第12話

 はてさてと、二人の馴れ初めを改めて頭の中にインストールした私は「誰かに聞かせるわけでもないのに誇張して思い返しちゃったなぁ」と思いながらスリランカカレーを待っている。


 凪とあやめちゃんは私にも慣れたもので、私の精神がこの場にないと悟るとこちらには一瞥もくれずに二人で話をしていた。


 いやぁ、凪もあやめちゃんも自分の世界に閉じこもって精神が飛んでいることたくさんあるのに冷たいなぁ……。


「あ、沙絵ちゃん帰って来たんだね」


「おかえりー」


「ただいまー。カレーそろそろかな?」


 そう言って店内を見回してみると先ほどの店主さんと目があう。あれは食べ物を持って来てくれる顔だ!


 その気配に気づいたのか二人も話を止め、すっとした姿勢で食べ物を待っている。


 カレーが運ばれてくる。

 

 私は目の前にやってきた三枚の大皿の様子に息を飲んだ。


 凪はフィッシュカレーとロティのセット。私とあやめちゃんはチキンカレーとライスのセット。


 話には聞いていたものの、一つの大皿にこれだけのものが乗っていると迫力がある。


 ライスにチキンカレーと豆のカレー、アラ・バドゥマと呼ばれる付け合せのジャガイモ炒め、水菜のサラダ、豆粉のパリパリせんべい、そしてココナッツを砕いて作った辛いふりかけ……。


 スリランカでは、これらの複数の料理を個別にも味わいながら、少しずつ混ぜていって味のハーモニーを楽しむらしい。


 なんと新鮮で、なんと心踊る食事だろう。


 でも、何から手をつけていいのかわからない……。


 私とあやめちゃんが途方に暮れていると凪がスプーンを持ちながら言った。


「好きなものを好きな配分で食べればいいんだよ、フィーリングに合わせてさ。好みの味を自分で探索していく楽しみも味わえるなんて、すごく贅沢な食事だよね」


 その言葉を聞いて、私の肩から力が抜けていった気がした。


「もう、迷わない!」


 はっきりとそう口にして、悲壮な覚悟を胸に私はカレーを貪り始めた。





 十五分後、私の目の前には空になった大皿とアイススパイスティーがあった。


 カレーは非常に美味しかった。特にジャガイモ炒めと水菜サラダと豆のカレーの組み合わせが絶妙で、スパイシーだけどさっぱりと食を進めることができた。


 水菜のサラダにはレモンがふんだんに使われていて、とても良いアクセントになっていた。これは研究して真似しないと……。


 カレーにはココナッツミルクとココナッツオイルが使われているっていう話だったから強い匂いがするかもしれないと思ったけれど、私はあまり気にならなかった。あやめちゃんも違和感を抱かなかったらしい。これならスパイスの配分次第でお店でも出せる料理にできる。だけどココナッツのふりかけ––たしかポル・サンボーラ––はお客さんによっては気になるかもしれない……。これは別盛りにして、気に入った人にだけかけてもらうようにした方がいいかもしれない。でも、そうすると味の深みが薄まるような気もするなぁ。だけど、そのあたりは凪に任せておけば代替案を用意してくれるに違いない。そう考えると、やっぱり私の役目は和え物とか付け合せ、そしてサラダの探求になるはず……。となると、やっぱりあの水菜のサラダ、あれがキーになるなぁ。レモンを使うのはいいけれど、それだけだと要素的に足りない気がする。それに期間中ずっと水菜のサラダだけという訳にはいかないし、もう少しバリエーションを作らないといけない。本場の料理からは外れてきちゃうだろうけど、日本の夏野菜をうまく使って、料理を再構成できればうちの店らしいものができるはず。でもやっぱりそのためにはもっとスリランカ料理の勉強をして、エッセンスが何かを掴まないと。あ、でもちょっと待って……。この感じ、このタイミング。凪もうちの夏期メニューにスリランカカレーがいいかもしれないと思って私たちを連れてきているはずだから、いろんな情報をすでにまとめているかもしれない。っていうかそうだよね。料理の説明とか、どの料理に何が入っているとか、さっき説明してくれたのは凪だもの。だから、色々と調査済みのはず。こうなることを見越して、やっておいてくれたんだね。……。あ、いや違うか。きっといつものやつだね。興味持ったから調べていくうちに夢中になっちゃったんだ。凪にはよくあること。何年一緒にいると思っているのよ。もうわたしったらぁ。


 そんなことを考えながら顔を上げると、目の前には凪とあやめちゃん。


 あやめちゃんはヌワラエリアのアイスティーをじっと見つめたり、口に含んだりを繰り返している。たしか、すごく香り高くて、アイスなのに芳醇さが広がる味だってさっき言っていた気がする。


 あぁ、あの感じは頭の中の世界に入っちゃっているなぁ……。


 余程安心できる人の前でしか見せないみたいだけど、こういう時のあやめちゃんはちょっと危ない人みたいなんだよなぁ。半ば恍惚としちゃっているというか。うっとり感が滲み出ちゃっている。出会った時はこんな人だと思わなかったよなぁ。


 でも、私と凪がいて安心しているんだろうなぁ。それはとっても嬉しい!


 凪の方は……。あ、こっちも自分の世界に入っちゃっているなぁ。


 左手の人差し指を口元に当てながら真剣さをまとった表情。いつものスタイル、深く考えを巡らせている時の癖だ。


 こうなると時間がかかる。でも大丈夫。考えが煮詰まってくると、視点を変えるために顔を上げて、周りを見回す癖も凪にはある。そういうときに話しかけるとしっかり反応があるから、こちらは待っていさえすれば良い。


 しばしの時間があって、凪が顔を上げた。私と凪の目が合う。


 視線を外さずにいると、凪が口を開く。


「カレーはどうだった?」


「すごくよかったよ。バランスを考えたら、うちでも出せると思う。夏期メニューにしよう!」


「お、それはよかった! でもいくつか考えなきゃいけないことがあるね。付け合せのこととかさ」


「うん。そうだね。そっちは私が頑張るよ。だから、今回もカレーの方はお願いね」


「うん。そのつもりだよ。だからまだ春も終わらないのにこうやってやってきているわけだし」


 そう言って、凪はまた人差し指を口元に当てながら、今度は紅茶の入ったカップを眺め始めた。





 「ai's cafe」のメニューには凪が開発したものがいくつもある。特にスパイス料理と煮込み料理が多く、彼特有の風味がある。


 凪の料理がカフェのメニューになるまでには流れがある。


 まず、凪が自宅かカフェの厨房で試作品を作り、レシピの形にしてから私に受け渡す。私は凪につくり方を教えてもらいながら、私に合うようにレシピを微妙に改変していく。


 その調整が終わったら、私はレシピを自分のものにするために何度も練習をする。


 そうしていくうちに私がメニューのバリエーションを思いつくので、違う野菜を試したり、食材の組み合わせを変えてみたりする。そこまで行ったら、メニューの完成だ。お店にやっと出せるようになる。


 私の経験上、メニューの具材は変えても、スパイスの配分とスープストックと料理の手順には手を加えない方がいい。その辺りに手を出すと、料理のバランスが破綻してゆく。


 同じ具材、同じレシピで料理を作っても、私が作るものと凪が作るものでは味が全然違う。


 なんと言うか、凪が作る料理というのは全てが渾然一体となっているのだ。


 お皿の中に入っている全ての要素が完全に溶け合っていて、調和している。一口の中に全部が入っている気がする。具材の味も、スパイスの風味も、料理人の丁寧さも。


 一方で、私の料理は具材の味が際立つ。凪のようにまとまった味にはならないが、素材の味が引き立ちやすい。


 アメリカは昔、『人種の坩堝』と呼ばれていたが、今は『人種のサラダボウル』という方が正しい。という話を聞いたことがある。その例えを借りるのならば凪の料理は坩堝に近くて、私の料理はサラダボウルに近い。


 どちらが良いとかではなくて、そういう特徴があるんだよ。とは凪の言葉である。


 そんな事情で、凪が作ったレシピを私用に改変しなくてはならない。引き立ちすぎたスパイスを控えめに、具材を少し大きめに、それに合わせて加熱時間を増減……。などなど。


 一応凪もこのことを考慮に入れてレシピを持ってきてくれるのだが、料理は水物。実際に作ってみて、食べてみないとどうなるかは分からない。


 最近だと、凪が考えた『ごろごろ野菜のポトフ』は傑作だった。私の技術が活きるように考えてくれたレシピで、春の寒さに凍えるお客さんたちに好評だった。


 私は凪のようには料理を作れない。でも、そんな私に凪は言ってくれる。


「緑川の料理の具材は、みんないきいきとしている気がする。そういう風に作れるからこそ、このカフェに助けられる人がたくさんいるんだよ」


 この言葉に私は何度も救われた。





「ねぇ、やっぱりこのカレーには紅茶がよく合うよね。紅茶に関しては、またあやめちゃんの力を借りたいんだけど、良いかな?」


「いいと思うよ。最近は色々と落ち着いているみたいだしね。それに『沙絵ちゃんの力になりたい』ってよく言っているよ」


 そんな話をしながらあやめちゃんの方を見てみると、さっき注文したヌワラエリア(ホット)を楽しみながら、嬉しそうな顔を浮かべている。





 凪が料理を作る時、具材に対してまっすぐ丁寧に向き合っているように見える。でも、実際は違う。凪が向き合っているのは、成分とか温度とか料理の性状とか、そういう目に見えないものたちだ。


 凪は基本的に抽象的なものに対するのが得意で、そういう世界に生きている。


 考えてみれば、凪の仕事の分子生物学だって、具体物とはいえども想像力の世界の学問に思えるし、心なんて抽象物の最たるものだと思う。


 もちろん凪は具体物の世界を軽視しているわけではないと思うけど、場の空気感とか話の流れとか、リズムとか、価値観とか……。そういうものはみんな実在物ではないわけで、私の目にははっきり見えてこない。


 対して私は、『モノ』に興味があると思う。


 カフェの店主なんて仕事をしているのにも、もちろん色々な理由があるのだと思うけど、結局人とモノをつないだり、人と人がつながったりするのが好きだからなのだ。


 凪がカフェの店主になったら、彼は彼でうまくやるのかもしれない。だけど、きっと今の「ai's cafe」のようにはならなかっただろう。だって、凪と私とでは問題に対するアプローチが違うのだから。


 凪に協力してもらいながらカフェを始めた頃、私はすごく弱った。


 自分のカフェを持ったものの、うまく出来ない。思ったようにいかない。想像していたようにならない。改善したくても、何に手をつけたらいいのかわからない。夢の実現が見えて来ているはずなのに前に進めない。そんな感覚に打ちのめされそうになって行った。


 そんなとき、凪が連れて来たのがあやめちゃんだ。


 最初の頃はお互いに遠慮があったが、凪抜きの二人で遊ぶようになってから私たちは仲良くなった。


 ある時、お店がうまくいかない悩みを相談しているとあやめちゃんは言った。


「沙絵ちゃん。私ね、生活も仕事も全部自己表現の一環だと思っているの。毎日何時に起きて、何を食べて、いつ家を出るのか。どんな服を着るのか。そしてどんな仕事をして、何に生きがいを持って、毎日を過ごすのか。

 

 全部、私が選んで表現しているものなんだって思っている。恋人に凪を選んだのもそうだよ。自分だけの問題ではないのだけれど、でも私らしく自分を表現するためには凪と過ごすことが必要だったの。それが私のかたちだって確信したんだ。


 沙絵ちゃんにとってはカフェもそうなんじゃないかな? 沙絵ちゃんの夢とか理想とか、沙絵ちゃん自身とか……。そういうものを表現するためにカフェをやっているんだよね?


 美味しいもの、格好いい椅子。お金。小ぎれいなメニュー。もちろん全部大事なものだよね。私には経営のことはわからないから、ただの綺麗事を言っているだけなのかもしれない。


 だけど、モノも生活も行動も、沙絵ちゃんの心の中にあるものに対応していないのだとしたら、それは沙絵ちゃんのやりたいものにならないと思うな」


 私は衝撃を受けた。


 生活も、仕事も、自己表現の一環?


 恋人に誰を選ぶかも自己表現?


 そんなことを考えたこともなかった。


 でも、不思議と腑に落ちた。


 私のカフェには、私がいなかった。


 素敵なカップ、素敵なメニュー。それらのものをとにかく揃えることに必死だった。


 カフェの完成度を上げることだけしか考えていなかった。


 自分のカフェにどこかで冷たさを感じていたのはそのせいだった。


 私のカフェには立派なソーサーも、コーヒーも、メニューもあるのかもしれない。だけど、それらを扱う志が抜けている。だからみんなバラバラなんだ。心がこもっていなかった。


 上辺だけの統一感だけを追求しても意味はなかった。


 中心に据えられるべきものが空っぽだったんだから。


 そして私は一時お店を閉めた。


 いろんな人に頭を下げて、お金も借りて、助けを求めた。


 だけど、全然苦しくなかった。


 だって私は自分の夢を、理想を表現しようとしているのだから。


 そのとき、強く地面を踏みしめていたのだから。


 そして、あやめちゃんは言った。『人』を選ぶのも自己表現だって。


 だから私は決断した。


 心に決めた。


 凪も私のカフェに必要だ。レシピを相談するとか、試食をしてもらうとかだけじゃなくて、もっと本格的に参加してもらわないと……。私だけじゃ足りない。私だけじゃ表現しきれない。


 彼にはやってもらいたいことがある。飲み物や食べ物を通してだけじゃなくて、もっと直接的に人を助けるための活動をこの店でやってもらいたい。


 たまにでもいい。


 数ヶ月に一回とか、もっと頻度が低くてもいい。でも、やってもらうことが必要不可欠に思える。


 凪の人助けも私のお店でしてほしい。私の理想の表現の一部になってほしい。


 こうして「ai's cafe」には相談屋ができ、そして助けを必要としている人が度々集まるようになってきた。


 あやめちゃんのおかげだ。





 凪の話によるとあやめちゃんには【象る】能力があるらしい。


 凪の直感を基にした占いでは、人が持つ才能が動詞の形で表現される。そして大抵の場合、その能力が働きやすい領域が限定される。抽象か具体か。それが大きな壁らしい。


 だけどあやめちゃんは違う。凪が占ってきた人の中で唯一、抽象と具体の壁がない。


 自分のイメージを象った生活を送れる。自分の考えに合ったものを配置できる。抽象的な概念を具体的な物に還元できる。あやめちゃんはそんなことが得意なのだという。


 とは言っても、レアではあるけど力が大きいわけじゃない。誰にも出来ないことをやり遂げられるわけじゃない。


 凪は「希少なバイリンガル」と言っていた。助かるけど、それだけでなんでも解決できるわけではない。凪らしい表現だ。


 そして、希少ゆえに困ることも多い、とも言っていた。


 これを言われた時にはよくわからなかったけど、今ならその意味がわかる。あやめちゃんがたまに私や凪よりもぶっ飛んだ行動をするのは、きっとこの性質に起因している。


 そんなあやめちゃんが、私と凪の関係にもたらしたものはとてつもなく大きい。


 いつも抽象的な世界に生きていて、浮世的な空気も持っている凪。


 具体的な物を扱うのが得意だけど、そういうものにばかり目が移ってしまって大局的な感覚に欠ける私。


 そんな二人を繋いでくれるあやめちゃん。


 全ての歯車がかっちりとハマった音がして、私たちは人生を前へ前へと進めることができるようになった。





 私は目の前の凪とあやめちゃんを見る。


 あやめちゃんも紅茶を味わい終えて、まっすぐと私の方を向いている。


 凪も考え事を終えて、いつもの柔らかい目をしている。


 私はこの二人が好きだ。


 三人でいるこの時間が好きだ。


 二人とも私の幼馴染みたい。家族みたい。恋人みたい。お兄ちゃんみたい。お姉ちゃんみたい。弟みたい。妹みたい。


 なーんてね。

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