番外編 或る無差別傷害事件に関する調書
辻斬りという言葉は、マスコミの報道で世間に公表されたが、それ以前から捜査関係者の中で使われていた仮称でもあった。
山吹市内で起きた、無差別傷害事件。夕暮れ時に現れる正体不明の人物が、一太刀傷を負わせて去っていくという怪事件だ。
その得物は不明だが、かなり刃渡りは長めで、日本刀のようなものではないかと考えられている。被害者は確認できているだけでも複数人おり、その誰もが、犯人の容姿どころか性別も印象も、何もかもわからなかったと答えている。
梶原は、昔の刑事仲間からこの件に関してのアドバイスを求められた。捜査班の中でも、辻斬り事件への対応には意見が割れているらしい。
傷害とはいえ、被害者の誰もが大した怪我を負っていないからだ。深く斬りつけられた者も、すぐに止血剤を投与され、数日後にはすっかり傷跡も消えている。そして犯人像が朧げだからか、襲われた当人ですら夢現で、現実の出来事だったのか疑いすらするという話だった。
「そうさなぁ。話を聞いた印象は、まるで事件というより都市伝説だな」
「カジさん、本当に良い勘をしてますね」
元後輩は、梶原の言葉に苦笑した。
「実は、そういう意見が大きくなりつつあるんですよ。警察官が揃いも揃って、呆れる話ですけど」
「そういう意見?」
「犯人は人間じゃないってやつ。狸か狐か……はたまた気味の悪い化け物の仕業なんじゃないかってね。ほら、子どもたちの間でたまに流行るでしょ。山吹七不思議とか、不死身の怪物とか」
梶原は、内心ドキリとした。しかし、僅かに強張った表情は気付かれずに済んだようで、元後輩は話を続ける。
「あり得ないでしょ。少なくとも、治安を守るためのオレたちがそれを認めちゃいけない。でも事実として、不可解な状況なのは確かなんです。つまり……」
「犯人は、自身を都市伝説のように見せかけようとしている、か?」
梶原が継いだ言葉に、刑事は深く頷いた。
◇◇◇
通話を切るなり、隼人は苦笑した。
梶原は過保護である。隼人を出会った頃の子供のままだと思っている節がある。それがくすぐったくもあり、また少々焦れったくもあった。もう小学生ではなく、高校生だ。心配されなくとも、ある程度のことは自分でなんとかできる。
「カジさん、辻斬りには気をつけろってさ。夕暮れ時は出歩くなって、小学生でも中々難しい門限だよ」
会話の相手は笠間だ。笠間の言葉少なな相槌を受け、隼人は話を続ける。
「それに気をつけろっていっても、既に遭遇済みなんだよな」
「……あれはやり手だった」
笠間も、隼人の言葉に同意する。
そう、この二人は既に先日、辻斬りと一戦交えている。というより、襲われたところを撃退したというのが正しい。
つい数日前のことだ。笠間と二人でいる時に、突然そいつは現れた。咄嗟に警戒して武器を構えた笠間に、辻斬りは容赦なく隼人を狙った。隼人も身を翻して事なきを得たが、笠間が攻撃を加えようとしたその時には、煙のように姿を消していたのだ。
「ただの人間ではないよな。あんな、体格すら不明の影みたいなやつ」
「目的が不明なのが、気になる」
「そうだよな。組織の人間だったら、もっと堂々とやってきそうだ」
でも、と隼人は笠間に目をやり、にやりとした。
「オレたちの邪魔をするなら排除するまで。そうだろ?」
隼人の言葉に、笠間は大きく頷いた。
◇◇◇
「誠くんたちが辻斬りに遭遇、ねぇ」
咲子は思案顔で呟いた。
葛城邸からの帰り道である。誠の山吹市への帰還を察知し、葛城邸へ押し掛け、味方につけることに成功したその夜である。複製者の話をしているときに、ぽろりと出たその単語。辻斬り、は今の咲子の頭を悩ます様々な問題のうちのひとつでもあった。
「複製者の可能性は高いわね」
「そうだね。組織の手の者ではないだろうから、どこかの研究房の逃亡者だろう」
「葛城夫妻の跡取りに、正体不明の複製者。更に得体のしれない辻斬りなんて手に余るわ」
頭を抱える咲子に、晴明は笑う。
「そんなこと言いながら、いつも貴女は完璧にこなすでしょう。伊達に、藤原家の若き当主ではない」
これに対して、咲子は不満そうに口を尖らせた。
「藤原房の最高傑作たる複製者が、バリバリ働いてくれれば、或いはどうにかなるかもね」
「人使いが荒いですねぇ。でもそれでこそ、私が見初めた培養家だ」
肩をすくめて晴明は、それで、と尋ねた。
「まず最初の一手は?」
「そうね。サカイリゾートに潜む、複製者狩りかしらね」
◇◇◇
妙な報告があがっている。それは酒井も認識していた事実だった。
「辻斬りか」
世間を騒がしている、無差別傷害事件である。これが都心部であれば、それほど際立って不可解な事件ではない。しかし山吹市は、都市からは離れた地方都市だ。隣近所どころか、代々住まう者たちは互いの顔を良く知る。そんな中での正体不明の辻斬りは、現実的な犯人像を描くよりも、奇怪な怪異としての印象を住民に植え付けているのだ。
「人ではないという噂ですよ。姿形がまるで認識できないそうで、真っ黒な影が襲いかかってくるのだそうです」
説明をする木田に、酒井は顔を顰めてみせた。
「複製者か」
「可能性は高いですね。組織には属してない者でしょう」
「無所属の複製者であれば、藤原房の担当管轄だ。頭が痛いのはこの上ないが、我々に手を出す余地はない」
「ああ、あの若い女人ですか」
木田は、藤原房の若き女性当主を思い浮かべていた。まだ二十代だったかと思う。しっかりしている印象はあるが、常に酒井に従う木田からすれば、まだ若輩者といったイメージだった。
しかし酒井は、木田の思考を遮るように言う。
「若い女だからと油断はするな。あそこの複製者は厄介なのだ」
「ああ、安倍晴明……」
この言葉には、木田も同意するしかなかった。関わったことはあまりない。だが、その噂は十分すぎるほど聴いている。
と、木田はあることに思い至った。
「あの方が関わっている、ということはないですか?」
酒井はこの問いに、一瞬目を鋭くした。けれどもすぐに、首を横に振って息を吐く。
「さてな。天の考えることなど、私には分かりはせんよ」
◇◇◇
混沌としていた。
神尾令の精神は夢現であり、常に狂気と狂乱の只中にある。今に始まったことではない。彼はあの時からずっと、もう何十年も現実から心が乖離していた。
彼は決して、多くを望んだわけではない。ただ平穏な、どこにでもあるような人生が欲しかっただけだ。でもそれは許されることはなかった。彼女との逃避行は、神尾の精神を蝕んでいった。
その元凶たる彼女を喪った。それは遂に突きつけられた終わりであり、ある意味の救いであった。あのまま、自身も炎に飛び込まなかったのは、自分でも不思議なことだった。彼女に再び何かがあれば、きっともう生きていけないだろうと思っていた。だが現実の神尾は、結局まだこうして息をしている。不思議だった。
静寂の中、はっきりと思考は冴えている。背後から誰かがやってきたのも、すぐにわかった。
「貴様、辻斬りだな」
振り返ることもせずに、神尾は断言した。相手の正体にも、検討がついている。会うのは、実に数十年ぶりか。それはまだ神尾が少年の頃であり、まだ明るい未来だとか希望だとかを信じていた時代のことである。
けれども、背後の人物は否定を述べる。
「残念ながら、半分は不正解です。辻斬りが、手の内の者というのは正しいですが」
「何をしに来た」
「貴方になら、わかるのでは?」
「分かるものか。貴様のような人外の心情など」
「人外だなんて、ひどいな。それを言ったら君の姉君だって、同じものだろうに」
「…………」
「貴方の忌憚のない意見を聞きたかったんです。どうでしたか、■■■は」
問われた名に、神尾は陰鬱な気持ちになった。
「……あれは、だめだ。聖者でも、ましてや救い手でもない。期待をしようと、状況を引っ掻き回すだけだろう」
苦々しく答えた神尾に、しかし返ってきたのは楽しげな声だった。
「それが聞けただけで収穫だ。ああ、そうだ。神尾令、死に方を探しているのですか」
「馬鹿をいえ。貴様が来た時点で、そんな気は失せたわ」
神尾はそっと目を閉じる。
「貴様がここに来たということは、もう続きはないということ。滅びが決まった世界で、死を選択しても結果は同じではないか」
吐き捨てる言葉には、諦めが混じっていた。神尾は深く息を吐く。
「だが、そうだな。折角、辻斬りに遭ったのだ。さっさと引導を渡してもらうのも悪くはない」
神尾の言葉に、背後の男は小さく許諾した。
それから間もなく。ぽとり、とひとつの首が落ちた。
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