第2話
待ちに待った予約の日。ミカは開店と同時に「ai's cafe」に来ていた。意外と緊張している様子である。
ミカが席について十分ほど経った頃、一人の男が店に入って来た。
男はマスターを見つけると、手を挙げて「よっ」と言って笑いかけた。そして、何やら和やかな雰囲気でマスターと軽口を叩き合っている。元々とても人当たりのよいマスターだが、今はいつもにも増して当たりがよく、オープンな空気を出している。
そんな二人の様子は楽しげだったが、どこか悪戯めいていて、小狡い悪だくみでもしているようだった。
話がひと段落すると、男は店の奥の方に進んでゆき、消えて行った。
マスターがこちらに向かって来て「奥の部屋へどうぞ」と声をかけたので、ミカは言われるがまま、足を踏み出すのだった。
この喫茶店の奥にはトイレやキッチン、従業員の準備室の他に一つ小部屋がある。その部屋は普段はマスターが考え事をしたり、こっそり店の試作を味わったり、経理や事務作業などを行ったりするためにあるのだが、月に二回ほどは相談室として使用される。部屋はこの店の共犯者を名乗る男が相談屋をするためにしっかりとカスタマイズされている。
相談者と対等な位置で話せるように選ばれた机とソファ、華美でない調度品、そしてたくさんのお茶が詰まった古いタンス。どれも検討に検討を重ねて、マスターと男が購入したものだ。
ミカがおそるおそる部屋のドアを開けると、そこには不思議な空間が広がっていた。
雰囲気は喫茶店と似通っている。トーンは近いし、柔らかさが漂っている。でもどこか違う。緑茶とほうじ茶のような、いやモモンガとフクロモモンガのような、はてさてカプチーノとカフェラテのような……。同じなんだけど違う。違うんだけど同じ。そんな空間だった。
一番違うのは、どこかスパイシーでエスニックな趣がある香り。そして、ソファから立ってこちらに向かってくる男。柔らかいのか刺激的なのかわからない。
「ご予約ありがとうございます。若苗凪と申します。こちらに来てお座りください。相談される方用のメニューがありますので飲み物か食べ物を何か一つお選びください。料金は相談料に入ってます」
ミカはそのことをマスターからあらかじめ聞いていた。そして、こっちのメニューにはいつもとは種類が異なる薬草茶が存在することも。
メニューを見てみると、
・薬草茶(スペシャルブレンド):ai's cafeで出しているものと同じブレンドです。
・薬草茶(すっきり):飲み口すっきり。気持ちをすっきりさせたい方にオススメです。
・薬草茶(さっぱり):飲み口さっぱり。執着や嫌な気分を捨てたい方に
・薬草茶(スパイシー):ジンジャー強め、クセも強いです。
等々と書いてある。
悩むミカを見て、男は声をかけた。
「この店の薬草茶をよく頼まれると聞いてますよ。あれはマスターと僕が配合を試して一番出来が良かったものなんです。メニューには入れなかったけど良いブレンドだと感じたものがここにあります。他にも珈琲やハーブティーがありますので、ぜひお試しください」
それを聞いてミカには疑問が浮かんだ。普段ならそのまま飲み込むのだが、今日はここに話し込みにきているのだ。軽い気持ちで聞いてみる。
「そうなんですか。でもよくできたものが他にもあるのに、なんでカフェでは一種類しか出さないんですか? こちらにあるんだったらメニューに加えればいいと思うのですけど」
男はミカの質問をしっかり受け止めるように頷いてから応えた。
「そうですねぇ。あんまりメニューが多いと作るときにマスターが混乱してしまうのでカフェのメニューはシンプルにしてあるのですよ」
苦笑いを浮かべながら男は続けた。
「それに、通常メニューが多くなってくると在庫を抱えなくてはならないですからね。こちらの部屋にあるメニューは種類が多いですけど、たまにしか注文されないので少量ですみます。それならこまめに管理できるので」
「あー、なるほど」
ミカは得心した様子で頷き、注文を決めた。
「それじゃあ、せっかくなので薬草茶(さっぱり)をお願いします」
「わかりました。それでは今日は僕も久しぶりに薬草茶を飲みますかね。僕は(すっきり)にします」
そう言いながら男は古めかしい棚の引き出しから二種類の缶を取り出して、部屋の外に出た。
「薬草茶のさっぱりとすっきりを一つお願い!」
通りが良く落ち着きをはらんだその声にミカは期待を膨らませた。
◆
今日の天気はいいですね、なんていう適度な世間話をしているうちに、いつのまにかマスターがやって来てお茶とお菓子を運んでくれた。
いつもと違い、やや大きめのポットにカップ。そしてお茶菓子二種類、今日はミニどら焼きと抹茶クッキーだ。こちらで頼むとどちらもついてくるらしい。
「ありがとうございます」
と言って受け取って、二人でカップにお茶を注いだ頃、男は真剣なような微笑んでいるような、非侵襲な表情を浮かべて声を発した。
「さて、それでは始めましょうか。まず差し支えなければ、お名前と生年月日、あと住所を紙に書いていただけないでしょうか。ここは相談所なんですけど、占い的なニュアンスもありまして、そういう情報があると役立つのです。書いていただいた紙は相談が終わったらお渡ししますので、情報がこちらに残ることはありません。気にされないのでしたらこちらで処分することもできます」
男は紙とペンをこちらに差し出した。
ミカは特に気にした風もなく、ためらう様子なく紙に名前と生年月日と住所を書いた。
「ありがとうございます。それでは、いま気になっていることをお話しください」
あれから二週間、ミカが待ち望んだ時間がやっと始まった。
それから三十分間ミカは洗いざらいすべてのことを話した。それどころか最近は白菜が高いとか、会社にある自動販売機のラインナップが気に入らないとか、そんなことまで話してしまっていた。というのも、男の相槌があまりにもミカ好みに返ってくるものだから、ミカの口も滑らかになって言う必要のないことまで話してしまったのだ。
そして、この薬草茶(さっぱり)。味も確かにさっぱりだが、飲んでいるうちに胸の奥からさっぱりしたい気持ちがこみ上げてくる。いつもの薬草茶のほっとするような風味とは違って、さらさらと体の中に流れていく。始めの方に飲んだ分はもう血になってミカの体中を駆け巡っているかのようだ。
男は話がひと段落したのを見計らって、相槌や話をまとめて確認するだけだったところから一転、ミカに質問を投げかけた。
「なるほど。お話はわかりました。そこで一つお尋ねしたいのですけれども、別れを告げられた彼やあなたを裏切ったご友人のことは、事が起きる前から本当に好きだったのですか?」
「えっ?」
ミカは調子外れの声を出して「そんなの当たり前」と言いかけた。だが、声が出てこない。頭が動きを止めた。男は続ける。
「まずはご友人のことですが、出会った頃の様子はどうでしたか? はじめから自然に仲良くなれた感じでしょうか?」
ミカは「そうだったと思います」と言おうとした。だが、言葉が口をついて出ようとした瞬間、あの友人と出会った頃の記憶が頭に浮かんで来た。確か、最初は合わなそうだと思っていたのにも関わらず、寂しさと孤独に紛れてくっついていたのだった。
しずかに記憶を手繰り寄せるミカは、一瞬男の顔を見た。ミカの目に映る男の瞳はなんだか透き通っていて、優しさと悲しみをまとっているような色をしていた。
ミカの心が落ち着いて、頭が働き出したのを察して男はまた質問を始めた。
「彼のことなのですけれど、どうしてその方と付き合うことに決めたのでしょうか?」
「え、それは……。好きになったからです。こんな人と付き合えたらいいなーと感じたからです。誰でもそんなものじゃないですか?」
ミカは胸の心臓のあたりに手を当てて、時々目をゆっくりつむりながら話している。
「そうですよね……。つまりミカさんの理想というか、イメージにあった方だったのですね」
ミカは頷く。
「それでは、そのイメージはいつ、どこでできたものかわかりますか? そしてそのイメージのような人と付き合えたらいいと心に決めたのはいつですか?」
ミカはさっきまで怒涛の勢いで喋っていたことも忘れて、思考に没頭していた。
無言のまま数秒か数十秒が経った頃、ミカは答えた。
「イメージがどこでできたものかはわかりません。でも昔、母や祖母と『無難な恋人』について話したことを思い出しました。内容ははっきりと覚えていませんが、そのときに持っていたイメージと近い気がします。母と祖母の話につられて同意したのかもしれません。恋人には無難な人を選んだ方が幸せに繋がりやすいという気持ちを今でも持っています」
男は口元に手をつけながら返す。
「なるほど。そうですか。では、改めて聞きたいのですが、恋人さんはミカさんの理想の相手だったのでしょうか? 心の底から好きで、離れがたかった相手ですか?」
「もうよくわかりません。好きだったことは確かだと思いますけど、確かにリズムが合わないことはあったし、噛み合わないことも多かったです。でも、そんなものですよね? 百パーセント噛み合う相手と好き合えるわけでもないんだし」
そういいながら、ミカは視線を斜め下に外し、表情を曇らせた。男は落ち着いた口調でミカに話す。
「なんでも思い通りに行くわけではないというのはその通りだと思います。ですが、理想を追うことと、自分の理想を知ることとは別ではないでしょうか。自分が恋人に求めることや、恋愛に対する恐れについてミカさんはもう少し知る必要があると思います」
男の眼差しが先ほどよりもあたたかい。ミカは目頭に熱いエネルギーを感じたが気にしないふりをした。
「そうですよね。私もそう思います。私は自分のことがよくわからなくなっています。どうすればいいですか?」
男はミカの言葉を受け止めて、そして数秒ほど考えてから、変わらぬトーンで返事をした。
「そうですね。自分の考えと体の動きをリンクさせるために、気持ちを体に聞いてみる練習をしてみましょうか。例えば先ほど、恋人さんがミカさんの理想の相手だったのか質問させてもらいましたが、その問いを自分自身にしてみたらどのような感じがしますか? 例えば最近、食が細くなっているようですから、胃や腸に話しかけているイメージで聞いてみたらどうでしょう?」
ミカは自然に目をつぶって、お腹に手を当てて聞いてみた。
「驚いたことに理想ではなかったという感じがします。ふしぎですね。ちょっと自分がおかしくなってしまったような気もしますが、安心感があります」
男は一瞬止まって、やがて笑顔を浮かべながら言った。
「そうですか。確かに始めの方は奇妙な感覚がするかもしれません。自分が自分でないかのような。でもそれは体の感覚を軽視していたから起きることなのです。最近の不調にはその辺りが関係していると思います。なのでこの訓練をゆっくり続けて、ケアしてみてください。とはいえ、食事が入っていかないのは問題です。もし一週間経っても回復の兆しが見られない時は胃腸を医者に見てもらわなくてはなりませんし、気分の落ち込みもあと三週間続くようでしたら、専門の医者に相談してください」
「はい」
ミカはこれまでにないはっきりとした口調で返事をした。なぜだか男の話が正しいことのように思えたのだ。
「さて、相談事に関してはそのような感じです。一度自分の価値観を洗い直してみて、そして頭で考えたものではなく、体で感じたことを信じるように意識して生活を送ってみてください」
「わかりました」
ミカはいつのまにか男のいうことを正しいこととして受け止め、自分がとても素直になっていることに気がついた。もしかしたら男に騙されているのかもしれないと思ってきたが、実害があるわけでもない。試すだけなら問題ないか、と、この世界観に今一度、浸ってみることにした。
ミカの心の動きに共鳴したように、共犯者の男は佇まいを直してこれまでよりもだいぶ胡散臭く、だがまっすぐな瞳をミカに向けた。
「そしてこれからは占いパートなのですが、まぁ僕のインスピレーションをお話するだけなので、騙されたと思って聞いてください」
ミカはもうすでにだまされる覚悟を作っていたので、ただ頷いて男の話を聞いた。
「僕の勘では、ミカさんには【整理する】才能があります。具体的なものでも、アイデアや情報などの概念的なものでも、どちらでも大丈夫です。違う言葉で言えば再配分する能力ですかね。部屋の模様替えをしたり、情報を取りまとめて整理したりするのが好きだったりしませんか?」
「たしかにそうです」
「そうですか。自分の道がわからなくなったら、その気持ちを思い出して何かを整理してみると良いと思います。ですが、意固地になって決めつけて突き進んでしまうこともあるので気をつけてくださいね。ミカさんらしい行動であっても過剰になってきたら逆効果ですから。そういう時には内側から外側に広がっていく渦のマークを思い浮かべてください。きっと落ち着くと思いますよ。逆に自分を見失ったときは三角形ですね。少し尖った形のものを身につけると自分らしさに触れられると思います」
そう言いながら男は紙に渦のマークとやや鋭角の二等辺三角形を書いた。男のいうとおり、確かにそこには自分らしさと平穏さが宿っているような気がした。
「わかりました。意識してみます」
ミカの目はいつになく真剣だ。
「ミカさんに本当に【整理する】才能があるのなら、転属してからの仕事の方が合っているような気がするのですがどうでしょうか?」
「え、あぁ、確かにそうかもしれません。だいぶ慣れてきましたし、仕事自体に不満はありません」
働きたくなかったことなど忘れて、自分が前向きな言葉を紡いでいることにミカは気づいてはいない。
「本当にお辛かったでしょうし、様々なことが重なり、ショックだったと思います。慣れない生活をするだけでもストレスになりますからね。ですが、これまでのお話を聞いて、そして僕の独断と偏見をまとめると––」
なんてまとめ方だと思ったが、もちろんミカは口を出さなかった。
「ミカさんを取り巻く環境はほぼ好転しているように思えます」
「はい?」
「腹の底から理想だと思うわけではない恋人と別れ、自分の体や心と向き合う覚悟を決めました。今回のことを契機に偽りの親友があぶり出されました。そして、自分の能力や才能を活かせる仕事を始めることができるようになりました。上司の厄介さは確かに問題ですが、もう一度自分の心と向き合って仕事に気持ちを開いてみてください。そうすれば事態はゆっくりと好転していくはずです。よく頑張ってきましたね。もう大丈夫なのです。めくるめく変化は終わりました。あとは少しずつ新しいやり方に慣れていくだけです」
その言葉を聞いてミカの目からひとしずくの涙が流れ落ちた。
頭では、苦しんでいる自分に随分ひどいことを言ってくれるなと思っていた。
言い返してやろうと思った。
だけど、その声も表情も空気感でさえも今までで一番優しくて、肩の力が抜けた。
表面にまとった怒りを突き破って安堵感が湧いてきた。
もう怯えなくていいのかもしれない。もう身構えなくてもいいのかもしれない。
信じられないことが続きすぎて、また何か悲劇が起きるかもしれないと思っているうちに、すっかり張り詰めてしまったのかもしれない。
変化は急だったけど、男のいうことは間違いじゃない。
いや、少し前の自分だったら見当違いだと吐き捨てただろう。でもさっきから胃が、腸が、ほんのり温かく緩んでいるのがわかる。頭で否定しても、体の方が肯定してる。
この感覚はなんなのだろう。これが自分への愛だったらいいな。なんて、普段は考えもしない言葉を頭に浮かべて、ミカは薬草茶を飲み干した。
◆
「それでは時間になったので、相談の方は終わりです。ここに来られた方には僕の印象でお茶をいくつかお渡しすることにしているのですが、ミカさんには薬草茶のティーバックを何種類かお渡ししますね」
そう言って男は棚の方を向いてゴソゴソと動き出した。
「もし気に入ったものがあったら今度来たときにマスターにこっそりと注文してください。ミカさん一人の分でしたらカフェの方でもお出しできるので」
男は悪戯っぽい笑顔を浮かべて、小さい紙の袋に入ったティーバックをミカの前に差し出した。
「あと、今日の覚悟を意識しやすくするために魔除けのポプリもお渡ししますね。自分の家の中で一番淀んでいる気がするところにおいてください」
窓のそばにあるガラスの入れ物からポプリをひとつまみ、ふたつまみ、さんつまみ。袋に入れて閉じて渡してくれた。
「それではまたどこかでお会いしましょう」
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