第3話
部屋を出てから数秒間、ミカは立ち尽くしていた。全てがジェットコースターのようで、大切なものが頭から抜けてしまったような、いや逆に大切なものを胸に取り戻したような、そんな新しい感覚に呆然としてしまっていた。
「あのぉ、大丈夫ですかぁ?」
離れたところからミカの顔を覗き込むマスター。話し方がなぜか芝居掛かっている。
「おつかれさまでした。その顔を見るに得るものがあったようですね」
ミカは自分の顔を触りながら答えた。
「えっ、私の顔何か変わってますか?」
「はい。張り詰めた顔のことが多かったのですが、今は緩んでいて、微笑んでいるようにも見えましたよ」
マスターの表情も柔らかい。
「そうだったんですね……いまは頭がいっぱいなだけだったのですが……。でも確かに何かが軽くなった気がします。ちょっと詐欺に会ったような気分ですが、腕がいいというのは本当なのかもしれないですね」
「そう言われる方が多いんですよねー。気持ちはわかりますが……。ちょっと変な人ですよね」
話すマスターの顔はなぜか、どこか自慢気。
マスターは続ける。
「あ、もしよければ今日はランチを食べていってください。といってもお代はいただきますが––。今日は自信作が並んでいるんです! とにかく、お席に案内いたしますので、一息ついていってください」
マスターの気遣いに感謝して、一礼。ミカはゆっくりしていくことにした。
◆
やっと気持ちが落ち着いてきた頃、ミカはメニューを手にとって、ランチメニューを調べてみた。
・スパイシーキーマカレーセット(サラダ、スイーツ付き)
マスターの力作カレー。今週はラムひき肉を使った本格派!
・五穀米と鶏肉の豆乳シチューセット(サラダ、スイーツ付き)
食べると体がポカポカに。五穀米がいい味出してます。
・アジフライ定食(小鉢、味噌汁付き)
いいアジ入りました! とっぷりソースかさっぱりおろしのだし醤油で!
「あれ?」
何度見ても三番目にはカフェらしくない定食メニュー。思わずマスターの方を見てみたら、目がバッチリあった。おそらく何にも理解していないだろうに全力のサムズアップ。勢いがすごい。でもどこか憎めない。
いつのまにかミカも笑顔になっていた。
アジフライなんて油っこいもの食べられないと、少し前ならそう思ってやめていただろう。だけど、今はどうしてもアジフライが食べたい。体が欲している、気がする。覚悟を決めて頼む。
「すいません! アジフライ定食ください!」
特に必要もないのにしっかりはっきり。力が入る。
「わかりました! アジフライ定食一つ!」
マスターもつられて、力が入ってる。どこか楽しそう。
◆
「お待たせしました。アジフライ定食でございます」
十分ほど経って、待ちかねた食事が運ばれてきた。
大振りのアジフライが二つ。切り干し大根と人参と小松菜とひじきの煮物が小鉢に。白菜とゆずのお漬物。根菜のお味噌汁。それに中皿に盛られた大根おろしと薄口醤油、これにつけて食べてもいいらしい。思っていた以上に豪華、思っていた以上に本格的。さすがマスター。
ミカはアジフライにはソースをかけたことしかないのだが、一度大根おろしを乗せて、醤油につけて食べてみたくなる。しかも、どうやらこのアジフライは注文を受けるたびに揚げているらしく、手間がかかる上にマスターが珈琲を作れなくなる諸刃の剣。アジにも限りがあるため、一日十食限定らしい。なぜそんなメニューを……。
ミカはまず白菜とゆずのお漬物を取って口に運んだ。季節の甘みを集めた白菜がしゃくしゃくと瑞々しい。鼻から抜けるゆずの香りが口をさっぱりさせ、湧いてきた食欲をさらに刺激する。
次はやっぱりアジだ。ミカはサクサクのアジフライの上に大根おろしを乗せ、軽く醤油につけた。そして口に運んでゆき、ゆっくりと噛み締めた。
さくっ。十分に花が咲いた衣は真冬に踏みしめる極上の霜のよう。顎の力を強めて噛んでいくと、アジの脂と大根おろしの汁が同時に口の中で広がってゆく。生命力を蓄えていたアジの勇ましい甘みと大根おろしの辛味の混じった優しい甘み、二つが交わって新しい地平を切り開いていく。
おいしい。これまでの人生で一番美味しいアジフライかもしれない。
ミカは夢中で食べていた。一つは大根と醤油、一つはソースでなんて思っていたはずなのに、いつの間にか両方をおろし醤油で平らげ、控えめな煮物も、味噌汁も、ご飯も、全ての器が気がつけば空になっていた。
いつぶりだろう。ご飯をこんなに美味しいと思ったのは。こんなにも幸せを感じているのは。
もしこういう感情が幸せであり愛情でもあるのだとしたら、私は元彼といるときにあまり幸せを感じていなかったのかもしれない。幸せとはこんなものだと頭で決めつけて、それに沿うように自分を、人生を動かしてきた。だけれど、違ったじゃないか。人生は勝手に動いてしまうのだ。いつのまにかこのカフェに行き着いてしまったように。
ミカはそんなことを考えるようになっていた。
店を出たミカは、三ヶ月前人生に悲嘆し、何も喉を通らなくなったときのミカとは違う。これからはもう少し自分の感覚を大事にして、気持ちを周りに開いてみよう。
そう思いながら、あの男からもらったポプリのあたりを無意識に触って、歩き出していた。
◆
それから、ミカの順調な毎日が再び作られていった。
いつのまにかご飯を美味しく食べられるようになった。仕事仲間ともっとうまくやれるようになってきた。仕事に向き合えるようになってきた。
そして、一ヶ月が経った頃、不思議なことにあの嫌味な上司が異動になった。支社に行くことになった。もしかしたらもう会うことはないのかもしれない。
ミカが自分を取り戻すにつれて、部屋に置いたポプリの香りはどんどん薄れていった。あの男と、苦しんでいた愛しい自分が離れて行くようで寂しさを抱いたが、これでよかったんだって呟いて、香りが完全に消えるまで待つことにした。
その頃には、あたりは春になっているかな。その頃には、素敵な人があらわれるかな。
◆
「そっか。あれからも毎週来ているんだね。相変わらず薬草茶?」
「そうだよ。(さっぱり)が好きみたい。遊びながら作ったものなのに、それを好きになってくれる人がいるなんで本当に不思議だよね。というかありがたいよね」
「本当にそうだね。でもさ、そうやって自由に作ったものにこそ、その人らしさが宿っているのかもしれないよ。どっちが作り始めたのかもう覚えてないけど、俺らっぽいお茶になっていたんだったら、それはそれで面白いよ」
「そだね。あんまり美味しそうに飲んでくれるもんだから、最近は私もハマっちゃってさ、夜に飲んでるよ」
「あー、だから最近減りが早いのか。犯人見つけた! まぁ俺も夜、家で飲んでるんだけどね。オオバコとヨモギを薬草園に注文しておかないと」
「えへへ」
「でもなんかさ、あの子も不思議だよね。ちょっとだけサービスしちゃったよ」
「あら、そっちも? 私もなんだよねぇ。別にいいんだけどね」
「別にいいんだけどね。でもちょっと悔しいというかなんというか」
「そうなんだよね。それもまた不思議なんだけど」
「だね」
「あ、そうだ。今度何かあったら少し手伝ってもらおうよ。そっちでも、こっちでもいいからさ」
「いいけど……。なんか悪い顔してるよ」
「そう? なんか私と波長が合う気がするんだよねー」
「ろくなことじゃないなぁ。ってかもう俺もあの子も巻き込む気満々だよね」
「えへへ」
「まぁいいけどさ……」
そんなこんなでミカがこの店の、いやマスターの騒動に巻き込まれててんやわんやするのは、少し先のお話。
ここは「ai's cafe」
名物マスターとたまにくる共犯者の男、そしてちょっと風変わりなお客たちが織りなす、ここにしかない喫茶店。
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