第5話 仮面夫婦のすれ違い

異業種交流会と言う名のパーティー会場で、一人だけ場違いな雰囲気を醸し出している女性を見かけた時、一瞬既視感が過った。


良く似た存在を、誰より自分が知っていたからだ。


主催者夫妻への挨拶もそこそこに、名刺交換に興味無いからー、と中央のテーブルに料理を取りに向かった兄の顔が過って苛立つと同時に何となく放っておけなくて、彼女を視線で追いかけ始めた。


どこかの企業人とはどうしても思えない、小柄な後ろ姿は女学生の様にも見えた。


人の隙間を縫うのが下手くそな足取りで、フラフラとドリンクコーナーにたどり着いた彼女が、赤ワインを二つ注文するのを見て、なんだ、成人しているのかとホッとした。


そのまま目を離せずにいると、彼女がくるりと振り向いて、こちらに向かって歩いて来る。


両手に持っている赤ワインのグラスがフラフラと揺れて何とも危なっかしい。


高級スーツとパーティドレスが集まるこの会場で、その足取りは頂けない。


不安に思いながら見守っていると、案の定こちらにぶつかって来た。


上手く避けたつもりが躱しきれず、スーツの袖口にシミが出来る。


まあ、他の誰かが被害を被るよりは、と思いながら目の前の加害者に視線を向ければ。


今にも泣き出しそうな震える声で、すみません、と謝罪された。


威嚇したつもりはないし、睨んだつもりもない。


温厚そのものの外見をしている兄と並ぶと、怜悧さが際立つと呼ばれる容姿は、大人の女性にはこぞって受けが良いのだが、彼女には違ったようだ。


俯く彼女の髪に結ばれているラベンダーのリボンを思わず撫でてやりたくなって、自分の感情に驚いた。


誰かに庇護欲を掻き立てられたことは一度も無かったのだ。


子爵家の嫡男としてはぎりぎり及第点という兄は、どうにもぽやんとした性格で、領民からは慕われているが、領地経営の手腕は皆無な男だったので、領民同士の揉め事を上手く収めること以外はほぼ全てを父親と、レオと家令が取り仕切っていた。


インツォリア子爵は、妻に似た長男の人柄をこよなく愛しており、領民から慕われる良い領主であれば、家さえ潰れなければそれでよいという考え方だったので、心配事の全てはレオが引き受ける事になった。


家の中がそんな調子なので、当然の事ながらレオが異性に求めるものは、手が掛からず自立しており仕事への理解がある事だった。


だから、誰かを庇ったり、守ってやりたいという感情が自分のなかに芽生えた事に衝撃を受けた。


オロオロと髪に結ばれたリボンを解いて差し出す小さな手からそれを受け取って、会場を後にした数時間後には、もう一度会いたいと思ってしまったのだ。


名前を名乗る事もせず、尋ねる事も無く帰宅してしまった自分の愚かさを罵りつつ、パーティーの主催者夫妻で連絡を入れた。


ラベンダーのリボンを結んだ、レイ、もしくは、リイという名前の女性、と尋ねると、主催者夫人が嬉しそうに私の友人よ!と弾んだ声を上げた。


リーシア・アルネイス。


彼女の名前を聞いてすぐに、アルネイス家について調べた。


母親はすでに亡くなっており、病気療養中の父親と、姉と町外れの屋敷で暮らしている事。


父親が作った多額の借金のせいで、困窮した生活を送っている事。


幸い、インツォリア家は裕福で、自分が経営している印刷会社も利益を上げているので、持参金は必要ない。


人柄を重視する父親なので、リーシアは問題なく受け入れて貰えるだろうし、万一にも家柄の話が出ても、彼女はれっきとした男爵令嬢だ。


問題が何もない事を確認した後、兄より先に妻を娶る許可を父親からぶんどる勢いで貰って、すぐにアルネイス男爵に手紙を書いた。


そうして、迎えた顔合わせ当日。


応接のドアを開けて、軽く会釈してみせたリーシアを見た瞬間、レオは間違いに気づいた。


どこでどう間違ったのか、レオが見初めた女性の妹がその場に現れたのだ。


確かに、彼女は赤ワインを零したその場に居合わせた女性だった。


あの日出会った女性は、求婚したリーシアの姉、エレーナだと気づいた時には、同行していた兄が、蕩けるような眼差しで彼女を見つめていた。


パーティー会場で、あんなに怯えた表情を見せていたエレーナは、嘘のような晴れやかな笑顔を浮かべて兄と見つめ合っている。


愕然とした気持ちで視線を戻せば、リーシアはどこか遠い眼差しで、庭を見つめていた。


野心の強い女性達は、レオを好んで近づいて来るが、一般的に女性受けするのは間違いなく兄であるスティーブンの方だ。


人好きのする笑顔を浮かべれば、周りはいつだってスティーブンを助ける。


数字はからきし駄目で、厄介ごとを頼んで申し訳ないと、彼が自ら家令に頭を下げて助力を乞えば、忠臣は寝る間を惜しんで領地経営に力を注いでくれた。


領地で起こる諍いも、スティーブンが間に入ると不思議と収まる事が多い。


なんでも自分で処理をして、白黒つけたがるレオでは引き出せないやり方や答えを、スティーブンはいとも簡単に見つけてしまう。


今回の縁談だってそうだ。


付添人が必要だろうから、暇だし、と付いてきたと思ったら、いつの間にか意中の相手を見つけて虜にしてしまっているではないか。


やりきれなさと、憤りと、なけなしのプライドが勝って、結婚を申し込みたかった相手が違う、とは言い出せなかった。


意地でも負けを、間違いを、認めたくなかったのだ。


ぎくしゃくしたまま始まった交際は、当然上手くは行かず、数回目のデートで、この婚約を破談にした方が良いかとリーシアに相談したが、療養中の父親が乗り気である事を理由に断られた。


そのひと月ほど後に、予想通りスティーブンとエレーナの縁談が纏まり、さらに後に引けなくなった二人に追い打ちをかけるように、アルネイス男爵が急逝した。


持参金と呼ぶには細やかすぎる遺産を手に、行き場を失くした姉妹を引き受けたのはインツォリア家だった。


スティーブンとエレーナは早々に新居となる領地に戻って新生活を始め、父親の死を悼んで挙式はしないままに、リーシアとレオの新婚生活も始まった。


短い交際期間の間に、何とか歩み寄ろうと双方が努力を重ねた結果分かった事は、二人には全くと言っていいほど、共通点が無いということだけだった。


自ら友人と共同出資で印刷会社を興す程事業に熱を上げているレオは、印刷機械や、タイプライター、電話機、テレビ、自動車といった機械が好きだ。


博物館に行っても、アンティークの飛行機の骨組みや仕掛け時計を何時間でも見ていられる。


反対に、リーシアは芸術には全く興味がなく、好きな事はお菓子作りで、当然ながら機械の構造なんて知りたくもない。


婚約期間中に、何度かインツォリア家のタウンハウスに招待して、共通項を見出そうと図書室へ案内したが、彼女が興味を示したのは古い菓子のレシピ本の写しだった。


ちなみにレオは甘いものが得意ではない。


とことん真逆を行く二人の中で、婚約期間中に芽生えた共通認識は、相手に何かを求めない事、だった。


父親を亡くしたリーシアには、帰る家がない。


レオとしても、自分がきっかけで決まってしまった結婚なので、破談にするわけにはいかない。


何より、スティーブンとエレーナは幸せな婚約期間を過ごして、結婚の日を心待ちにしているのだ。


二人の幸せに泥を塗るような真似は出来ない。


かけらの恋情も無いまま、連帯感だけを頼りにどうにか距離を縮めようと四苦八苦していたある日、レオはリーシアの秘密を知ってしまった。


彼女が男爵家の屋敷を引き払う際に持ってきた数少ない手荷物の中に入っていた日記を、偶然目にしてしまったのだ。


そこには、インツォリア家から縁談申し込みの手紙が届いて嬉しくて堪らない、という内容が書き綴ってあった。


パーティー会場で、トライフルを勧めてくれた彼が、運命の相手だったのだ、と書かれた一文を見た時に、顔合わせの当日、自分と同じように庭を眺めた彼女が、どんな気持ちを抱いていたのかすぐに理解した。


リーシアがこの縁談に前向きだ、と男爵が口にした時には、困窮した男爵家を救って貰えることを見込んで前向きになったのだと理解していたが、実際の所は違ったのだ。


彼女は、あの日パーティー会場でほんの二、三言、言葉を交わしたスティーブンに思いを寄せていたのだ。


レオが、エレーナに惹かれたように。


どうにか彼女に好かれようとあれこれ頭を悩ませていたレオにとって、その事実は大きな衝撃だった。


少なくとも、男爵家を救って貰えるという目的で自分を選んでくれたのなら、努力次第で夫婦としてやっていける自信があった。


けれど、別の誰かに思いを寄せているとなれば話は別だ。


婚約者となってからは、エレーナとは適切な距離で接しており、すでに思慕も忘れ去っていたレオは、まさにこれからリーシアと愛を育もうとしていたところだったのだ。


様々な感情が浮かんでは消え、また浮かび、婚約期間を終える頃には、これ以上の夫婦関係は望めないという結論に至った。


レオが暮らすアパルトマンの空き部屋をリーシアの私室としてあてがい、必要な時には妻として公の場に立つこと、それが、レオがリーシアに望んだ役割だった。


記念すべき結婚初夜は当然別々。


翌朝、いつも通り仕事に行くレオを見送りに出て来たリーシアは、一睡もしていないようで目の下にクマが出来ていた。


もしや自分が部屋を尋ねる可能性を考えて、一晩中起きていたのかと僅かな希望とも期待とも言えない思いが過ったが、すぐに、同じ日に初夜を迎えたスティーブンとエレーナの顔が浮かんで、その考えをかき消した。


兄を思って眠れなかったに違いないと思ったのだ。


これから夫婦としてどうして行くのか、つまり、子供はどうするつもりなのか、と遠回しに尋ねられて、咄嗟にこう答えていた。


「きみが思うよりずっと男は単純でね、心が無くても子を作る事は出来る。けれど、それはフェアじゃないだろう?思いを寄せていないまま純潔を奪う趣味はないよ。きみは、外向きの妻として俺の側に居てくれればそれでいい」


この日を境に、リーシアはレオの完璧な外向きの妻として振る舞うようになった。


それはもう申し分ない程に。


夫の会社の利益に繋がりそうな集まりには欠かさず出席し、印刷会社の経営状態が良好である事をアピールし、夫の人柄をさり気無く褒め称える。


夫婦同伴でパーティーに参加すれば、重要人物の名前は勿論家族構成から趣味までを話題に上げて、主人から話を伺っています、とレオを立てる。


そんなことが数回続いた後には、カンティーナタウン一番のおしどり夫婦が誕生していた。


良妻を得てから、会社の経営は上を向く一方だ。


新たに結んだ契約には、少なからずリーシアの助力が絡んでいる。


おっとりとしたエレーナと結婚したスティーブンは、領地に引っ込んで自由気ままな子爵生活を夫婦で満喫しており、時折届く手紙には、いつもエレーナの些細な失敗が面白おかしく綴られていた。


肩肘張らずに暮らせるのは、穏やかな彼女が居てくれるからだとお決まりの〆の文句を読むたびに、リーシアを選んで良かったと心から思える。


そう、心から思えるのだ。


エレーナと結婚すれば、微笑ましい夫婦生活は送れただろうが、ここまで会社を大きくすることは出来なかっただろう。


今やリーシアは、レオにとって無くてはならないパートナーである。


悲しい事に、仕事上の、ではあるのだが。

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