002 序章(後)

「あれっ君、ハヤトくんだよね?」


 ぽつんと、警察署からほど近い場所にあるベンチに座る少年を見つけて、武文タケフミは思わず声をかけてしまった。ハヤトは目を丸くして武文を見上げる。そういえば、言葉を交わすのは初めてだったなと声をかけた後で気づいた。


 依然として捜査は続いているものの、日にちが経つに連れて状況は厳しくなっている。一時期順調に思えた捜査は、暗礁に乗り上げていた。決定的なものが出てこず、犯人逮捕への足がかりが見つからないのだ。それどころか、現場で得られた証拠が厄介だった。すべてを見たままに判断すれば、途端に現実味が消えるのである。

 そんな中で、少年は未だに警察署で保護されている。少し落ち着きは取り戻しつつあるということだったが、彼に行く宛がないのが問題なのだった。

 彼は数日に一度、病院へ通っている。身体の傷よりも心の傷を治す為らしい。今日も恐らく、これから病院へ向かうところなのだろう。本来警官が付き添うことになっているのだが、周囲にそれらしき者が見あたらない。


「カジさんは……」


 武文は、てっきり今日の梶原カジワラは少年と居ると思っていたのだ。視線を左右に走らせる武文に、ハヤトがゆっくりと首を横に振った。


「おじさんは、今日は来れないって言ってた」

「あ、そうなんだ。他のおまわりさんは?」


 尋ねれば、ハヤトは困ったように視線を逸らした。


「すぐそこの……病院に行って帰ってくるだけだから、大丈夫だよ。ずっとこの町に住んでたんだから、俺、迷ったりしないよ」


 どうやら、四六時中警官がそばに居ることが、窮屈になってきたようだった。気持ちはわかる。しかし、未だに犯人の目処すら経っていない。彼を一人、自由にさせておくのは危険に思えた。

 幸い今の武史は時間に余裕がある。しゃがんで視線を合わせると、少年に向かって提案する。


「ハヤトくん、みんなが君を心配しているのはわかってくれるよね。今日の病院は、俺がついていってもいい?」

「…………いいよ……」


 ハヤトは、渋々といった様子で了承した。

 既に病院にも慣れたもので、早々に診察は終わった。その帰り道、手を繋いで歩きながら武文はハヤトを見下ろした。


「何かあれば、遠慮せずに言ってくれよ」


 その言葉に、彼は顔を上げて目を瞬く。そして、ぽつりと少年が尋ねた。


「お兄さん……も、刑事なんだよね……?」

「ああ、そうだよ。見えない?」

「うん。他の刑事さんたちよりも、若いし」


 素直な彼の言葉に、苦笑する。彼の指摘通り、現場での調査などでも年齢よりも若く見られがちなのだ。そのせいか、なめられがちでもある。

 ハヤトは、確かめるように訊く。


「オレの家の事件を、調べてくれているんでしょ」

「まあ、そうだ。みんなで頑張って、調査してる」


 武文の言葉に、彼は少し考えるように眉根を寄せた。少しの間をおいて、少年はじっと試すように武史を見上げた。


「ねえ、誰にも言わないって約束してくれる?」


 真剣な目だった。

 少年の視線に圧倒され、何のことだかわからないままに武文が頷いた。彼は武文の表情を探るように眺めた後で、ひっそりと切り出した。


「……実は、聞いたんだ。犯人の声」

「なっ!!」


 思わず大きな声をあげて、はっとして周囲を伺う。それから、声を潜めて尋ねた。厳しい口調にならないように、気をつけながら。


「……なんで、君はそれを隠していたの?」

「信じても、大丈夫かわからないから」


 少年は、俯きがちに視線を落とした。


「刑事さんたちが、事件のことを真剣に調べてくれていることはわかっているんだ。でも刑事さんたちの中に、犯人と繋がっている人がいないとも限らないだろ。まだ全然、犯人がわかっていないって聞いた。……普通の事件じゃないんでしょ」


 武文は、返す言葉に迷う。

 彼が、驚くほどに聡明な少年であることは疑いようがない。あれだけの事件の後で、ここまで落ち着いていることからも分かることだ。だからハヤトが伝えてなかったという「新事実」についても、彼なりの理由があるのだろうと考えることができた。

 興奮で問いつめたい気持ちを抑えながら、武文は尋ねた。


「どうして、俺には教えようと思ったの?」

「お兄さんは信用できると思ったから。あと、梶原おじさんも……ふたりは、最初にうちに駆けつけてくれたから」


 ハヤトの言うとおり、梶原と武文は最初に事件現場へ到着した刑事だ。そのことを、彼も覚えていたらしい。


「だから誰にも言わないって約束するなら、犯人の声のこと、お兄さんには教えてあげる」


 ハヤトの提案に、武文はゆっくり頷いた。


「……わかった。確証が持てるまで、俺からは誰にも言わないよ。でも、ひとつでも犯人に繋がることがわかったら、カジさんには伝える。それでいいかな」

「うん。……いいよ」


 少年が差し出したのは、携帯電話だった。


「習い事で遅くなる事があるから、持たされてたんだ。いつも、オレが出ない時は……お母さんが留守電にメッセージを入れてくれてて……」


 彼の表情が暗くなる。亡くなった両親のことを思い出しているのだろう。その心中を察すると、痛ましい。

 武文は、彼の示す画面に目を落とす。留守電の録音だった。促されるままに、再生ボタンを押す。耳を押し当てると、機械的な電子音に続いて、声が聞こえてきた。



 ――まず聞こえたのは、女性の声だった。

 ハヤトに呼びかける彼女は、母親だろう。どうやら友達の送別会へ行っていたらしい息子に、帰宅時は気をつけるようにという声がかけられる。……と、にわかに通話の向こう側が騒がしくなる。通話は切られないまま、向こう側の混乱したような様子が聞こえてくる。会話までは聞き取れないが、言い争うような声、そして、つんざくような悲鳴と――。


「ハァ、俺がわかんねえ? ……アァ〜、こっちハズレだわ」


 突然、はっきりとその声が響いた。

 そして、通話はとぎれた。




「……これは……」


 とんでもない、証拠だ。はっきりと聞こえた最後の声は、間違いなく犯人のものと思われる。しかし……。


(子供の声だった)


 もちろん声だけなので、断定はできない。しかし最後の声、武文には若い子供の声にしか聞こえなかった。ハヤトよりは年齢は上だろう。でも声変わりして、そんなに年数が経っているとも思えない。

 本来であれば、すぐにでもこの音声は捜査本部へ提出するべきである。だがハヤトとの約束を差し引いても、武文は迷った。思い出したのは梶原の「物証が多すぎる」というあの言葉だった。


(ただでさえ、捜査本部は混乱している。考えられているのは、大の大人であっても実現不可な殺害方法。そこへさらに、犯人が子供かもしれないなんて――)


 めちゃくちゃだ。現状の見立てでは、犯行は力の強い成人男性でも難しいとされている。そんな中、容疑者が子供だなんて誰が信じるだろう。


(……複数人の可能性は……ない)


 はっきりと残された足跡は、一人分。侵入者が一人であることは、すぐに確認されたことだった。


「――ねえ、お兄さんは不死身の怪物の話、知ってる?」


 唐突に、少年が言った。

 思わず武文はどきりとする。先日、その話を梶原としたばかりである。山吹市の子供ならば、誰もが知っている怖い話。

 武文が小さく頷くと、ハヤトは小さく呟いた。


「いっぱい、考えたんだ。うちをあんな風にしたのはどこの誰か……。刑事さんにも教えてもらった。不可解な事件だって言ってた。でも何度聞かれても、答えようがないんだ。何の恨みを受けた記憶もない。事件前に前兆や何も、あったわけじゃない。お父さんとお母さんが、どうやって殺されたかなんてわかるわけがないっ!」


 悲痛な叫び。まだ両手で年齢が数えられるくらいの少年が、突如として日常を失った。いくら聡明で利発な少年だろうとも、彼にできることはあまりにも少ない。

 でも、とハヤトは囁いた。


「……もし不死身の怪物だったら、可能なんじゃないかって思った。それが犯人なのであれば、きっと誰もが納得できる。そう思うんだ……」

「………………」


 武文は、返す言葉を見失う。

 あまりにも、端的な発想すぎる。しかしハヤトがそう思いたい気持ちはとてもよくわかる。えげつない事件を起こした犯人は、憎い。しかしそれが怪現象であれば、心持ちは変わる。


(実際、本当にに不死身の怪物……なんてものであれば、すべて辻褄はあうのかもしれないな)


 そんな考えが心をよぎった。たとえ被害者であるハヤトがその説を推したとしても、刑事である武文が選んではいけない解答である。


(……はは、俺も疲れてるな。そもそも、実際そんなものがいるわけ……)


 その時、突如彗星が落ちたように――あるひらめきが、武文の脳裏に浮かび上がった。一瞬の間、脳裏に様々な思考が飛び交う。

 武文は目を見開き、胸の内に生じた衝撃に息を飲んだ。


(――もし、そう、だとしたら……?)


 考えるほどに、頭に血が上っていく。心臓が痛いくらいに、早鐘を打つ。緊張で身体が強張る。

 その時武文が辿り着いたのは、驚くほどに画期的な発想だった。同時に、単純かつ明快で、考えれば考えるほどそれしかないという気持ちになっていく。


(もし、そうなのであれば)


 だが、それこそ証拠がない。ハヤトの提示した「新事実」だけでは、説明しきることができないい。せめてもう一つ決め手が必要だ。でも、宛がある。


「ハヤトくん、ありがとう。俺は君の言葉を信じるよ」


 急く心を押さえ込んで、武文はハヤトに向かって言った。少年は静かな目で、武文を見つめる。


「梶原おじさんに、言うの?」

「そうだね、共有しておいた方がいい。でも、それは後でだ」


 武文は、真剣な顔で前を向く。


「ハヤトくんの言葉で、ひとつ思い出したことがある。もしかしたら、きみの証言を裏付けできるかもしれない。それさえ出来れば、きっと犯人にたどり着ける。だからしばらく、俺に任してくれるかな」


 少年を警察署の前まで送った後、武文はすぐに行動を開始した。その足で、ある場所へと向かっている。


(記憶では……いや、合ってるはずだ。あの時は、そう……)


 思考をフル稼働させる。面白いことに、とうに忘れたと思っていたあの時の記憶が、今になって生々しく蘇る。

 刑事に成り立ての時に、梶原に言われたことがあった。捜査の基本は、ひたすら行動あるのみだと。九十九パーセントの行動と、残り一パーセントのひらめき。それが大切なのだと。

 どこかで聞いたことのあるフレーズではあったが、妙に納得させられたのも事実だ。梶原の捜査は、地道だが確実だった。そして、彼のことをすごいと思わせるのは、そのひらめきの精度である。梶原の勘により、解決に導かれた事件は少なくない。


(きっとこのひらめきは、正しい)


 武文は、今になって梶原の言葉を実感している。

 思い起こすのは、まだ警官を志す前の自分。どこにでもいる中学生。賑やかで、調子に乗ると周りが見えなくなる危うさを持ち、しかし今より素直だった。

 夏休みに聞いた噂でクラスメートと盛り上がり、軽率な行動に出た。あの頃は、自分にやれば出来ないことはないと信じていた。だがそれは幻想に過ぎず、待っていたのは手痛いしっぺ返しだった。

 過ちに気づいた武文を、救ってくれたのは若い刑事だった。彼は中学生たちを叱り飛ばし、同時に無事で良かったと躊躇いなく抱き締めてくれたのだ。

 世間に対してどこか肩肘を張っていた武文は、無遠慮に与えられた彼の体温に涙が溢れた。そして密かに決意した。将来、この人のようになるのだと。


 暗い森が、口を開けて武文を待ち受けていた。その姿は、記憶の中のものと同じだ。だが、今ここに立っているのはあの時の武文ではない。大人になって、刑事になって、ここに戻ってきた。

 そう、今度は自分が刑事の立場で少年を導く。きっとそれが、自分に課せられた使命だ。


 目的地に辿り着いた。

 わき目も振らずに駆けつけたその場所は、過ぎた年月を感じさせないほどに、記憶のままだった。しかし感傷に浸る間もなく、武文は手当り次第に辺りを探る。目当てのものは、難なく見つけることができた。


「あった……!」


 思わず、歓声をあげた。どきどきする胸を抑え、浅く呼吸を繰りかえした武文は、すぐに戻る準備を始める。


(落ち着け、俺。これがあるからといって、まだ全てが明らかになるわけではない……)


 しかし、事態は恐らく大きく変わるだろう。これさえあれば、捜査は覆る。この事実さえ持ち帰れば、きっと事件は解決へと大きく前進する。そうとなれば、こうしてはおけない。一刻も早く、梶原に合流する必要がある。

 冷静になろうと努めるが、それは難しい話だった。望んだ結末がすぐそこまで迫っている。神掛ったひらめきと起点により、武文は犯人へ王手を掛けている。過去から巡ってきた役目、導かれたのは間違いなく運命だと確信する。幸運の女神が差し出した手を躊躇いなく掴む。

 未来への期待で胸をいっぱいにして、きらきらと顔を輝かせて荷物を詰め、武史が踵を返した――その時だった。


「え…………?」


 突然、背後に受けた衝撃。感じたどん、という軽い振動とピリッと静電気のような小さな違和。

 今は些細なことに構っている場合ではない。急いでいるのだ。何一つ逃さずに捕らえなければならない。邪魔をする者は何人たりとも許すわけにはいかない。

 だが、どうしてだろうか。急に身体が言うことを効かない。


「は、」


 次いで、武史は自分の腹を見下ろして驚きに声がこぼれた。

 腹から、何かが飛び出していた。鈍い色が光に反射する。それは鋭利な刃物の先のようで。

 何も解らないまま腹を見つめていると、じわり、と赤が染み出して服を汚していく。液体は、次々と出てきて地面に向かって滴り出した。


「……?」


 どういう、状況なのだろうか。

 わからない。

 わからないけれど、次々と腹から溢れる赤を止めることができなかった。


「察しがいい、ということは必ずしも良いことではないな」


 耳元で、声がする。

 聞いたことのない声だ。成人男性のようだ。


「お前のような、一介の刑事がここまで気づくなんて想定外だ。だが、正解だよ。ああ、お前はすばらしい刑事だった」


 賛辞のような言葉を贈られ、しかし誉められた気は全くしなかった。

 いや、考える間もなかった。それどころではなかった。

 その言葉と同時に、背から腹へと貫通していた刃物は、勢いよく引き抜かれたのだ。


「あ」


 悲鳴すらでない。

 吐息に近い、そんな声だけが零れた。

 それから為すすべもなく、前のめりに地面へと倒れる。まるで、身体が自分のものではないみたいだ。動けない。意識があっても、身体とは繋がっていないみたいだ。

 地面に横倒しになったまま、全く動けなくなる。手足の先から、冷気が這い上がる感覚。感覚が鈍くなっていくのと同時に、思考も回らなくなる。

 しかし武文は、薄れゆく思考で思い浮かべた。それは梶原の姿だった。


(カジさん……この事件、真相は……)


 せめて端末で、通話さえできれば。ひとつでも伝えることができたら。

 しかしポケットに入っている端末を取り出すことすらできない。次第に視界は暗くなる。視界が滲む。身体に力が入らない。あと少し、あと少しで端末まで手が届く。しかし、その少しが難しい。


(……カジさん、どうか、俺の代わりに…………)


 武文の視界は、暗転する。

 そして二度と、目覚めることはなかった。



◆◆◆



 ――植田武史巡査の遺体が発見されたのは、それから数日後のことである。


 突如連絡が取れなくなった彼には、捜索願いが出されていた。

 彼が事件のことで何やら大変な発見をしたらしいということを、彼の先輩刑事は聞いていたらしい。だが突然姿を消した後輩は必死の捜索もむなしく、ある朝、川で発見された。上流の方から流されてきたようだったが、結局彼がどこへ居たのかは分からず仕舞いだ。また、武文の殉職と、彼が捜査に加わっていたホウジョウ事件との関連性も、結局明らかにはならなかった。

 捜査本部はその後も目ぼしい成果が上げられず、遂には解散することとなる。これにより「ホウジョウ事件」は迷宮入りし、未解決事件としての判を押されて戸棚の中へと仕舞い込まれた。散々粘った梶原刑事も、遂には捜査続行不可という上の判断を飲み込まざるを得なかった。


 そうして月日だけが経ち、人の記憶から少しずつこの事件は遠ざかる。


 ぽつぽつと、雨が降り出す。初めは優しく地面を濡らしていた雨が、次第に強くなる。山から染み出した泥が、雨水に混じり濁流となって街へと流れ出す。

 仕方がないことなのだ。水が流れていくことが止められないように、時の流れも止めることはできない。


 真実がいかに近くにあったとしても、それに気づいて必死に手を伸ばしたところで、得られるのは選ばれた者のみと既に決められている。残念なことに、あの若い刑事はその役割を持たないものだった。だから、無念の中で死を迎えるしかなかったのである。

 それを運命と呼ぶのか、或いは不条理と嘆くのか。


 川が流れていくように、時が流れていく。

 膨大な情報が上流から下流へと運ばれる。あの日、刑事がそうされたように。

 逆行などできない。出来るのは流れに身を任せて、少しでも良い進路を見据えることくらいだ。


 水は流れながらも、次々に形を変える。変化のないようで、しかし流れは長い年月を掛けて、すこしずつ周囲に変化を与える。

 この山吹市でも同じように、目には見えない部分で徐々に、様々なことに変化が起きていた。



 そうして、気づけば十年の月日が経っていた。


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