001 序章(前)

 植田ウエダ武文タケフミが山吹市警察署の刑事一課に配属されてから、早三年。様々な現場を経験したものの、こんな悲惨な事件に立ち会うのは初めてのことだった。


 昨日から降り続けている雨は、一向にあがる様子はない。

 傘を叩きつけるように落ちてくる雨粒は、粒というよりも線だ。ザアアア――と絶え間なく響く雨音に、更に気持ちが重くなる。歩く度に、跳ねた泥が靴を汚す。地面は既に、ぐしゃぐしゃになっていた。現場は幸いアスファルトが敷かれた一帯ではあるのだが、少し歩けば一面に畑が、そしてその奥には山道が続く。土地柄、山の方から少しずつ傾斜があるせいで、土の混じった泥水が小さな濁流のようになって流れてくるのだ。

 暗く重苦しく空を覆う雨雲は、そのまま武文の今の感情を写していた。晴れない感情にため息を吐いて、思考を事件へと戻した。


 捜査本部では、通称「ホウジョウ事件」と呼ばれている。押し入り強盗による一家殺人というのが、共通見解だった。

 強盗殺人など、都市部であれば珍しいことでもないのかもしれない。首都東京では毎日のように人が死に、または消え、真相は明らかにならないのが大半だとも聞く。上京していった知人らの話を聞く度に、武文は他人事のようにやはり人が多い土地は物騒なのだなと思っていた。

 だが、だからといって山吹ヤマブキ市も決して平穏な土地ではない。

 山吹市は、都心からは新幹線で数時間、そこからローカル線に乗り換えてさらに数十分ほどかかる田舎町だ。観光業と港での貿易業でそこそこ栄えているといっても、精々地方都市という程度でしかない。そんな土地でも……いやこんな土地柄こそなのだろうか、顔をしかめるような事件や出来事も起こる。


 自分は、刑事としてある程度場数を踏んでいる――そう思っていた武文だったが、今回現場に立ち会った時、衝撃を受けてしばらく声も出なかった。武文は事件の通報を受け、一番に駆け込んだ刑事のうちの一人だった。通報を受けた家へと荒々しく踏み込み、目にした光景に思わずその場で吐いた。

 事件は、明らかに常軌を逸していた。たとえこれが首都で起きたとしても、雑多な犯罪に埋もれるようなことはなく強い印象を持って騒がれただろう。それほどに、度肝を抜かれるような事件なのである。

 しかしこの場を調べる刑事たる武文がショックを受けている場合ではない。胸にたちこめる厭な靄を振り払うようにして、武文は足早に一人の男の元へと急いだ。


「カジさん!」


 呼び声に振り向いたのは、シャツの上からよれたジャケットを羽織ったラフな格好の男だ。年齢は五十を越えたあたり。白いものの混じった短髪は雨に濡れている。その髪を片手で掻くようにしながら、もう一方の手はビニール傘を差していた。


「タケ、戻ったか」

「はい。言われたものを調べてきました」


 武文は彼――梶原カジワラの前まで来ると、表情を引き締めた。梶原は、武文の先輩刑事だ。武文が刑事課に配属されてから三年、ずっとこの梶原と組んでいる。それまでは交番勤務が続いていた為に刑事たるものの右も左も分からない武文を、ここまで指導してくれたのは梶原だ。


「それで。捜査本部に進展はあったか?」

「それは、まだ何も。カジさんの見立ての裏付けが取れたくらいっすね」

「裏がとれたならいい。確実を積み上げていくのが重要だからな」


 武文は頷く。梶原の捜査への向き合い方は、いつも真摯だ。武文は彼のことを深く尊敬しており、かれのその手法を自分も踏襲したいと常に思っている。

 現場では梶原の指揮に全面的に従い、彼の駒として動く。今日も武文は梶原の指示で、一度署に戻っていた。名目上は現場調査の報告。実際の目的は、捜査本部での進捗確認である。梶原や武文のような下っ端刑事はただ現場へ走らされるだけであるが、捜査本部には最新の捜査情報が集まる。武文は、それをこっそりと確認して戻ってきたのだった。

 報告内容は、おおむね想定範囲だったらしい。梶原はひとつ息を吐く。


「こっちの現場は、だいたい分かることは出尽くしただろう。問題は……」

「もうひとつの現場、ですよね」


 梶原の言葉を引き継ぐように、武文が言う。口にしながら思わず、自分の肩が緊張で強ばるのを感じる。

 ――そうなのだ。閑静な住宅街で起きた、押し入り強盗による一家殺人。そこまでならば、特別目立つ事件でもないのだ。今回のこの「ホウジョウ事件」を特異にしているのが、この「もう一つの現場」なのである。


「現場検証は一通り終わって、今すりあわせしている最中みたいっす。こっちとあっち――共通点が多すぎるって話ですね。新しい物証でも出てくればいいんですけど、どうにもほとんど同じ結果になりそうです」


 武文は、視線を地面に落とした。


「……えぐいっすよ、こんなん。意味がわからない」


 つい、口から飛び出たのは本音だった。


「薄気味悪くて、正直気持ち悪いっす。捜査がすすんで、すり合わせが進む度に嫌悪感が強くなる。意味わからねぇ。どうして、二カ所で同時に全く同じ状況の一家殺人事件が起きたんですか? 犯行の手口も、起きた時間も、家族構成も全く同じだ。違うのは家のある場所と、”方丈ホウジョウ”家か、”北條ホウジョウ”家の、漢字の違いだけだ!」


 呻く武文に、梶原は苦い顔で唇を噛んだ。武文の憤りも最もなことだった。だから昨日から、異例の体制で大規模な捜査が置かれているのである。


 事件の発覚は、近隣住人による通報だった。

 時刻は夜十九時を回ってすぐだった。十月にもなれば、もうすっかり日は短い。すっかり闇に落ちた中、山吹市の住宅街にある一軒家で一人の少年が保護された。

 少年は、恐怖に支配されていた。ガタガタと震えが止まらないまま、言葉を発することもままならなかった。その状態で、家の前で動けずにいるところを近隣の大人たちが見つけたのだった。

 少年の家が異様に静かで、そして鼻を突くような異臭を放っていることに彼らはすぐ気づいた。そして一歩足を踏み入れ、状況を理解するとすぐに通報したのである。

 すぐに警察署から刑事が派遣された。

 しかし同時刻、一件目の家から三キロほど離れた場所からも、同内容での通報があったのだ。異なる点は、一人息子が生きていたか、死んでいたか。時を同じくして、ふたつの「ホウジョウ」家が血の海と化していたのだ。


「カジさん…………彼は、大丈夫でしょうか」


 武文が、その時のことを思いだしながらぽつりと呟いた。

 唯一の生存者、ホウジョウハヤト。彼は事件当日、遊びに行っており不在だった。いつもよりも少し遅れた帰宅が、偶然にも彼の生死を決定したのだった。

 事件発覚時、一番最初にかけつけた数人の刑事のなかに、梶原と武文もいた。すっかり日の暮れた中、玄関先で微動だにもせずにいる少年。発見された時の震えが収まると今度は、抜け殻のように放心してしまったのである。彼の目は、家の中に固定されてそこから動くことがなかった。

 あの日、事件が発覚してすぐに雨が降り出した。

 傘を差さず、濡れることを気にする様子もなく、少年は呆然としていた。その痛々しい姿を、武文は忘れることができない。


「ハヤトくんは今、警察署で保護されている。昨晩はそのまま病院に運ばれて一通り検査を受けたが、異常はなかったとのことだ」

「え、会ってきたんですか?!」

「ああ。お前が捜査本部に行っている間、病院へな」


 梶原の言葉に、武文はわずかながら安堵する。これで少年も助からなかったとなれば更に、気持ちが重くなるところである。


「この後はどうなるんですか」

「……ハヤトくんには、近しい親戚があまりいないようだ。遠縁であれば、他県にいるみたいだが」

「カジさん?」


 梶原は表情を暗くした。


「……彼は、この街を離れたくないと言っている。身内のあんな最期を見てしまったんだ。まだ精神は混乱していて、心を病んでもおかしくはない。証言もはっきりしない部分はあるのに、それだけははっきりと言うんだよ。はっきりと、この街を離れるのだけは嫌だと」

「でも…………」


 そんなに辛い思いをしたのに、という武文の言葉は口からは出なかった。刑事の立場である武文ですら、凄惨な事件の状況に心を持っていかれている。当事者である少年が、何を感じ、どう思っているのか推測するのは難しいことだった。


「まあ、まだ落ち着いていないからな。生きてさえいれば、時間が解決することもあるだろう」


 険しい顔で、梶原が空を仰ぐ。

 土砂降りの雨は、まだしばらく止みそうにはなかった。


◆◆◆


 件のハヤト少年と再会したのは、それから数日後のことである。


 捜査は大きな進展がないまま、数日が経過していた。武文は基本的には梶原と行動を共にしているものの、時には捜査本部の指示で、別行動をすることもある。この日も、朝から梶原とは別に調査を行っていた。

 ちょうど一段落し、捜査本部へ戻ってきたタイミングだった。ばったりと警察署の前で梶原と鉢合わせした。

 武文と梶原は互いに目を丸くし、揃って自然に近づきつつ建物の入口からは離れる。人目に付きにくい建物脇へと辿り着いたところで、梶原が口を開いた。


「タケ、なんだか数日ぶりだな。調子はどうだ」

「徹夜続きっす。現場近くの住人一軒一軒に、調査かけてて……」


 と、武文は梶原の後ろに隠れるようにして立つ小さな姿を発見する。

 それは少年だった。梶原の服の裾を握りしめ、じっとこちらの様子を伺っている。武文は見覚えのある少年の風貌に、はっと目を見開いて梶原を見つめた。


「カジさん……その子」

「ああ……そうだった」


 梶原は武文の視線に気づくと、少年に視線を合わせるようにして腰を落とす。それから、小さな手に何枚かの硬貨を握らせた。


「ハヤト、喉が乾いただろう。そこの自動販売機で、好きな飲み物を買っておいで。そしたら、ベンチに座って待っていてくれるか」


 ハヤトと呼ばれた少年は、じっと梶原を見つめた。数拍あけてから、無言で頷く。梶原に促されるようにして、少し離れた自動販売機の方へと歩いていく。

 年齢は二桁にも届かないくらいだろう。利発そうな子ではあるが、まだ身体は小さく顔つきもあどけない。……そんな子が、件の事件の第一発見者であり、一瞬にして家族を失っただなんて、考えるだけで胸が締め付けられた。


「さっきまで、聞き取り調査だったんだ。俺は立ち会いでな」

「どうして、カジさんが?」

「どうにも懐かれちまった」


 梶原は少年を見つめる。少年は、梶原に言われたとおりに静かにベンチに座っている。大事そうに両手に抱えた缶ジュースに視線を落とす姿は、おとなしすぎるくらいだ。

 梶原の視線には、憐憫に溢れていた。きっと自分も同じような目をしているのだろうと、武文は思った。


「……何か、分かりましたか」

「いや、目新しいことは何も。そっちは?」

「俺もです。でも、なんでですかね。こんなに物証でているのに、根本的な部分が明らかにならない」


 捜査は、順調すぎるというのが正しい解答である。順調に、様々なところから物証や証言が集まっている。

 被害宅の二件どちらからも、明確な意志で荒らし回った形跡があった。犯人と思わしき靴の痕もしっかり残っており、少なくとも靴の種類は二件共通したものだというのが分かった。さすがに指紋は出ていない。ふき取った痕がないことから、あらかじめ手袋か何かをしていたのだと考えられている。犯行時刻は、だいたい十七時から十八時の間だろう。これは、死亡推定時刻から判別されている。


 だが一歩家の外に出ると、ぷつりと犯人の足取りは終えなくなる。足跡もなければ、目撃証言もない。しかしこれに関しては、はっきりしていることもある。

 雨だった。当時、警察が駆けつけた頃から急に雨が降り出したのだ。そして犯行時刻と見られる時間帯も、どんよりとした曇天が空を覆っていたのを皆が覚えていた。日が暮れかかる時間帯、被害宅の周辺は人通りが少ないわけでもない。しかしいつもよりも暗い通りに、人気はさっぱりとなかったようだった。


「雨さえなければなあ……」 


 悔しい思いを滲ませながら呟いた武文に、梶原は、そうではないのだと首を横に振った。


「物証がありすぎるんだよ」

「ありすぎるって……?」

「言葉のとおりだ。タケ、物証っつーのは多くあればいいってもんじゃない。ありすぎるのは、場を混乱させる。現に今回、犯人どころか殺害方法もまだ絞り込めていない。何でか知ってるか?」


 武文は首を振った。確かに、凶器らしきものは発見されていないとは聞いた。しかし検死が終わった今も、殺害方法が割り出せていないとは、異常である。


「残された物証が、足をひっぱっている。見つかったうちの、すべての物証に間違いがないとすると、なんともおかしなことになるんだ」

「どういうことですか」

「物理的に、不可能なんだ」


 梶原は、ぐっと眉間に皺を寄せる。


「家の中、しっちゃかめっちゃかになっていただろう。家具はぶっ壊されているわ、床や壁は陥没してるわ。それで遺体も……同じように強い圧力でやられていた。死因はこれだ。室内の荒れようが、証拠としてそれを確定している」


 言われて、武文も思い返す。確かにそうだった。強盗が、物取りのついでに破壊を尽くしたと思っていたが……。


「検死結果は、圧死だ。圧死ってのは本来、胸部・胸腹部を強く圧迫されたことによって窒息死することを指すんだよ。だが、あれは違う。。それほどの圧力、民家でどうやって掛けるんだよ……特定の工場なんかでなら再現できるっつーけどよ……」


 もしくは、特殊な機器があれば実現可能らしい。だが、それを強盗殺人において使用する意味がわからない。

 ようやく武文は、事態を理解した。つまり人体の構造上、そこまでの圧力を人力でかけるのは不可能なのだ。計画的な犯行であるとしても、手頃な殺害方法でないのははっきりとしている。


「……人の手には余る怪力か。まるで、不死身の怪物だな」

「不死身?」


 ぽつり、と武文の口からこぼれた言葉を、梶原が拾った。ほとんど無意識な発言だったので、武文ははっとして照れ笑いを浮かべる。


「あ、いや……ちょっとガキの頃に聞いた話、思い出しました。ああ、梶原さんって山吹の出じゃなかったっすよね」


 梶原は、刑事になる時に隣の県からやってきたと聞いていた。武文は生まれも育ちもこの山吹市だ。だから、市内のことには詳しい。


「この近隣の子供はみんな知ってるんですよ。山吹市の都市伝説。……あ、都市っていっても、ここ田舎だから怪談に近いですかね」


 それは、少なくとも武文が子供の頃から、子供たちの間で噂されている「怖い話」だった。


「あの山のどこかに古い研究所が立っていて、そこに悪の研究者がいるんです。

 そいつは、夜な夜なその研究所で人体実験をしていて、そこで生み出されたのが、不死身の怪物です。怪物は、ヒトと同じ外見をしているのに、ヒトが持たないような力を持っている。怪力だったり、攻撃を食らっても怪我をしなかったり。なんでも殺しても死なないから、不死身の怪物って言われるようになったらしいです。で、町に紛れたそいつにうっかり遭遇してその正体を知ってしまったら、間違いなく殺される。もしくは自分も研究所につれていかれて、研究の材料にされてしまう――っていう話です」


 特別、珍しい話でもない。怪談としてもいまいち怖さの足りない、中途半端なものだろう。しかし山吹市の子供たちは、不死身の怪物がくるぞと互いにはやし立てながら遊ぶのだ。


「初めて聞いたな」

「ま、子供だましですから。でもあの山は私有地だから基本立ち入り禁止で、子供心に恐ろしさを感じていたんでしょうね。友達の中にも何人か、遊んでいるうちに見たことがない子が混じっていたとか……、そういう話が出たりもして、当時は怖かったんすよ」


 武文は肩を竦めた。

 梶原は再び少年に目を向ける。ちょうど怖い話で盛り上がるのは、彼の年頃の子供だろう。彼も、不死身の怪物の噂を知っているのだろうか。彼の目にもやはり、あの凄惨な事件現場は怪物の仕業に映っただろうか。


「その怪物とやらが犯人だったら、完全にお手上げだな」


 梶原は言いながらも、思う。

 犯人は、実在しない怪物などではない。絶対に、存在するのだ。そして真実を明らかにするのが、梶原たち刑事の仕事なのである。

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