066 其男正体不明瞭、三

 最古の記憶は、既に遠すぎる過去。

 まだ彼が、人間らしい人間であった頃の話。まだこの国の文明は発達しておらず、人々も今とは全く異なる生活様式の中で暮らしていた時代。その頃の彼は、まだ人生にあらゆる意味で期待していたのだと思う。


 人生は、順風満帆だったわけではない。出自は厳しい方だった。祖先をたどれば名家であるのに、先々代頃から傾きかけ、出世街道は閉ざされていた。それでも当時の総人口からすればかなり良い地位を持ち、生活も豊かである。だが、更に「上」を目指したいというのがその時代、彼や彼を取り巻く周囲の人間が当然のように望むことだった。


 男が他の凡人とは異なったのは、生まれながらにして自身をよく解っていたことだ。利口であることに自覚的であり、身分は不利であるが自由はあった。このことが彼を地位に甘んじず一念発起させ、自分の才を確かめる方向へ動かした。判断は、間違っていなかったのだろう。見事に才覚を現し、結果的にはその道の権威と称されるまでになった。


 ――だがそうして上り詰めた後で、満足してしまった。

 働くだけ働き、地位も名誉もなにもかもを欲しいがままにした後で、突然、何もかもを放り投げたくなった。ぶつりと、何かが切れた。

 いつだったか。何が原因だったか。全くもう覚えていないけれど、ある時突然、それは訪れたのだ。


 男は思った。「今のこの人生では満足できない。何一つ、達成できていない。全てをやりなおし、一からまた積み上げたい」と。


 もしまだ若い時分であったなら。そして、自由にできる金や地位が十分に約束された身であったのならば、また違っただろう。だがこの時、男はもう既に人生も日暮れに傾きかけていた。今から、今のままの自分で、まっさらな新しい人生を歩み直すのは難しい。世間に浸透しすぎた名と地位と、老体が恨めしい。

 しかしどうにも歯痒かった。小さな島国の、さらに閉ざされた組織の中でしか生きたことのない自分の視界の狭さ。それを越えられない己にたまらなくなる。だが男は聡かったし、ある程度自身に対して信頼があった。


 どうにもならない、わけではない。方法さえ選ばなければ、どうにでもなる。何もかもを新たにして、また少しずつ研鑽を積めばたどり着けるものではあると。

 では、どうしたら良いのか。答えはひとつである。時間さえ、あれば良かったのだ。


 ――思えばここで違えたのである。

 その頃は今と比べ、どんなに人間らしいことだったか。あのまま人間としての生を全うしていれば、さぞや素晴らしい一生だったのだろうの思う。


 だが、そもそもの素質はあったのだ。いくら己の欲望の為とはいえ、知識欲のために自分も含めた全てを捨てるなど狂気の沙汰ではない。結局、普通は机上の空論と唾棄される計画を男は実行した。そして、彼は理想を現実とした。


 それから、どれほどの時間が経ったのか。もう数えるのすらやめてしまった。今や飽きるほどの時間を持て余し、無限の自由は暇を潰すことで消化する。

 夢など、もう数千年は見ていない。


◇◇◇


 咲子たちは、館の中を進んでいた。

 松実寺組が信者たちをくい止め、それから隼人、笠間の二人が咲子、誠、ハルの三人を先に行かせた後である。内部にも信者は数名いるだろうと、警戒し進んではいるけれど全く遭遇しないままにかなり奥の方まで進んでいた。


「……人気がまるでないな」


 ハルはあたりの気配を探りつつも、拍子抜けしたように呟いた。もちろん、妨害をしてくる信者は居ない方が良い。だけれどあれほど外は信者たちが進入を拒んできたのだ。中も相当、追いにくいようにしていると思ったのだが、罠のひとつも設置されてないようである。


「どうやら内部に多少手を加えているようね。元々の旅館の間取り図と、全く同じではないみたい」


 端末で図面と照らし合わせながら、咲子は行き先を確認しつつ進む。誠は横からのぞき込み、なるほどと頷いた。

 本来であれば続いている廊下は、大きな瓦礫やがらくたが積まれて進めないようになっている。扉がふさがれている場所もあった。極端に、進める場所が制限されているのだ。


「これって、通り道を指定されているみたいだ」

「そうね。そうなんだと思う。思えば、ここまでほとんど一本道だったでしょう。何もかもあいつも思い通りってわけ」


 咲子は不快げに眉をしかめた。


「でも最終目的地はわかるわ。この、大広間よ」

「確かなのか?」

「ええ。事前調査でここが、千手教の儀式を行う重要な場だということがわかっているの。ここで、神とやらを召還するんですって。だから間違いなく、晴明と教主はここへ向かっている」


 もちろん、それも晴明と共に入手したデータである。彼が手を加えている可能性は少なくない。だが、偽の情報で咲子を攪乱するというのは、あまり彼がやりそうなことではないのだと彼女は断言した。


「晴明は無駄なことをしない。もし私をだまして、見つからないように秘密裏に今日という日を迎えようと思ったならいくらでもできたはず。でもこの様よ。晴明は楽しんでいる。私が妨害しにくることを望んで、わざわざ呼びつけているんだわ。だから、建物に入ったところからは誰も私たちを襲わないんでしょう」


 咲子には解っていた。晴明は何も、信者を戦力としてみてはいない。いや、むしろ彼にとって信者たちは戦力以下だろう。彼が本気になれば、協力者なんてひとりもいらないに違いない。彼には自在に動かせる式神もあるのだ。

 誠は咲子の横を歩きながら、口を開いた。


「藤原さん、聞いていいかな。晴明のこと」

「……私に答えられること、あまりないわよ。本当に徹底して秘密主義だったから、私も今になってあいつがわからなくなっているもの」

「それでもいい。少しでも手がかりになるようなことがあれば、知りたい」


 咲子は、それならばと頷く。誠は尋ねた。


「晴明は、複製者なんだよね? ハルは宮本武蔵の複製者だけど、ハルっていう名前がある。笠間くんもだ。でも晴明は安倍晴明っていうままだろう?何でなのか気になってたんだ」

「ちゃんと、名前ならあるわよ。藤原清治っていうの。組織に関係のないところでは清治の方で名乗っているわ」

「でも、組織では晴明?」

「ええ。彼の希望でね。私が出会ったときから晴明は、晴明という名前で自分を称していたから……その理由なんて、考えたこともなかったわ」


 全くこれまでに気にしていなかったことだった。だが一度気になると、どうして、という疑問がぐるぐると回る。


「組織で培養された子たちも、基本的には今与えられた名前で呼ばれる。世間に馴染める為に、そして他の培養家、複製者に正体を暴かれないために。でも晴明はずっと晴明だった。彼は昔から組織に協力をしていたから、隠す必要がなかったからなのかもしれない。でも……」


 腑に落ちない点は、探し出せばいくらでもある気がした。疑い始めるときりが無さそうだ。今まで、いかに清明のことを見ていなかったかが突きつけられるようである。

 ハルが横から口を挟む。


「そんなのどうだっていい。聞きたいことはひとつだけだ。――晴明に、勝つ方法はないのか?」


 相変わらず、竹を割ったような潔い言葉だった。ド直球の問いに、咲子もちょっとだけ表情を緩める。だが、返した言葉はシビアだった。


「正直、未知数よ。私は培養家として、そして陰陽術の弟子として晴明と行動をともにしていたけれど、その力の全ては見ることができていない」


 咲子は一度言葉を切る。それから、前を強い視線で見据えた。


「でもやらなければならない。私は晴明に、聞かないとならないの」



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