番外編 葵の守護者
培養槽から出たばかりの複製者は、産まれたての赤ん坊と変わらない。だが身体は六歳の子供程度に成長しているし、培養液の中で施した学習による知識も一般常識程度にはついている。
よって、彼らが地に足をつけるようになってからしばらくは、身体の使い方を覚えることに徹するのだ。その最初に学ぶのは、言葉である。
それは、後に最高傑作と呼ばれる複製者も同じことだった。
「お前が、葵房の新しい複製者か」
言葉を操るようになってから、まだ数日。やってきた男が、こちらを見下ろして言った。男というよりも、少年だ。まだ十六歳くらいだろう。しかし彼の堅い表情と尊大な態度が、実年齢よりも大人びて感じさせた。
声を掛けられたものの、立ち上がることすらままならない身体だ。辛うじて顔をそちらに向けたところで、少年が礼の姿勢を取る。
「俺は酒井玄三郎。お前の、培養家になる男だ」
これには驚いて、思わず目を見開いた。
培養槽から出た時点で、既に自身の複製者としての役割や、培養家との関係は頭に入っていた。彼が培養家ならば、自分とは主従の関係となる。
自分は葵房――その筆頭たる酒井家の複製者なのだ。だが培養家がこのような、年若い少年だということは知らなかった。
(しかも――)
目の前の少年の真剣な表情に、背筋が伸びる。彼は自分より年下の複製者に対して、こんなにもきっちりと挨拶をするのか。そうであればこちらも、相応な礼を返したい。そう思うのは当然だった。
(きっと、畏まった態度こそがこの人には相応しい)
そう思うが、身体はいうことを効かない。まだ訓練の途中である。日常生活すら満足にいかない。今も床に座っているのがやっとで、ただ首を傾けて彼を見上げるしかない。それでもなんとか、唇を動かした。
「ぶれ、い」
「!」
「ぶ、無礼、をおゆるし、く、ください。おれは、ふくせ……複製者、ほんだ、ただかつです」
それは、なんと不格好な挨拶だったろう。だがなんとか、そこまで言葉にすることはできた。僅かな安堵に息を吐くと、少年――玄三郎は、びっくりしたような表情を浮かべていた。こちらを見つめ、しきりに頷く。
「成程。まだ培養槽から出たばかりだと聞いていたが、賢いのだな」
玄三郎は呟く。腰を僅かに落とすと、こちらに視線を合わせて尋ねた。
「名は?」
「え……、ほんだ、」
「いいや複製元の名ではない。お前個人の名前だ」
その問いかけの答えは、持っていなかった。現代の本多忠勝となるために生まれてきたのだ。個人の名などない。忠勝以外の何者でもなく、また周囲も忠勝であることだけを求めてきた。それを、なんと伝えれば良いのだろう。黙ったまま思案していると、玄三郎はまた頷いた。
「そうか。無いか」
それから、じっとこちらを見つめる。少しして、口を開いた。
「……キダ」
「……?」
「キダ――木田、平八郎というのはどうだ? ああ、しっくりくるな。お前は今日から、木田平八郎だ」
驚いて、咄嗟に反応ができなかった。でも笑う玄三郎を前に、だんだんと胸が温まっていく。
それは、生まれて初めての感動だった。
今まで「複製者本多忠勝」に与えられたものは、全てが借り物であった。名前も、能力も、容姿も。全てが借り物の、偽りの人生。複製元の代用でしかない我が身。
――「木田平八郎」の名は、そんな自分へ初めて他人から与えられた、自分だけの持ち物だった。
それがどんなに嬉しいことだったか。表現する言葉が見つからないほどに、大きく心が動いた。
「木田平八郎。これから、宜しく頼む」
「は、はい!」
だからこの日、木田平八郎はようやくこの世で生を得た。間違いなくそうであると、思い返すたびに思うのだ。
葵房における複製者の在り方は、他の研究房とはかなり異なる。
葵房は複製者を、完璧な「偉人の複製」としてつくることに執心していた。それは特に、複製者本多忠勝に対して顕著に現れた傾向だった。
求められたのは、「本多忠勝本人」。人智を越えた超人ではなく、史実通りの武将本多忠勝の複製であることが重要だった。平八郎は周囲から、史実よりも史実らしく、戦国最強を体現することを期待された。平八郎はそれに対し、期待以上の成果をあげた。自らを本多忠勝として仕上げ、いつしか自分でも、本多忠勝本人であるという自負すら生まれていく。
そんな彼を、玄三郎は常に手元へと置いた。複製者の兵器としての能力だけでなく、表の仕事、つまり酒井製薬においても腹心として登用したのだ。
本多忠勝の復活を望むものは、平八郎を神聖視する。複製者として期待を寄せる者は、平八郎を兵器として恐れる。しかし玄三郎はそのどちらでもなく、平八郎を部下のひとりとして扱った。そのことが気になって、一度尋ねたことがある。
「貴方は、私に何を望むのですか」
玄三郎はこの問いに眉根を寄せた。そして、詰まらぬことを聞くなとばかりに答えたのだ。
「望むもなにもない。お前は私の最高傑作だ。ただそこに居れば良い。木田平八郎は、酒井玄三郎の宝だ」
――以降、平八郎は一度も迷わなかった。平八郎の心には、このときの玄三郎の言葉がいつも輝いていたからだ。
平八郎は玄三郎の隣にいたから、本多忠勝ではない、複製者として生まれた「自分」を失わずに生きてこれた。それは幸運なことだった。
だから、ずっと決めていた。
主を守る槍になろうと。何があっても彼を守る。この人生は葵房のために存在しているが、この命は酒井玄三郎に贈ろうと。
玄三郎は葵房を守るうちに、多くの悪事に手を染めた。中には平八郎でも看過することのできないものもあった。でも平八郎は、玄三郎の側を離れようとは一度も思わなかった。泥を啜るのならば、自分もそれに習おう。手を血に染めるのならば、その罪を共に背負おう。平八郎は、玄三郎がいるからこそここに生きている。それは紛れもない、事実だった。
そして、その時は正しく訪れた。
「逃げろ、玄三郎!」
酒井製薬へやってきた見知らぬ複製者。情けなくも平八郎は、全く刃が立たなかった。動かない身体に、無数の矢が刺さる。もう長くはもつまいと、自分の死期を悟る。
ただひとつ、叶えなければならない願いがあった。心に決めた主君。彼だけは、守りきらなければならなかった。
「生きてくれ……玄三郎……」
去っていくその姿を見つめる。
遠ざかる背は、一度こちらをちらと見てから、もう振り返ることもなかった。それでも、知らず平八郎は微笑んでいた。
嗚呼、全く、なんと理想通りの最期だろう。
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