第3話 仮面夫婦の始まり
インツォリア家から、縁談の申し込みが来たのは、パーティーから五日後の事だった。
カンティーナタウンの一等区画に大きなタウンハウス持ち、列車で二時間程移動した片田舎のトレヴェントに領地を持つインツォリア子爵家の名前は、カンティーナタウンに暮らす者なら一度は耳にしたことがある名家だ。
数年前にインツォリア家の令息が興した印刷会社の名前の方が、ここ最近では有名になりつつある。
そんな名家と、アルネイス家には、当然ながら縁もゆかりもない。
縁談が舞い込むはずはないので何かの間違いだろうと思ったが、古参の使用人が、間違いなくインツォリア家の家紋入りの手紙だと太鼓判を押したことで事態は一変した。
療養中の父親にあてた手紙の内容は、先日のパーティーで、アルネイス家のリーシアを見初めた為、縁談を申し込みたいという内容だった。
妹への初めての縁談に大はしゃぎのエレーナは、早速手紙に書かれている訪問予定日に向けて、クローゼットの中身を確認し始めた。
お客様を、それも、子爵を迎えるに相応しい装いを、数少ないワードローブの中からどうにか作り出さなくてはならない。
使用人と、大騒ぎで古びた階段を上っていくエレーナを上の空でぼんやりと眺めていたら、車椅子の父親が皺の増えた眦を眇めてリーシアを呼んだ。
「パーティーというのは、先日お前の友人が招いてくれた交流会の事だね?」
「ええそうよ」
「そこで、インツォリア家のご令息と知り合ったのかい?」
「全く記憶にないわ・・」
ルイス以外の人間とは挨拶すらしていないのだ。
ひたすら胃袋を満たした直後に、エレーナのアクシデントがあったので、早々にパーティー会場を出る羽目になったので。
「誰とも言葉を交わしていないなら、母さんに似たきみの容姿に惹かれたのかもしれないね。母さんは本当に美人だったから」
「父さまの親バカぶりは有難いけれど、私は美人ではないわ。それに、レイより先にお嫁には行けないわよ」
姉のエレーナは、今年24歳になる。
見た目はずっと若く見えるが、やはり順番的には姉が先に嫁ぐべきだろう。
そもそもこの縁談に信憑性があるのかと、疑う気持ちが拭いきれない。
だって本当に心当たりが・・・
「あ!!!!」
「どうしたんだい?」
「あ・・った・・・かも・・しれないわ・・・」
「言葉を交わした男性がいたんだね?」
「ええ・・・確かに・・・一人だけ・・」
トライフルを勧めてくれた、人好きのする笑顔を思い出して、まさか、そんな、と胸が躍った。
「どんな方だった?好きになれそうかい?父さんたちの事は心配しなくていいから、きみの心のままに決めればいい。そりゃあ勿論、娘がお嫁に行ってくれれば心配事は片付くが、思いを寄せられない相手と無理に添い遂げる必要はないんだよ?縁談を断っても、家には失うものが何もないんだからね」
父親からの優しい言葉に、こくこくと頷いて、熱くなる頬を押さえる。
「素敵な方だったわ・・・優しくて・・」
「そうか!それなら良かった。では、前向きに検討する、とお答えして構わないね?」
「ええ・・・でも、本当にいいのかしら?レイを置いては行けないわ。もしも、縁談が纏まったとしても、婚姻はレイの嫁ぎ先を決めてからにして貰えないかしら」
「シア、きみは本当にエレーナの事が気掛かりなんだね・・・」
「だって、レイは放って置いたらこのまま一生布地に埋もれたままで一生を終えてしまうかもしれないのよ?」
おっとりとした彼女の事だから、好きなお針子仕事を続けて、細々と食べて行けるなら問題ないとあっさり受け入れてしまうだろう。
リーシアとて、つい先日まで一生この家で家族と一緒に暮らすつもりだった。
けれど、別の未来が指し示されて、初めて気づいたのだ。
今からでも、なんにも遅くない事を。
女性の社会進出が浸透して来て、昔より婚期は比較的遅くなっているし、エレーナは見た目がまるで二十歳以下なのだ。
小柄な事もあって、未だに時々女学生に間違われたりする。
姉妹の欲目抜きに見ても、エレーナは可愛らしい女性だ。
リーシアと同じように、誰かに見初められないとも限らない。
何としてでも彼女に素晴らしい縁組を用意しなくては。
数日後に迫ったインツォリア家の来訪よりも、姉の未来が気になってしまうリーシアは、もはや妹ではなく年頃の娘を持った母親のようだ。
「とりあえずきみは、次にお会いするインツォリア家のご令息と、自分の事を考えなさい。エレーナの心配なら、父さんがするから」
弱弱しい笑みを浮かべる父親を勢いよく振り返ってリーシアは言った。
「これまでの人生で、父さまに一度だってそんな余裕あった!?」
次から次へと友人の借金を肩代わりしたり、押し付けられたりして、とことん金に縁のない人生を歩んできた父親が今日この日までどうにか生き長らえて来られたのは、優秀な妻と、子供たちのおかげである。
「す・・すまない・・・シア・・・父さんも・・父さんも・・」
妻亡き後すっかり弱り切った父親が、しょんぼりと項垂れる様を前にして、リーシアは自分の失言に気づいた。
「ごめんなさい、父さま。言い過ぎたわ。私とレイの事は心配しないで、もう部屋で休んで」
「気苦労ばかりさせて・・本当にすまない、シア・・」
父親の威厳など一度も見たことの無いリーシアだが、父親の温かい性格は大好きだった。
貧しさとは常に隣り合わせの日々だったが、家族の温もりだけはいつだって感じられる環境で育てられたことを、本当に感謝している。
だから、自分を見初めてくれたトライフルの彼とも、そんな温かい家庭を築けたらと夢見ていたのだ。
そうして、迎えた運命の日。
アルネイス家の、日当たりの良いこじんまりとした応接でリーシアを待っていたのは、トライフルの彼、では無かった。
「お待たせして申し訳ございません。こちらが、私の娘、リーシアです」
車椅子の上から、ドアを開けて軽く頭を下げたリーシアを手で示した父親に向かって、インツォリア家の令息は驚いたように声を上げた。
「・・・え?」
親バカを自負している父親は、着飾った娘に見惚れた令息の感嘆の声だと受け取ったようだが、顔を上げて彼と向かい合ったリーシアも全く同じような声を上げる事になった。
「・・・え?」
昨夜寝る前に思い出したトライフルの彼とは正反対の、硬質な印象を抱かせるその男は、なんとあのパーティーで、エレーナが赤ワインをかけた男性だったのだ。
状況が読み込めず、顔を見合わせる事しばし。
「失礼・・・こちらの・・お嬢さんが・・・ミズ・リーシア?」
「ええそうです!美人でしょう?亡くなった妻に良く似ているんですよ」
リーシアの縁談が舞い込んでから、ここ数日体調の良い父親は頬にも赤みが差していくらか健康そうに見える。
「リーシア・・・」
呆然としながら名前を呟いたインツォリア家の令息が、思い出したように背後を振り返った。
見ると、開け放たれた窓の向こうでは、付添人の男性と、エレーナが楽しそうに庭を歩いている。
釣られるように視線を向けて、愕然とした。
まさにいまエレーナの隣にいる男性が、トライフルの彼だったのだ。
「あ・・あの、失礼ですが・・・あちらの男性は・・?」
「ああ・・・俺の兄です・・」
「は・・お、お兄様・・」
「あの・・兄の隣に居る女性は?」
「私の姉、エレーナです」
そこで、改めて二人は顔を見合わせた。
そして、お互いの認識が誤っていたことに、ほぼ同時に気づいた。
「リー・・と言うのは・・・きみの愛称?」
「私がリーと呼ばれることは殆どありませんが・・・ああ、姉の事を私だけはレイ、と呼びます」
「・・・何てことだ・・」
小さな呟きは、リーシアにも、父親にも聞こえなかったけれど、唇の動きは鮮明に見て取る事が出来た。
そして、リーシアも全く同じ気持ちだったのだ。
どうしようか迷って、もう一度庭に目を向ければ、いつになくはしゃいだ様子で笑顔を浮かべるエレーナの姿が見えた。
そして、彼女を見つめる彼の目が、とびきり優しい事も。
目の前に薄い紗幕が下りて来たように、自分の未来が灰色になる瞬間を見た。
目の前の彼との間に始まらなかった事が、庭を歩く二人の間では、すでに始まっているのだと、直感で分かった。
それは、インツォリア家の次男も同じようだった。
小さく息を吐いてから、改めてリーシアと、父親に向き直る。
「挨拶が遅れて申し訳ない。レオ・インツォリアと申します。爵位は持たず、カンティーナタウンで印刷会社を経営しています」
「インツォリア印刷は有名ですからね!いやあ・・・私が生きている間にこんな素晴らしい縁談を結べるとは・・本当に夢のようです。娘も乗り気のようですので、ぜひこのままお話を勧めて頂きたい」
頬を強張らせる二人を朗らかな笑顔で見つめながら、父親が呑気にお茶の用意を命じた。
「狭い我が家ですが、どうぞ、ご自宅だと思ってお寛ぎ下さい」
こうして、二人にとって最も不本意な婚約が決定した。
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