第11話

 突然だが、私の知るところによると若苗凪は人生で一度だけ一目惚れしたことがある。


 まだ私たちが二十歳だった頃、凪はルネ・ラリックという芸術家の展覧会に行った。ルネ・ラリックが作成した工芸品の数々、特に生物の意匠を象った金細工やガラス工芸品に胸を打たれながら凪が歩を進めて行くと、目の醒めるような青色をした花瓶が目に飛び込んで来た。


 その花瓶の色、透明感、そして丸っぽい形に感激して、凪は駆け寄って行った。


 花瓶に目を向けながらも、ふと視線を外して反対側から同じ花瓶を鑑賞している人を見た時、凪の頭に衝撃が走り、心奪われちゃったんだって。目が合ったとか言っていたけど、それが本当かは分からない。


 そのあと、どんな作品が展示されていたかは凪の記憶にはない。その女の人と歩調を合わせながら進んで行くというセミストーカー行為をしてはみたものの、所詮は同じ展覧会に来て見かけただけの人。ナンパまがいの真似をして声をかけるわけにもいかず、諦めたんだって。


 それから十年経つうちに、凪は恋人を作ったり別れたり。何度か壮絶な出来事がありつつも概ね平和に過ごしてきた。一目惚れをしたという記憶を持ってはいても、それを思い出す機会なんてなくて、忘れたまま日常を送っていった。





 ある時、数少ない親しい友人が結婚することになって、凪にスピーチを頼んで来た。かけがえのない友達のために凪は快諾して、普段は避けている式典にも参加することにした。


 当日、受付をする前にウェルカムドリンクを飲んで旧友たちと話をしている時、女性が一人、ふらりと現れた。


 あの時と同じ赤紫色のドレス、長くて黒い髪、知的なメガネ、紅をさした唇、どこか控えめな佇まい。見た瞬間に十年前にルネ・ラリック展で見たあの女の子、凪が一目惚れした女の子だってわかったんだってさ。


 それだけ月日が経っていて、しかも結婚式なんていうところに出るために着飾っているんだから分かるはずなんてないのに、その時は間違いないって思っちゃったんだって。


 衝動的に話しかけに行こうと思ったけど、今日の主役は新郎新婦。とりあえずは自分の役目を果たさなきゃって、気持ちを押し込めて新郎の友達や親族達と凪は社交した。





 大切な友人の一生に一度の大切な式。そのうちの一角を任された凪は、きっといつもの飄々とした態度を崩さなかった。でも内心はその気持ちと責任を真正面から受け取って、深く集中し、張り詰めていた。だから、式で出された食事はほとんど食べられなかったんだって。


 そして、結婚式は粛々と進んで行って、凪の番が来た。凪のスピーチが終われば、あとは新郎新婦が両親に感謝の言葉を述べて退場して行く。つまり、新郎の友人である凪の話が結婚式のトリみたいなものだ。


 凪は名前を呼ばれて、前に出る。


 列席者の視線が集中する。


 そして、凪が口を開く……。


 これは後から他の人に聞いた話だけど、そのときの凪のスピーチは凄まじいものだったらしい。


 遠くから響いてくるようなあの不思議な声、独特のリズム感、そして選び抜かれた言葉……。それらを駆使して、会場の人々にぶつけた。


 たった五分ほどのスピーチ中に新郎が二回も涙を流したって聞いた。


 そしてスピーチが終わった時、凪と新郎のことなどほとんど知らない人たちでさえも、二人の友情がかけがえないものであると確信した。


 新婦友人の涙ぐましい手紙よりも、新郎新婦の両親の実感のこもったスピーチよりも、なぜ彼のスピーチがこの式の最後に行われたのかをそこにいた人たちは理解した。


 みんなが拍手をして、みんなの胸が熱くなった。……らしい。


 いったい何をしてるんだか……。


 凪はこういう時、加減を知らない。普通の人だったらある程度のスピーチができたらそれで良いと思うだろうし、無難に済ませられるなら御の字だと考えるだろう。


 だけど、凪は違う。「自分が頼まれたのだから、自分にしかできないものを全力でやる」と考えて、彼の悪魔的な才能と能力を全て注ぎ込む。その結果完成したものは、多くの人が「良いスピーチ」と考えるものよりも二段階は次元が上だっただろう。


 そもそも、凪は空気を作るのがうまい。スピーチをさせたら右に出るものはいない。頼まれすぎて大変だから式典には出ないことにしている程なのだ。


 さてさて、スピーチが終わった凪はやっとその責任感から解放されたけど、周りの人にも気を遣っていたのでグッタリしていた。


 だけど、やっと自分のことに集中できる時間が来たというわけ。


 式が終わって、会場を出る時間になった頃、凪は気になっていたあの女の人のところに歩いて行った。今日を逃したらもう会えないかもしれない。もう話す機会なんてないかもしれない。そう考えて、覚悟を持って歩いて行った。


 そんな凪の姿を始めからずっと目で追っていた女性の方も覚悟を決めて、凪を待つ。


 凪が女性の前に立って口を開こうとした時、女性の声が聞こえた。


「あの! 十年くらい前にルネ・ラリックの展覧会に行ったことはありませんか?」


 あの冷静な凪も流石に面食らって、目を三十五倍くらいに見開いて、そして一度ゆっくりと息を吐いてから答えた。


「僕も同じことをあなたに聞こうと思っていたところです……」


 凪の声には震えが混じっていた。そしてもう一度、深呼吸してから話を続ける。


「はい。東京のルネ・ラリック展に行ったことがあります。そこで、青い花瓶越しに女性を見ました。長い黒髪で、メガネをかけていて、今日のあなたのように鈍い赤紫色の服を着ていました」


 女性も凪も目に涙を浮かべて笑いながら見つめ合う。


 あぁ二人はここでやっと会うことができたのだ。


 凪が続けて言葉を紡ぐ。


「さっきスピーチをしたのでご存知かもしれませんが、僕は若苗凪と申します。良かったらこのあと二次会など行かずに二人でお話ししませんか? 梅紫あやめさん」


 こんな感じで、実はお互いに一目惚れしあっていた二人は十年越しに出会って、そしてそれ以来もう離れることはなかったのだ。

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