第4話 仮面夫婦の夫の悩み

「ほら、受け取れ」


ノックも無しにドアを開けて無遠慮に踏み込んできた副社長が放り投げたそれを受け取って、レオは顔を顰めた。


「先週の取材の原稿だと。まーた書かれてるぞ、素晴らしい夫婦愛ってな」


リーシアとの結婚以降、記者からの取材が軒並み増えてきたため、新聞記事にする前には内容の確認を依頼している。


万一不利益な内容が書かれていたら困るからだ。


その心配は毎回杞憂に終わって、大袈裟すぎるおしどり夫婦劇が描かれた文面に渋面を作る事になる。


にやにやと人の悪い笑みを浮かべる咥え煙草の友人を睨みつけてから、ざっと内容に目を通す。


「もう俺が妻同伴でどこかに行けば、それは全て素晴らしい夫婦愛に変換されるんじゃないか?」


【カンティーナ第二博物館に設置される、アリアニコの女神像の除幕式に参加したインツォリア夫妻は揃いの菫色ネクタイとキャプリンで観衆に笑顔を見せた。女神像のポーズについて夫人がインツォリア氏に質問を投げかけると、何事かを囁いて妻の髪にキスを贈ったインツォリア氏の手を夫人が軽く叩き返すという何とも微笑ましい一幕もあり、終始腕を組んで夫人をエスコートするインツォリア氏の紳士的な態度に、館内の女性学芸員たちは羨望の眼差しを送っていた。】


「マーカス。問題ないと新聞社に連絡してくれ」


「出かける度にこれじゃあ大変だな、お前ら」


「もう慣れたよ・・・」


「結婚して何年だ?」


「今年で・・・もう三年だな」


「子供が出来ないのは、お前が妻を子供に取られたくないせいだって書かれてる記事もあったけどな」


「その方が外聞がいいだろう?」


ケロリと言って、書類整理をしていた秘書のマーカスに原稿を渡す。


「結婚をした女性は、皆一様に子を産まなくてはならない、という固定観念を私は変えて行きたい。結婚とは、共に支え合う事を約束した夫婦が交わす誓いであって、そこには子供は含まれていない。子供を持たない妻が自分を責める事にこそ疑問を覚える。私は妻を、子供を産むための道具だと思った事は一度も無いし、これから先も一生そうは思わない。妻は、私の愛を受け取るただ一人の女性であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ」


結婚二年目の春に、記者から飛び出した、なかなかコウノトリが来ませんね?という下世話な質問に対するレオの返答だ。


レコーダーで録音されたそれは、一言一句違わず翌日の新聞記事になり、そして、外向けの夫の株は急上昇した。


比例するように、さらに取引先も増えて、リーシアは社会貢献活動にますます熱を入れるようになった。


外向けの夫としては実に頼もしく誇らしい限りである。


当時と同じ言葉を朗々と述べた友人に、バートンが口笛を吹いて見せた。


「完璧に覚えてんのか!?」


「あれから何度も講演会で言わされた台詞だ。寝起きでも言えるよ」


記者からの質問に、口ごもったリーシアを庇うつもりで口を開いたが、落としどころが分からなくなって、最終的にはああなった。


そもそもインツォリア夫妻の夫婦生活は最初から破綻しているのだから、この手の質問に答えられるわけがないのだ。


ベッドを共にするどころか、記者が居ない場所では手を繋ぐことさえしない夫婦に、どうやってコウノトリが子供を運んでこよう。


「まあ、結婚して半年でインツォリア子爵家には子供が出来たから、どうしても比べられるわなぁ・・」


当然だ、あそこの夫婦は正真正銘本物の夫婦なのだから。


本当のおしどり夫婦を取材したいのならば、ぜひ兄夫妻の所へどうぞ、と言えるものなら言ってしまいたい。


が、多くの社員と取引先を抱える経営者として、そんなことは絶対に出来なかった。


「奥方のフォローをちゃんとしてやれよ?」


「・・・分かってる」


が、恐らく、リーシアは夫のフォローを必要としてはいないのだ。


そもそも、愛し愛されて結婚した夫婦ではないのだから。


今度は行儀のよいノックの音と共に、副社長の秘書が顔を覗かせる。


「副社長、マルツァーノ工房の社長がお見えです!」


「ああ!すぐ行く。んで、今日は飲みに来るのか?」


「ああ・・・行く」


「お前なあ・・外面ばっか良くしてねぇで、たまには早く帰って奥方を労ってやれよ、そのうち三下り半突きつけられるぞ?」


「・・・万一そうなったら、お前に慰めて貰う事にするよ」


「ったく・・・んじゃあ、夜に店でな」


糠に釘だと諦めた様子のバートンが、片手を上げて咥え煙草を秘書の差し出した灰皿に押し付けて部屋を出ていく。


静かになった社長室で、それまで沈黙を保っていたマーカスが丸眼鏡を押し上げて気の毒そうにレオを見た。


「社長に必要なのは、労いよりも、まずは歩み寄りですよ」


「煩いな・・」


分かり切った事を言うな、と苦い顔になって、マホガニー材の執務机に置かれた電話を引き寄せる。


カレンダーを確かめてから、ダイヤルを回した。


聞こえて来たのは、大通りの花屋の名前だ。


名前を名乗ると、途端店主の声が高くなるのはいつもの事だった。


『アレンジメントのご要望ですよね?今回はどんなお色にしましょうか?』


「先週、妻と出かけた時のキャプリンが菫色でとても良く似合っていたので、出来れば同じようなイメージで」


『承知いたしました!夕方にはいつも通りお届けしておきます』


「いつもありがとう。よろしく」


受話器を置くと同時に、今度はマーカスが深々と溜息を吐いた。


「そういう気遣いは出来るのに・・・どうして・・」


「言うな」


「奥様に仰ったらどうです?偽物だったのは最初だけだって」


「マーカス」


「だからいつまで経っても片思いなんですよ」


「煩い」


これはもう、仮面夫婦を始めてからの習い性のようなものなのだ。


最初は、純粋な感謝の気持ちから始めたそれが、いつからか義務に変わって、今や必然となっている。


どれだけ言葉を尽くしても、甘い眼差しを向けてみても、彼女は全て演技だと受け取るのだ。


必要に駆られてレオが妻を大切に扱うのだと思い込んでいる。


この街で暮らす限り、インツォリア夫妻は、おしどり夫婦でなくてはならないからだ。


「初めて花束を贈った時は・・・薔薇だったな」


未決裁書類の箱を引き寄せながら、頬杖をついたレオは振り返るように目を伏せる。


インツォリア夫人としての役目を全うすることが、自分に課せられた使命だと受け止めたリーシアは、結婚してから一度もこの夫婦生活について言及したことが無い。


話し合う必要はない、と感じているようだった。


最初の伝え方を誤った自覚はあったが、それがこんなに長く続くとは夢にも思わなかったのだ。


可憐なプリムローズの花束を差し出した時、リーシアは目を瞬かせて頬を綻ばせた。


これ以上ない位、立派に妻としての役割を果たしてくれている彼女への、ささやかなお礼の気持ちだった。


そして、二度目に花束を贈った翌日、その事が新聞記事になった。


献身的に夫を支える妻への感謝を忘れない、レオの愛情深い行動に、街の人々は賞賛の声を贈った。


リーシアは眉根を寄せて、もう花束は必要ない、と言った。


それなら別の方法を、考えていた矢先、大通りの花屋の前で、店主に声を掛けられたのだ。


最近奥様にお花を贈られませんね、と。


姉妹揃ってインツォリア家に嫁いだことで、街一番の有名人となってしまったインツォリア夫妻にとって、噂程恐ろしい物は無かった。


リーシアを娶ってから、女性誌を取り扱う出版社や化粧品会社との契約が一気に増えた。


言うまでもなくおしどり夫婦効果である。


互いを尊重し合い、慈しみ合うまさに理想の夫婦と呼ばれている自覚があったレオは、即座に笑顔を浮かべて大きな花束を購入した。


最近忙しくて花屋に立ち寄る事が出来なくて、と言い訳を口にすれば、店主が配達も出来ますよ、と笑顔で応じて、それ以降、こうして定期的に花を贈るようにしている。


花よりもっと贈るものは他にあるだろうに、と思いながら。

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