番外編 幻庵房の複製者
そういえば――と、彼女が口を開く。淡いピンクのグロスを引いた唇が弧を描く様に、飛びかけていた思考が舞い戻った。
「酒井から押収した例の複製者、貴方のところに引き取られたのよね?」
彼女、藤原咲子がこちらをじっと見つめている。急に噛み合った視線に、
「そ……そのようだね」
できるだけそっけない風を装って答え、凛太郎は眼鏡を押し上げる。ちら、と再び視線を彼女に向けると、やはり咲子はこちらを見つめたままだ。その瞳はキラキラと輝いていて――こちらを探るような色を灯していた。
高鳴る心音を抑えようと、凛太郎は静かに深呼吸をする。
凛太郎にとって、咲子は憧れの存在だ。
二人は組織直営アカデミーでの同期である。アカデミーは、組織に入る前の研究者見習い達の学び場。代々組織に身を置く研究者一族の跡取りたちは、ほぼ必ずこのアカデミーへ入ることになる。
伊勢家は代々、藤原家に近しい研究一家だ。だからアカデミー時代、二人はよく行動を共にしていた。というよりも、アカデミーでは研究房関係なく教育が施されるため、藤原家次期当主たる咲子を守る意味で、凛太郎が共に送り込まれたと言ってもいい。
その頃から咲子は培養家としての能力を期待されていたし、既に見目も美しい少女だった。
そして単純ではあるが、凛太郎はひと目見たときから、すっかり彼女に参ってしまったのだ。その淡い恋心は、アカデミーで死ぬほど咲子に振り回された後も変わることはなかった。あれから、十年弱経った今でも、凛太郎は咲子に惚れている。
「咲子ちゃん、今日の本題はそれかな?」
「いいえ、本題は凛太郎と会うことだけど。あくまで凛太郎とお茶したくなったから呼び出したのだし、今のはふと思い出した話題を振っただけよ」
にっこりと笑う咲子の発言に、凛太郎は肩を竦めた。とってつけたような台詞だが、今更がっかりもしない。分かっていたことである。
「……誘われただけでとても嬉しいから、どっちでもいいけどね。もう藤原房じゃない僕を、頼ってくれて嬉しいよ」
紆余曲折あって、今、凛太郎は咲子とは異なる研究房へ所属している。それでも同期のよしみで、咲子は度々凛太郎を呼びつける。
彼からすれば、わざわざ咲子が構いにきてくれるのだ。嬉しくてたまらない。例え、咲子にとっては体の良い情報収集であってもである。多少、ぽろりと情報を漏らしてしまうくらいには、咲子には甘い自覚がある。
「ね、凛太郎は何か聞いてないの? あの複製者のこと」
にっこりと、いたずらっぽい笑み。彼女の上目遣いにどきまぎしつつ、凛太郎は言葉を選ぶ。
咲子は複製者破棄業務の責任者。ある程度の基本情報は、既に抑えているだろう。知りたいのはその先、引き取り手しか知り得ない情報だ。
「ええと……確か元々は、うちにいる
「ああ、そうか。彼女、
「葵房から幻庵房への移籍は、当時かなり揉めたみたいたけど。だからこそ、複製者は葵房に残したという話もあるわけだ」
幻庵房というのが、凛太郎の所属先である。そしてそれは組織の中でも、かなり特殊な立ち位置にある研究房だった。
通常、研究房は決まった一族や、同じ志を持った者たちで構成されている。だが幻庵房は違う。それどころか、幻庵房に所属している者たちは互いに手を取り合おうという発想がまったくない。
「研究馬鹿の巣窟、幻庵房ね……」
咲子が呟いた。思わず、凛太郎は苦笑する。その反応に、彼女はしまったとばかりに口元を押さえた。でも凛太郎は気にしていない。事実である。それどころか、咲子が口にしたのはまだ優しい方の通り名である。
幻庵房の研究者にとっては、研究こそが全てなのだ。そこに立派な志、あるいは出世欲のような野望はない。ひたすら己の知識の追求のため、ただそれだけを求めている者たちの巣窟なのである。つまり
ひとつの研究房という体裁をとってはいるが、実質はあらゆるしがらみをすべて捨てて研究がしたいだけの個人の集まりだ。
だから他の研究房のように、全体で連携を取ることはない。上下関係どころか、横の繋がりもほぼなく、ただトップに幻庵房当主がいるだけ。
そのため、幻庵房は公然と陰口を叩かれている。それが「研究者馬鹿の巣窟」やら「変人研究房」やらだった。ただ、どんなに酷い言われようでも反論することもない。だいたい事実であるし、研究の為ならなんでもする輩ばかりで、他者からの意見など誰も聞いていないのだ。
この奇妙な在り方は、一部の研究者にとっては理想的だった。どこの研究房にも、「ただ追求したい研究馬鹿」はいるのである。その者たちは大抵、変わり者として集団の中で敬遠される。幻庵房はそのような研究者たちの受け皿となっており、構成員も世襲ではなく、全て他の房からの移籍なのだ。
凛太郎もまた、研究馬鹿の部類である。そこを見込まれて、アカデミー卒業と共に幻庵房のスカウトを受けたというわけだった。
「で、凛太郎は関わってないの?その複製者の研究」
「まさか。僕みたいな末端が、携われるようなものじゃないよ」
それに、と続ける。
「井伊殿は、自分の作品に人の手が入ることを嫌うしね。助手的な存在もいなかったと思うよ」
「ふうん。井伊殿に何か意見できるのは、幻庵殿くらいって噂だものね」
正しくは、「流石の井伊も幻庵の意見は無視できない」である。無視できないだけで、従うかどうかはまた別だ。
ここで言う「幻庵」というのは幻庵房の当主を指す名称である。本名ではない。代々幻庵房の主は「幻庵」の号を継承するのだ。
「私、まだ当代の幻庵殿にお会いしたことないのよ。数年前に代替わりしたでしょう。前の幻庵殿は、何度かお会いしたのだけど。どうにかして、会えないかな」
「あー、難しいね。当代は意図的に公の場を避けているから。会ったことがあるのは、幻庵房でも僅かだよ」
「一体、どんな方なの」
「きっと変わり者だよ」
凛太郎は肩を竦めた。変人の巣窟の主が、まともなわけはない。凛太郎本人も認めざるを得ないことである。
咲子もこの返答に、とりあえず当代幻庵については諦めたようだ。話を切り替える。
「あの複製者――流星と言ったかしら。双子の複製者なんて、他では聞いたことがないわ」
「井伊殿の研究成果らしいよ。だから、酒井氏も彼らを処分しなかったんだろうね」
「……惜しいわね。二人揃っていれば、もっと色々なことがわかったでしょうに」
でもそれは仕方がないことだ。片割れは、隼人と笠間が復讐を果たしてしまった。と、咲子はあることを思い出す。
「ねえ、幻庵房にもいなかった? 二対一式で作られた双子の複製者」
「流石、咲子ちゃんは詳しいなぁ」
これは複製者の事情に精通している咲子だからこそ、知る情報である。幻庵房で所有が認められている複製者は数人。そしてその研究に、移籍した後の井伊通虎が携わっている。
「いるよ。今は幻庵直属として働いてる複製者たちだ」
でも、と凛太郎は首を横に振った。
「流石にあの研究は、外部に漏らせないどころか、内部でも知っている者は限られているのだけど」
◇◇◇
流星が連れてこられたのは、組織本部の最深部とも呼べる場所だった。詳しい位置はわからない。流星は捕らわれている間、手錠と目隠しを余儀なくされていた。
隼人と笠間に敗れてから、流星は従順だった。いや、従順というよりも放心してきたと言ったほうが良い。
目が覚めたら、既に手足は拘束されていた。捕らえられたのだとわかった。だがそれよりも、自分が生かされたことに動揺した。
隼人と笠間は、自分を恨んでいた。ホウジョウ事件で流星が、二人の家族を奪ったからだ。だが、奪われたのは流星の方も同じ。少し前に二人は復讐のために流星の兄を殺している。
だから流星は、二人の気持ちがよくわかる。腸が煮えくり返るように熱くて、どろどろとした感情が心を渦巻く様を。決して許せない憎悪は、復讐を遂げるまで終わらないのだと。
それなのに。どうして自分は生かされたのだ。隼人と笠間は流星に勝った。それなのに、どうして殺さなかったのだ。
それがわからなくて、いつしか憎しみよりも疑問で頭がいっぱいになった。流星は、ただ流されるようにして、ここに連れてこられたのだ。
目隠しが外される。まず目に入ってきたのは、整えられた和室だった。畳敷きで、かなりの広さがある。開け放たれた障子の向こうは、竹林が広がっている。とても静かで、物音ひとつしない。
「お前が新入り?」
突然の声に、驚いて目を向ける。少年がすぐ横に立っている。まるで気配がなかった。彼は自分よりも幾分か年下に見えた。オーバーサイズのパーカーを着ているせいか、小柄に見える。
「当代幻庵は、生憎不在にしていてね。代わりに俺たちが面倒見るように仰せつかっている」
「お前は……」
「あんたと同じだよ。僕たちは第二世代の複製者だ」
彼の言葉に、流星の顔が強張った。
聞いたことがあった。自分たちを創った研究者は、他の研究房で新たな複製者を生み出したと。そうだとすれば、彼がそうなのか。
「まぁ、警戒するな。歓迎するよ」
少年はあっけらかんと笑い、それから流星の背後に向かって声をかけた。
「なぁ――花」
はっと振り向いたその先に、もうひとり。無表情の少女が、流星を見つめていた。
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