第9話

 春が本格的にやって来た。


 桜が一斉に咲き、そして夢であったかのように散っていった。


 夜はまだまだ寒さが抜け切らないが、昼間はお日様が気持ち良い。


 街を歩いてみると早咲きのツツジが花をつけている。なんて晴れやかな季節なのだろうか。


 それに対して、ミカは最近ため息が多い。来る日も来る日も同じことを考えている。ある人のことを考えてしまっている。


 あの時、ミカに質問されたマスターは刹那の逡巡ののちに答えた。


「ただの友達だよ。出会ったときからずっと友達なの。彼の言葉を借りれば『家族のような、親戚のような、兄弟のような、双子のような、ただの友達』だよ」


 それを聞いて、ミカは体から一気に力が抜けていくのを感じた。いったいどれだけ張り詰めていたのだろうか。でも、なぜ? ちょっと気になっていたことを聞いただけなのに……。


 ミカの様子を見て、マスターが意を決したように言葉を紡ぐ。


「それにね––」


 何故かその時のマスターの慈悲に満ちた顔から目が離せなくて、世界が一気にスローダウンして、ミカは自分だけ世界に取り残された感覚に陥っていった。


「彼には素敵なパートナー、一生を共にしようと決めた人もいるしね」


 そのとき初めて、ミカは自分に何かを期待する気持ちがあったことを思い知った。心の中の何物かに静かにヒビが入り、それが砕け散っていくのをただ呆然と感じ続けるしかなかったのであった。


「最近前よりはご飯が美味しくないな」


 休日のお昼、自分で作った食事を食べながらミカはひとりごとを言っていた。


 確かに食事の量も最近微妙に減っている。それもこれもあの時のせいだ。


 あの日あの後、ミカはどうやって自分の家に帰って来たのか覚えていない。


 マスターに何度もお礼を言い、余った料理や瓶に入ったピクルスをお土産にいただき、再度お礼を言った後「また来ます」と言って笑顔を作り、店を出た。


 あれから「ai's cafe」に行ってはいるが、土曜日だけは避けている。特にあの人が相談屋をする日は余計に。


 ミカは自分のことがよくわからなくなっていた。


 間違いなくあの男はミカの恩人である。本当に感謝しているし、助かっている。とはいえ、何度か会っただけの人。その人に相手がいるということを聞いただけで、何故こんなに自分は落ち込んでいるのだろうか。何故残念に思っているのだろうか。


 誰にも言えなかった悩みを聞いてもらえたから? 誰にも理解されないと思っていた不安をわかってもらえたから? 寂しかったから? 親にも友達にも恋人にも見せたことがないくらいみっともなく泣いても受け止めてくれたから? あの瞳が心に突き刺さったから? 好きになってしまったから?


 何度考えてもここで止まってしまう。気になっているのは間違いないのだが本当に好きなのだろうか。もうよくわからない。


 でも、もう逃げるのは疲れた。こうなったら確かめるしか無い。自分がどんな状態なのかを。


 そう考えて、ミカはこのあと「ai's cafe」に向かい、あの人と二人で話ができる時間の予約を取ろうと、そう決意するのであった。





 とある日の夜、閉店時間の過ぎた喫茶店にて。


「ねぇ、もしかして気付いていた?」


「うーん。途中からちょっと予感はあったかな。というか俺が迂闊だったよ」


「ううん。私が強引に話進めちゃったからだよね。ごめん」


「いや、いいよ。あのとき避けてもこういう状態になっていたかもしれないし」


「うん……」


「そっちはそんなに気にはせず、いつも通りやってくれればいいよ」


「わかった」


 ただの喫茶店の店主とはいえ勉強熱心なマスター、抵抗とか転移とか、そういう知識はそれなりに持っていた。実際にお客さんとも関わっているしね。


「わかっていると思うけど、片方だけの問題とも言えないし、俺も久しぶりに先輩のところでも行こうかなぁ……。また何度か箱庭作って話してくるよ」


「うん」


「そんな顔するなって。いつか起きる問題だったのかもしれないよ。それがこのタイミングで起きたんだからさ。良いとか悪いとかっていうよりは、それが因果とか縁ってもんじゃないか。だからいつも通り、俺ららしく、このカフェらしく、そして君らしく進もう。きっとミカちゃんも前に進んで行けるよ」


「うん……。そうだよね。そうと決まれば気持ち入れ直して頑張らないとね!」


「うん」


 静かな間ののち、男が再度口を開く。


「世界がそうなることを望んでいるのかもしれないって思う時があるだろ? 俺にとっては今がその時だよ。これまでもそういう時は何度もあった。そして、過ぎ去ったあとに考えてみると、その時はいつも最良だった。だから今回もきっとそうだよ。身を任せて乗り切ろう!」


「うん!」


「あ、でも、忙しくなりそうだから、落ち着くまでは新メニュー開発とか一人でやってね」


「えぇ! 誰かとこそこそ味見しながらやるから楽しいのに……。でも、そうだね。それがあなたにとっての責任だもんね」


「おう。相談を受けたからにはな」


「わかったよ。だけど、次回のお昼ご飯とお菓子は固定だからねぇー」


「おい、やっぱり味見させる気じゃねぇかよ!」


「まぁまぁ、良いではありませぬかー」


「おいっ」


「良いではありませぬかー」


 そんなこんなでまた一人、このカフェの空気に当てられたことがきっかけで、自分だけの人生の道を探求しようとする人がさまよってしまったのでした。


 そして、落ち込んだミカがまた立ち直って、今度こそ本当に自分の道を開拓し始めるのはまだ少し先の話になるのでした。

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