第7話 仮面夫婦のお馴染みの茶番

インツォリア夫人の朝は早くはない。


新聞記事には、毎朝笑顔で、仕事に出掛ける夫を見送ると大々的に書かれているが真っ赤な嘘である。


リーシアが仕事に出掛けるレオを見送ったのは、初夜の翌朝、その一回きり。


それを見送りと呼べるのかさえ疑問である。


本来ならば新婚初日の朝は、昨夜の甘い記憶に浸りつつベッドでまどろむものだが、それぞれの私室で一夜を明かした二人には甘い記憶なんてものはありはしない。


結婚届にサインをして、役所に提出をして、その足で近くのレストランで食事を摂った。


婚約期間中からすでに街の有名人だった二人なので、早速記者が近づいて来た。


何度も取材を受けた事のある老舗新聞社のベテラン記者だ。


大袈裟なほど大きな拍手と共に結婚を祝福されて、全く幸せな気分に浸っていなかったリーシアは頬を緩めるどころか強張らせた。


先に口を開いたのはレオの方で、外向けの穏やかな笑みを湛えながら、祝福に対するお礼を口にして、妻は緊張しているようなので取材なら私が、と応じた。


これまでの囲み取材では、レオはリーシアの事を婚約者、と呼んだ。


つい今しがた結婚届にサインをしたばかりだというのに、さっぱり既婚者の自覚が持てなかったのだが、レオが、自分を妻と呼んだことで初めて、彼の配偶者になったのだと理解した。


婚約期間中は、リーシアはインツォリア子爵家のタウンハウスを仮住まいにしており、今日からまさに二人きりの生活が始まるタイミングだった。


視線を下げたままのリーシアを見て、記者は納得の様子で微笑んだ。


新妻らしい緊張と期待と不安が入り混じった表情だと受け止めたらしい。


新生活への抱負や、新妻に期待する事、ハネムーンの予定などの質問に、レオは恙なく答えた。


時折リーシアに視線を向けて確かめるように頷き合うと、それだけですっかり意思疎通の出来ているカップルに見えるから不思議だ。


味のしない食事を終えて、帰宅した後、少し迷って初夜の為に用意したネグリジェに着替えた。


最初から感情の伴わない結婚ではあるが、それでもこれから夫婦として生活していくのだから、やはり子供は必要だろう。


この結婚を提案したのはレオだが、それを選んで受け入れたのはリーシア自身だ。


彼の妻としての役目を果たす義務がある。


世の中には、愛のない形だけの夫婦だっているし、もし子供が生まれれば精一杯大切に育てる覚悟もある。


残念ながら、彼に抱かれる覚悟をすっ飛ばして、子供を産む覚悟をしてしまったリーシアだが、結局レオが、リーシアの私室のドアをノックすることは無いまま朝を迎えた。


何となくそんな気はしていた。


それでも、彼が部屋に来てくれたなら、何かが変わる気がしていたのだ。


一等区画に別の屋敷を持つことも提案されたが、レオの会社からほど近いアパルトマンにそのまま住み続ける事を選んだのは、彼の生活をこれ以上変えたくなかったからだ。


リーシアに対して彼が抱いているのは責任感と罪悪感。


だから、きっと大きな屋敷や沢山の使用人を望めば彼は答えてくれるだろう。


けれど、リーシアはそれを望まなかった。


3LDKのアパルトマンには、シャワーブース付きの客室が用意されていた。


リーシアの気持ちを慮って、彼はそこをリーシアの私室にしてくれた。


当然ながらベッドは別。


最初から彼にその気はなかったのだろう。


まんじりともせず夜明けを迎え、早々にリビングで物音がし始めた時、リーシアは覚悟を決めた。


これからも、彼はこの生活を続けるつもりなのか、確かめる必要がある。


リーシアの問いかけに、レオは、必要な役割さえ全うしてくれれば他には何も望まないと答えた。


つまり、本当の妻は必要ない、と告げたのだ。


エレーナと一緒になって準備した新婚生活の為の必需品たち。


キラキラと眩しい笑顔で夫婦生活への憧れを語る姉の隣で、どうにか笑顔を浮かべながら、それでもどこかで期待をしていた自分が惨めでどうしようもなかった。


けれど、勢いのままにアパルトマンを飛び出すわけにはいかない。


リーシアはもうすでにインツォリア夫人なのだ。


いつどこでカメラが向けられるか分からない。


リーシアの評価は、レオの、そしてレオの経営する会社の評価に繋がっている。


自分の浅慮で、彼の人生そのものが滅茶苦茶になってしまう。


任された役割について正しく理解した瞬間、リーシアは生涯をかけてインツォリア夫人を演じようと心に決めた。


だから、今日もレオがシャワーを浴びて、出勤した後で部屋を出る。


二人がアパルトマンで顔を合わせる事は殆どない。


コーヒーを飲みながら、テーブルの上に置かれている新聞に目を通す。


自分たちの記事については特に念入りにチェックする。


取材が増えた頃から、レオが事前に文面の確認を依頼してくれたので、不名誉な事は書かれていないのだが、リーシアが気になるのはそこでは無かった。


いかに仲睦まじい夫婦として好意的な目で見られているのかを確認するのだ。


それは、インツォリア夫人を演じているリーシアに対する評価でもあった。


最初モデルにしていたのは亡くなった母だ。


いつでも家族に寄り添い、誰よりも夫を信頼して、死ぬ瞬間まで頼りない夫を愛し続けた優しい女性。


亡くなった母は、リーシアの憧れでもあったのだ。


どれもいつも通り、インツォリア夫妻を褒め称える文面になっていて、リーシアが参加した職業訓練校の視察についても取り上げられている。


社会的弱者である女性の地位向上は、困窮していた生活を知るリーシアにとっては悲願でもあった。


レオの会社は、積極的に女性タイピストを雇用しており、今後さらに需要が増えるであろう、女性事務員の養成も合わせて行う職業訓練校を昨年設立した。


レオの考えに賛同してくれた、セギュール・カンティーナと、第二都市に本店を持つ老舗百貨店を経営するフォルテリオン家からも多額の寄付が集まり、予定していたよりも大きな学校が誕生した。


当初は女性向けに開校されたが、今年からは建築や、小売に関する講師も招く事ができ、男女問わず通える訓練校になっている。


大学に通えない中流、下流家庭の子供への支援としては、一つ目の目標をやっと達成したところだ。


設立当初から携わって来たリーシアは、時間を見つけては学校に顔を出して学長や講師たちとコミュニケーションを取るようにしている。


一通りの新聞を読み終えた後は、キッチンに立つ。


昼食会に招かれている時は何も食べずにやり過ごすことが多い。


三食お腹いっぱいに食べられる生活は長く送って来なかったので、朝食を入れるとランチが入らなくなってしまうのだ。


今日の予定は、レオの会社に顔を出した後、女性評議会に参加することになっていた。


結婚前に勤めていた焼き菓子店で覚えたレシピをアレンジして、何種類かのマフィンを作る。


プレーンマフィン、バナナマフィン、ブルーベリーマフィン、チョコチップマフィン、そしてチーズ入りのマフィンだ。


社員への挨拶と、夫との細やかなティータイムが目的、というのが表向きの理由である。


忙しい仕事の合間に、妻と休憩を取る時間が息抜きになっている、とレオが取材で答えてから、リーシアはお菓子片手に会社訪問を始めた。


嘘を真実にする為だ。


朝の時間も綺麗にすれ違う二人なので、初回は当然事前連絡なしの訪問になった。


社長が不在なら願ったり叶ったりだと思いながら、印刷会社のエントランスを入れば、ちょうど会議を終えたレオが、取引先を見送るためにエレベーターから降りて来たところだった。


顔を合わせて固まったのは僅か三秒。


すぐにいつもの作り笑いを浮かべて、リーシアの肩を抱き取引先に向かって自慢の妻ですと、紹介して来た。


「今朝は慌ただしく出かけてしまって悪かったね。寂しくなって会いに来てくれたのかな?」


あなたが何時に起きて何時に会社に出掛けたのかも知りません。


「この時間なら、あなたの手を煩わせることも無いかと思って」


必要な社交を済ませたら即座にお暇致します。


言葉とは裏腹な腹の中は決して見せずに、夫に構って貰えず寂しい妻を装う。


「可愛い妻の来訪ならいつでも歓迎するよ」


甘ったるい笑みと共に慰めるようなキスが髪の上に落ちて、リーシアは一瞬真顔になってすぐに笑顔を取り繕った。


夫婦としてのスキンシップでは当然範疇内だが、赤の他人としてのスキンシップなら完全に範疇外である。


レオはおしどり夫婦と呼ばれるようになってから、こうして分かりやすくリーシアに触れるようになった。


人の目やカメラがある場所では特に。


円満夫婦をアピールする為には必要な事だと頭では分かっているけれど、当然ながら心中穏やかではない。


それでも勿論のこと茶番は続く。


「いやぁ、本当に噂以上に仲睦まじい夫婦ですなぁ!羨ましい」


「ぜひ次はご夫婦揃っておいで下さい。私たちはまだ夫婦として新米ですから、長く円満に過ごせる秘訣を教えて頂かないと」


「ええ、ぜひ。素敵な結婚指輪がその手に馴染むまでのエピソードをお聞かせ頂きたいわ」


すっかり変色した左手の薬指に視線を向けて目を細めれば、照れたように男は笑って妻に予定を聞いておきますと、承った。


当然ながら、この一幕はあっという間に噂になって街中を駆け回り、リーシアは会社訪問の回数を増やすことになった。


最近は、レオの代理ではなく、リーシア自身に出席依頼が来る行事も多いため、しょっちゅう顔を出せるわけでは無いので、今日訪問した際には、出来るだけ多くの社員に笑顔を振りまいておかねばならない。


通いの家政婦が来る前に、オーブンをフル稼働させて大量のマフィンを焼き上げると、リーシアは貞淑な妻の仮面をかぶって、大通りへ向かった。

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