第22話

「話には聞いていたけど、おもしろい人たちだったね」

 ベンチに座ったタクミはそう言ってからフラットホワイトに口をつけた。


「これ、すごいおいしいよ⋯⋯」

 そしてすぐにそう言って、フラットホワイトが入った紙のカップを見た。

 どうやらタクミはお気に召したようだ。目を輝かせながら何度も飲んでいる。

 その様子を見て、ミカもカップに口をつける。ゆっくり味わいたかったので、ここに着くまで逸る気持ちを抑えていたのだ。


「本当だ⋯⋯おいしい⋯⋯」

 口に液が入って来た瞬間、芳醇な香りが広がった。

 これまでミカはラテやカプチーノを飲んだことがあったが、このフラットホワイトは一番フルーティな香りがした。苦味は強いがミルクと混ざり合ってふっと消えてしまう。

 ミルクティーのようだと言うのはさすがに大袈裟だが、始めて飲む味にミカは衝撃を受けた。


 ミカとタクミは目を見合わせて、つい笑ってしまった。

 あんなにお茶目なマスターからこういうものが飛び出してくるというのがai's cafeの面白さでもあるのかもしれない。


「きっとこれもおいしいよね」

 ミカはタクミが取り出したキャラメルブロンディを受け取った。小ぶりだが見た目以上に重みがあるようだ。


 ミカは包装をとって、ブロンディにかじり付いた。すると予想通り中がしっかり詰まっていた。

 木の実のカリッとした食感に心を弾ませながら味わうと、濃厚な甘みがやって来た。甘さ自体はマスターの話通りひかえめなのだが、濃度が高いのだ。

 そこに木の実の香ばしさとキャラメルの苦味が複雑に絡み合ってしっかりとした存在感を見せている。


「濃厚なんだけど食べやすい⋯⋯メイプルとも違うけどコクがあるのは似ているよね」

 タクミの言葉にミカは頷いた。これもai's cafeのものの特徴なのだが、食事もお菓子も飲み物もするすると入ってきて、気がつくとなくなってしまうのだ。


  ブロンディを食べた後、フラットホワイトを飲んでしまったらもう止まらない。

 どちらにもコクがあり、苦味や香りがあるのだが、それぞれは別種で補完しあっている。

 まるでお互いを補い合うように作られたのだと思ってしまうほど、噛み合っている組み合わせだ。さすがマスター。




 タクミとお菓子を食べ進めながら、ミカは名残り惜しさを感じるようになっていた。

 すごい勢いでブロンディもフラットホワイトも味わって来たが、もう終わりが見えて来ている。あと一口か二口で終わりだ。


 この時間が続けば良いと思うけれど、ずっと止まっているわけにはいかなかった。

 ミカはお菓子とコーヒーを一気に飲み込むと、先に食べ終わって空を眺めていたタクミの方に身体を向けた。


「今日は来てよかったよ。マスターたちとも会えたし、良い音楽や食べ物に出会えちゃった。それに何よりタクミくんといられてすごく楽しかった」


 話しながら、ミカは突然空気が薄くなって来たように感じた。ちゃんと息を吸っているはずなのに息苦しい。


「僕もミカちゃんと来れて良かったよ。やっぱりミカちゃんといると楽しいよ。本当に好きだって思うんだ」


 高鳴る鼓動の音を聞きながらタクミの顔を見ると、彼は太めの眉を落とし、口を真一文字に結んでいた。タクミがそんな苦しそうな顔をしているのをミカは初めて見た。

 だが、すぐその理由に気がついた。タクミがこうやって好意を口にするとき、いつの頃からかミカは目を背けるようになってしまっていたのだ。

 反応はしていたし、嬉しかったはずだけれど、いつもミカは曖昧で明確な態度を取ることはなかった。

 そんなミカの様子がずっとタクミを傷つけていたことにミカは今やっと気がついた。

 勇気を出して、足を踏み出すときだ。


「私も好き!」


 ミカの声にタクミは驚いた。

 いつもとは違い、ミカはタクミをまっすぐ見ている。

 そして目を潤ませながら大きく息を吸う。


「これからもずっとタクミくんと一緒にいたいって思っちゃうくらいに好きなの。今日みたいな日をこれから何度も作っていきたい」

「それって⋯⋯」


 タクミは一瞬止まった後で、ミカの言葉の意味を聞いて来た。

 だけど想いが溢れすぎてミカは自分の気持ちをうまく伝えられる気がしなかった。

 だから、言葉ではなく態度で示すことにする。

 ミカはタクミの手を優しく包み、少しだけ唇を突き出しながら目を瞑った。


 視界が闇に包まれる。極微の時間が引き延ばされ、永遠のように感じられる。

 あまりの長さに、その暗さに対応するような想いがミカを襲ってくる。


『はしたない』 『何してるの?』 『女から行くなんて』

『断られたらどうするの?』 『また失敗するよ』


 それはミカが勇気を出さなければ聞くはずのなかった言葉だった。

 そしてずっと曖昧だったミカの態度のせいでタクミが聞いていたのかもしれない種類の言葉だ。


 進まない時間の中で、ミカは噴出しつづける考えに圧倒されそうだった。

 だからそれに飲み込まれないように今一番揺るぎない気持ちをもう一度口にすることにした。


「私はタクミくんが好——」


 だけど、その言葉を言い切る前にミカの身体は大きくて温かいタクミの腕で守られ、口には柔らかな感触が走った。


 ミカは目の前で光が弾けたように感じ、いつのまにか涙を流していた。


「俺も好きだよ。ミカちゃんにずっと一緒にいて欲しい」


 唇を離した後、タクミはそう言いながら微笑んでいた。

 ミカはタクミの顔を見つめながら、キスの余韻に浸っていた。


 タクミとの口付けにはフラットホワイトの苦味があったが、何度思い返してもミカは甘いとしか思えなかった。

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