きっとここにしかない喫茶店で

藤花スイ

プロローグ:薬草茶の女の子

第1話

 沼田ミカは二十二歳。短大を卒業して、第一志望の会社に就職。社会人になってから二人目の恋人とも順調で平穏な毎日を過ごしていた。三ヶ月前までは。


 夏の終わりの少し前、ひぐらしが鳴き始めて夕暮れに寂しさを感じるようになった頃、突然彼から別れを告げられた。結婚も考えた彼だったからさすがにとても凹んだが、気丈な友人の励ましを受けてなんとか前向きに秋を迎えようとしていた。


 恋が実り損ねても自分を助けてくれる人の存在に穏やかさを感じて、また新しい恋を探そうと奮起、ひとり買い物に出かけてみた。彼と二人でよく行ったお店に足を踏み入れるにはかすかな勇気が必要だったが、もう終わったことだと自分に言い聞かせて歩き出した。


 そんなこんなで買い物が終わって家に向かおうと顔をあげたとき、人混みの先に件の彼が立っていた。しかも、隣にはどうやら女性が腕に絡みついて、和やかな雰囲気を作っている。


 ミカは一瞬で目をそらし、こぼれそうな涙をこらえて奥歯を噛み締めた。


「ここで逃げたら、次の恋に向かえない」


 心の中でそんなことを呟いて、彼にお別れを告げながら細めの目を見開いて、見たくない現実を受け入れようとした。


 しかし彼女の現実は思った以上に厳しくて、彼の隣にいたのはあの友人。ミカの愚痴や弱音を穏やかに聞いて励ましてくれた親友。恋人なんかいなくても、あの子さえ居れば孤独じゃないって言い聞かせていたはずだから、押し込めていた気持ちが溢れ出し、落ちた雫が地面を黒く陰らせた。


 秋の始まりを告げる冷たい風がミカの胸に突き刺さり、手足の温もりを奪い去って行った。





 大切な恋人も、信頼していた友人も同時に失くしてしまったが、元来明るい性格のミカ。また前向きになって当分は仕事に熱中しようと心に決めていた。


 そんな矢先、こちらもまた突然に会社で転属を命じられた。入社以来の馴染んだ仕事を離れ、違う部署に。


 新しい仕事、新しい人間関係。嫌味ばかり言ってくる上司、どこか自分に冷たい同僚たち、年上のおばさま方、いやお姉様方。一週間経っても、二週間経っても変わらず、ミカは馴れ合うことを諦めた。


 そんな状態が一ヶ月も続くとミカは段々とご飯を食べられなくなってきた。


 あんなに好きだったスモークサーモンのベーグルサンドを食べても味がしない。美味しいとも思えずに、ただ「私の人生はどうしちゃったの」と頭の中で繰り返し続けていた。


 時には贅沢しなくちゃと奮発して、焼肉をたらふく食べてみたけれど、哀れなことに戻してしまって、気づいたらまた涙が滲み出してきた。


 次第に休日も外出する気にならなくなってきて、塞ぎ込むことが最近多い。実家の母からの電話には明るい声を出してごまかしているけれど、それもそろそろ限界か。作り笑顔が張り付いて、顔に力が入らない。





 秋が本格的に深まって、周囲の木々が紅葉し始めた。


 自分のふがいなさに苛立って、何を信じればいいのか分からなくなって、彷徨い続けているうちにミカは何故だか心底腹が立ってきた。


「自分を裏切った奴らのせいで、自分を苛立たせる奴らの影響で、なんで私がこんな目に合わなくちゃいけないんだ!」


 眠れない夜が終わり、寝不足の朝が始まった。久しぶりの素早さで支度を終えて、自宅を飛び出し、地下鉄に飛び乗った。


 ミカは気にもとめなかったが、その日は暖かい秋晴れの土曜日だった。





 イライラでぐるぐるとした頭のまま、電車を降り、改札をくぐってみるとそこは知らない土地だった。


「ここどこ?」


 いつのまにか口に出していたが、運良く誰も聞いていなかった。


 勢いよく飛び出してはみたものの、今更出かける目的などミカにはない。だけれど、ここに来てしまったのだから、このまま散歩でもしてみようと靴の赴くままに体を運んでみることにした。


 見知らぬ駅の商店街、その奥の奥へ。体が前に進んでゆく。


 ふと立ち止まると、紅葉したヤマウルシ。真っ赤に色づいて「きれいだなぁ」って思いが浮かんできた。植物を美しいと思う心がまだ残っていたことに気がついて、ミカはほんの少し安心した。


 ヤマウルシの木から目を離して道の先をみると、木造の家のような喫茶店。「ai's cafe」と書いてある。



 勢いに任せて入ってみると、そこにはどこか懐かしい空間が広がっていた。


「いらっしゃいませ」


 店のカウンターの奥に人懐っこい笑顔を浮かべた女性がいた。店員は一人しかいない。名札をつけていたので見てみると『マスター』と書いてあった。きっとこの店の主人なのだろう。目に輝きがある。


 まだ午前の早い時間だ。他に女性が二人、カウンターに座っていた。


 ミカは外が見えるテーブル席に腰を下ろして、ほっと一息、体をゆるませた。



 メニューを見てみると品数は多くなかった。でも珈琲に紅茶、ハーブティーやジュース、薬草茶なんていうのもある。ちょっと変わっているが、あのマスターの空気に馴染んでいる気がした。


「薬草茶を一つお願いします」


 ミカがそう声をかけると、マスターはころころした笑顔を浮かべてこちらにやってきた。


「いまのお時間だと、お茶菓子に水羊羹かどら焼きがつくのですがどちらがいいですか?」


 なんと。思いがけぬサービスにミカは笑顔を浮かべて「水羊羹でお願いします」と言っていた。お茶菓子代も料金に含まれているとは思いつかずに。



 お茶が出てくるのを待っている間、ミカは店の中を見回していた。カウンターの奥に飾られている様々なカップとソーサー、さり気なく置かれた小物たち、珈琲の香ばしさの中に混じったお茶やお菓子の香り。それらはなんとなく心優しい。どうやらミカの気分に合っていたようだ。


 マスターはひたすらにやわらかだ。なにか失敗したのか、さっきから「あわあわ」と言っているような気がするが、気にしない。きっとそういうところも含めてこのカフェの魅力なのだろう。


 入り口の方に目をやると、何やら張り紙が。


『相談受け付けます。悩み事や相談事、誰かに聞いてほしいことがある方はご予約を』


 どこかの占い師か、カウンセラーだろうか。でも、なんでカフェの入り口に?


 そんなことを考えているうちに、あのマスターがニコニコした顔でお盆を持ってきた。


「薬草茶とお茶請けでございます」


 マスターの声には不思議な響きがある。声と立ち昇る湯気のハーモニーにミカの胸は高鳴った。


 薬草茶を頼んでおきながら、毒々しいものが運ばれてきたらどうしようかと若干弱気になっていたミカはお茶の色を見て安心した。色は薄い黄色とか茶色、微妙に濁ってはいるものの、薄いほうじ茶に似た色だ。香りには漢方に近い様子が含まれている。しかし、きつくはなく、優しい甘やかさを漂わせている。昔飲んだ中国茶の香りに近いような……。


 ミカは火傷しないように気をつけながら、薬草茶を口に含んでみた。


「おいしい……」


 またいつの間にか声となっていたことを気にもとめず、ミカはお茶をゆっくりと楽しみ出した。


 まるで体がこれを求めていたかのような不思議な感覚に包まれながら、ミカは数ヶ月ぶりに腹の底から湧き出る温かみを感じるのだった。





 甘さ控えめの水羊羹と薬草茶を心から堪能して、おかわりをもらうかミカが悩んでいると、そんな雰囲気をどこかから嗅ぎ取ったのかマスターがこちらにやってくる。ミカは目を合わせて言った。


「すいません。あの、あそこに書いてある相談受付ってなんですか?」


「あれ?」


 ミカはおかわりを頼もうとしていたのにいつの間にか怪しい相談受付のことを聞いてしまっていた。あてが外れたマスターは素っ頓狂な顔を浮かべている。しかし、マスターは百戦錬磨だ。すぐにいつもの調子を取り戻し、僅かにうわずった声で答えた。


「あれは月に二回、土曜日にこの店でやっている相談所です。知り合いにお店のスペースを貸して、困っていたり行き詰ったりしている人の手助けをしているんですよ。相談すると物事がうまくいくようになるって評判なんですけど、一度か二度来たらみなさん軌道に乗ってしまうようで、相談だけではあんまり儲からないんですよね。私に言ってくだされば予約できるので言ってくださいね」


「そうですか。なるほど。予約します」


 ミカは今日何度目か、もう脳を介さずに脊髄だけ通して喋っていた。


「え、あ、はい。では予約表を確認してきますね」


 マスター、今度は慣れた足取りでカウンターの横にあるパソコンに向かって行った。


 再びやってきたマスターによると、再来週の土曜日、朝一番早い時間か夜七時なら空いているということで、ミカは朝一番の時間を予約した。


「ありがとうございます。当日はお店に来たら『店の奥に用事がある』とお話しください。奥にご案内するのは時間が来てからになりますが、こちらでお茶している分には問題ないので、ご都合に合わせてお越しください」


「わかりました。お茶とお菓子、どちらもすごく美味しかったです。ごちそうさまでした」


 そんな会話をして、流れるようにお金を払って外に出たところで、本当はお茶のおかわりをするつもりだったことに気づいたミカだった。





 そして、ミカは次の日も次の週の土日もこのカフェに来ていた。すっかりハマったようである。


 珈琲に紅茶と試したが、やはり美味しかったのはあの薬草茶だ。体や心に溜まった毒を遥か彼方へと飛ばして浄化してくれるような気がするのだ。


 休日の朝このカフェに通うことでミカの生活はだいぶ持ち直して来た。


 相変わらず上司は嫌味ったらしくて手に負えないが、会社のお姉様方とはだいぶ打ち解けて来た。というより、人に不信感を持ち、壁を作っていたのはミカの方だったのだ。そのことを自覚した時は自分がちょっぴり嫌になったが、態度を改め、敬いを思い出して気持ちを開くようにした。そしたら自然と仲良くなることができたのだ。 


 これは、無意識のうちに「あのマスターのように人と接することができたら」とミカが思うになったことが遠因なのだが、本人は知る由もない。


 休日に「ai's cafe」に来てリラックスすることで、そして生活状況が改善されていくことで、ミカは「もう相談しなくてもいいんじゃないかな」と思ってきていたが、せっかく予約をしたわけだし、あのマスターに「やっぱりやめます」と話すのもどこか忍びない気がしたので、その日をゆっくりと待つことに決めたのだった。

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