第13話
春の陽気にも久しく会わず、曇りや雨の日が多くなってきた。
梅雨の季節だ。
自称恋愛中、名実ともに会社員の沼田ミカは、今日も仕事を終え、傘を片手に歩いている。
最近は日も長くなってきた。もう七時前だというのに明るさが残っている。とは言っても、空には雲がかかり、霧雨が降っているから暗さがある。
雨の日の日暮れ直前、背景は灰色だ。そんな中で紫陽花の赤紫が目立つ。ヘクソカズラの黒紫色の花でさえもこの景色には映える。
どんよりとしているようでも花たちは夏への希望を失ってはいない。
ミカは「今日こそあの人に会えるかな」と思いながらいつもの道を歩いてゆく。
先月、覚悟を決めたミカは相談屋の予約をした。
あの男とぶつかってみようと、気持ちを整えて準備していたが、一週間前から興奮して夜眠れなくなってしまった。
やっとの思いで一週間仕事を乗り切ったあと、金曜の夜には疲弊して発熱してしまった。這ってでも「ai's cafe」に行きたかったが、その想いは叶わず一日ベッドの上で過ごす羽目になってしまった。
その後、回復してから直ちに予約をしたが、次に空きがあるのは一ヶ月後。今度こそ体調も気持ちもしっかり調えようと思い至ってから堅実に毎日を過ごしてきた。
ついに来週にはあの風変わりでありつつも優しい男と二人で話をすることができる。そう考えるとミカの胸は疼いて息苦しい。でも、どこか充実しているような気がする。
少し前までは、まだ見ぬ運命の人のこととか、自分の未来のビジョンだとか、人生の仕事のことなど細かいことばかり考え込んでいた。だけど、最近はあの人のことばかり……。やっぱりこれは恋なのね。と思い込んで、一日一日を数え上げることが楽しみの毎日。
時間と予定にゆとりがあるときは今日のように「ai's cafe」に行って、美味しい料理とお茶を味わいながら、あわよくばあの人を見かけられますようにと祈って至福のひとときを過ごす。それが日課になっていた。
その行動が功を奏したのか、この一ヶ月の間で三回、あの男を見かけることが出来た。でも大抵の場合、閉店時間の間際にやって来て、一息ついた後は店の奥へと行ってしまう。
そしてすぐにマスターが「閉店じかんですー」と言って、お店を閉め始めるのでミカは帰るしかない。ちょっぴり残念だが、見かけられただけでも嬉しい。だからこれでいい。
「あぁ、今日はどうかなぁ」
そう呟きながら歩くミカの顔には意外にも輝きが薄く、疲れが張り付いてきている。
◆
今日の「ai's cafe」でのディナーは『赤しそのジェノベーゼとアスパラガスのポタージュ』にした。どちらも不思議な甘みと爽やかな苦味、そしてどこかでスパイシーな香りが漂う一品だった。
梅雨の空気のおかげで身体中の液体が滞っているような感覚が体を支配しているが、食事後は血液サラサラ、頭もすっきりして元気いっぱいになったと錯覚するほど血の巡りが良くなったようだった。
「今日もおいしかった……」
ミカは今日もまた閉店時間まで仕事の資料を整理したり、雑誌を眺めたりしながら、あの怪しい男がやってくるのを待っている。
閉店時間が近づいて来た頃、一人の女性が店を訪れた。
女性は、すらっとしたスタイル、きちんとした着こなし、整った黒髪、控えめに漂う大人の香り……。やや地味ではあったが、和の空気を纏う美人だった。
和の女は店に入ってくると、まっすぐにマスターの方へと向かって行った。
「沙絵ちゃん! やほー。来ちゃったよー!」
「あ、あやめちゃん! ようこそ! やほー」
なにやらマスターと親しげに話している。
マスターがあんなに気安く話しているのを見るのは、あの男が相手のとき以外では初めてだ。和の女はマスターに何かを渡して、話を続けている。
やや時間が経って、閉店の時間がきた。今日はあの人に会えなかった。
閉店時間になったというのにあの女の人は帰る気配がない。マスターの友達だろうか。
あの空気感……、あのノリ……、どこかで感じたことがあるような気がするけど思い出せない……。気のせいかな?
そんなことを考えているうちにミカは会計をして、そして「結局今日も会えなかったんだなぁ」と思い出して、寂しげな様子で店を後にした。
◆
次の次の日、日曜日。ミカは気分転換に買い物に来ていた。
あんなことがあってから、しばらくはショッピングからも足が遠のいてしまったが、今ではすっかり立ち直って服にアクセサリーにと楽しむ余裕も生まれて来た。
そんなこんなで買い物も終わり、家に帰ろうと顔をあげたとき、人混みの先の先、あの人が立っていた。しかも、隣にはどうやら女性が腕に絡みついて、親しげな様子で話している。
ミカは一瞬目を逸らそうとしたが、どこかで見たことのある女性の姿に興味が湧いてきた。
一歩、二歩、三歩と近づいて見てみると、そこにいたのは一昨日「ai's cafe」で見た女。あの和の空気漂う不思議な女性だった。
全ての辻褄が合った。
なぜあの女性があんなにもマスターと親しげだったのか。
なぜあの女性とマスターが作る空気感に覚えがあったのか。
なぜあの女性が閉店時間になっても帰らずにマスターと話をしていたのか。
全て分かった。
なぜなら、彼女こそがあの人の、あの尊敬すべき男のパートナーだからだ。
それ以外にない。
思い至った瞬間、ミカはその場から飛び出した。
走って走って、また走った。
いま自分がいる場所がどこなのかわからない。
でも、わからなくてもいい。
携帯だって持っているし、お金もある。困ったらタクシーでも何にでも乗って帰れる。
だけど、気持ちはどうにも止まらない。
どうにも変えられない。
「裏切りだ、裏切りだ!」
いつの間にかミカはそんな言葉を繰り返し口に出していた。
そうだ。裏切りだ。
あんなに私の気持ちを理解して、包んでくれたのに……。
もしかしたら、あの人だったら私の気持ちにだって気づいているかもしれない。
それなのに恋人とあんなに楽しそうに買い物をするなんて!
許せない。
裏切りだ。
ミカはそう何度も繰り返した。
繰り返しながら、走っているうちに息が切れてきた。
もう進めない。
立ち止まり、見覚えのない街並みに目を配っているうちに頭の中も整理されて行く……。
そう、本当は分かっている。
本当はあの人は悪くない
あの女の人も悪くない。
私が道化なだけだ。
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