではなかった。しかし、どこか腑に落ちるような気がしていた。


 あの日、見知らぬ駅で降りてこのカフェに引き寄せられた時、ミカも自分の思惑を超えた何かを感じた。マスターが言いたいことは、きっとああいうことなのだろう。


 マスターはまっすぐミカを見る。


「ミカちゃんが初めてここに来た時もそうだったよ。薬草茶の注文を受けて、茶葉を缶から出す時、お茶が喜んでいるような気がした。お茶の量も、お湯から引き上げるタイミングも完璧で……、あれより美味しい薬草茶を今はきっと作れないんだ。毎回真剣に誠実に作っているつもりなんだけどね。それでもやっぱり超えられないんだ。よくわからないけど、私にとってはそういうものなの」


 ミカはその話を聞いてハッとした。


 確かにこの店の薬草茶が好きでいつも頼んでいるが、あの日あのとき初めて飲んだ薬草茶はとびきり美味しかった。ミカの気分や体調的な問題のせいでそう感じられたのだろうと推測していたが、問題はそれだけではなかったのかもしれない。


「あのとき初めて飲んだ薬草茶は本当に美味しかったです。それこそ魔法みたいに……。いつものご飯やお茶も美味しいのですが、あの日の衝撃は忘れられません。だから、マスターの言いたいこと、どこかわかる気がします……」


「うん……。うん。ありがとう。私も神とか運命とかそういうものを心から信じているわけではないんだけどね。だけど、誰かが必要としているものを必要としている時に渡せた気になる時はやっぱり嬉しいんだ。


 だから、その時がまた来ますように。その時に良いものを作れる私でありますように。その時に良い準備をしていられますように。って思いながら毎日を過ごしているんだ……。って格好いいこと言っても、いつもの私はすごく抜けているんだけどね」


 そう言うマスターの顔は晴れやかで、諦めも希望もどちらもが詰まっているようであった。そしてそれを目にしたミカの胸はなぜだか熱くなり、目からは涙が溢れそうだった。堪えながらミカは思いついた言葉を口にする。


「それってなんだか、祈りに似ていますね」


 小声ではあったが、その言葉は水面に落ちた雫のように波紋を作り、マスターの心に、そして店中に伝わっていった。


 朗らかな顔でマスターが答える。


「そうだね。私は祈るようにお茶とコーヒーを淹れて、料理を作るの。それがこの店なんだ」


 ミカはその時、この店に人が引き寄せられてくる理由がわかった気がして納得感を得た。


 そして今日のこの出来事を心の金庫の中に大切にしまっておこうと決めた。


 話がひと段落してから、お腹の様子も落ち着いて来たのでマスターが席を立って、コーヒーを淹れてきてくれるとのことだった。


 ミカはまだ先ほどの話が頭に残っていて、どこか夢見心地であった。

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